あの日まではただの可愛い女《ひと》。
葵の黒目がちの目には何の表情も浮かんでいないように見れた。ぽっかりとしていて、桜は『軽蔑されたな』、と思って力が抜けそうになる。ゆるく抱きしめられてはいたが抜け出そうと思えば抜け出せた。それくらい力が入っていない。
桜は、半泣きになってはいたが、涙は落とさずに葵の体から身を引こうと身じろぎをした。
その瞬間に、強い力で葵が桜の体を抱きしめた。
「葵…?」
「体は平気だったんですか?」
もう5年前のことなのに、そう桜は思って微かに笑う。
「――もう覚えてないよ」
それはうそだった。まだ鮮明にあの夜にあったことを覚えている。
家に戻った瞬間に、これ以上はないというくらい吐いた。胃液も出なくて苦しいという経験を桜は初めて味わった。もちろん初めて味わった身体に残る異物感とその痛みもツキツキと、桜にあれは実際あったことだという事実を突きつけた。
その日着ていた服は下着から全てゴミ箱に放り込んで捨てた。
そこからは自分の醜さに、反吐が出て何も食べれなくなった。
夜は眠れないから、酒量だけが増えた。誰とも雑談が出来る状況ではなかったから、家でひたすら味もしない状態でアルコールを飲んで、何とか眠りに落ちた。
志岐から与えられた痛みが体から去るにつれ、その傾向は拍車をかけて、1ヶ月で5キロ以上体重が減った。あまりに痛ましい桜の様子に介入してきた隆《りゅう》に、同時に担当していたプロジェクトのメインからはずされて、迷惑をかけるに至った時は、会社を辞めることも考えた。
何が自分は傷つかない、だ。ほんの一ヶ月ほどで、自分が積み上げてきたものが崩れていた。
辞めれなかったのは、単純に隆が許さなかったからだ。
プロジェクトのメインから抜けるよう言い渡される前に、隆に一体何があったかを長時間、問いただされた。
頑として『男女のことですから』以外に何も言わない桜に、隆は『じゃー。お前がそんなだんまり決め込むなら、志岐の言い分と周辺情報からしか判断できない。そうなるとお仕置きするしかない。オマエ3週間ほど会社休め。決定的にミスが出ると困るから、今のプロジェクトはフォロー役に引け。あと、志岐は俺の目に触れないところに飛ばすからな』と、自分がどういう事態に陥ったかを思い知らされた。
志岐の処分に関しては、逆に自分をと、言い募ったが、もう遅いし、お仕置きだって言っただろう、と一言で終了だった。隆がそこまで簡単に人間を処分するところを初めて見たし、けんもほろろというくらいの怒り様を浴びるのも初めてだった。その後の人事からの呼び出しで隆がどれほど無茶を行ったかも悟った。
3週間の長期休暇の後で、人事からは隆にパワーハラスメントの疑いがあること、それは桜に対して行ったということで、どれほど否定しても、説明しても、心療内科通いと一年間の業務の限定という処分は変わらなかった。桜だけでなく、隆自身も定期的にハラスメント講座を受講させられることになっていた。
多分完全に、隆と志岐の上司である安田の間で何らかのシナリオが出来ていたのであろう。速やかに志岐を飛ばす上でふたりの間で何らかの協議がなかったはずがない。隆が一体何を引き換えに、ライバル関係にある安田と取り決めたのかはいまだに謎だ。
ひとつだけ心当たりはあったが、まさかそんなカードを隆が切ったとは桜は考えたくなかった。
そして、あれほど、自分が言ってることを取り合ってもらえない経験はなかった。
志岐の異動については、アジア圏のビジネスの拡大のためというプレゼンを、もともと行っていたが、隆自らが社長にこの案件は早期に行うべきだ、と緊急的に旧正月明けをめどに準備を整えるために早急に人材を異動させるという無茶な主張を通した。志岐だけでなく、桜が知る限り他に2人の人間もあわせて異動を申し付けられた。
もちろんプレゼンの内容は無茶なものではなく、有効なものではあったし、異動すべき人間は、志岐以外は、確かにもともとそのプラン上に名前が載っていた人材ではあったが。会社として期待のプロジェクトということで、志岐は逆にキャリアの積み重ねとして異動させられる体裁であった。
一方、自分が抜けた穴を結果として隆に押し付けざる終えなかったことも泣きそうになった。自分が原因でそうなっているから、弱音も吐けず、辞めることもできず、ひたすら黒子でできる限りの手を打つしかなかった。
それまで失敗らしい失敗もせず、人を傷つけることもなくやってきただけに、この処分は心底堪えた。隆からのメッセージはひとつだけだ。『逃げるな』と。
3週間の休みの間に、自分なりに一人で反省点を見つける気力もなかったから…、というかそのときは、隆にここまで厳しくされたことがなくて、見放されてしまったという気持ちしかなかった。だから、仕事の研究のためと名目だけ自分に立てて、実は単純に気分転換ではじめたオンラインゲームの世界が、まさか自分の気持ちを奮い起こしてくれるとは思ってもみなかった。
オンラインゲームの世界で初めて、普段接しないような人たちや、カエデの鈴木桜ではなく、ただのサクラという人格に友人が出来た。作っているつもりはなかったが会社員の自分というのはやはり何か人に対して壁を作っていたのかもしれない。まったく関係ない世界に触れること、素の自分に近い自分を出しても許されることが桜を知らないうちに癒した。
会社に改めて出社したときに、なんとか戦っていくしかないという気持ちだけがあった。確かにこれ以上、隆に迷惑をかけられなかった。振り返ってみると、桜に自分の気持ちをリセットするために与えられた3週間が、隆が一人で持ちこたえられたぎりぎりの期間であった。ただ当時はそんなことを考える余裕はなく、休みを終えて出てきて、せめてパワハラ疑惑は晴らさなければならない。そう思って頑として、心療内科の治療は受けず、定期的なカウンセリングだけで最低限乗り切ろうと思った。
「今考えると、もしかしたら隆さんは知ってたのかもしれない」
「え?」
「私が、志岐さんを傷つけたこと」
葵の体温に勇気付けられて、過去を振り返るとそういう符丁がところどころにあったことに気がついた。
桜は、半泣きになってはいたが、涙は落とさずに葵の体から身を引こうと身じろぎをした。
その瞬間に、強い力で葵が桜の体を抱きしめた。
「葵…?」
「体は平気だったんですか?」
もう5年前のことなのに、そう桜は思って微かに笑う。
「――もう覚えてないよ」
それはうそだった。まだ鮮明にあの夜にあったことを覚えている。
家に戻った瞬間に、これ以上はないというくらい吐いた。胃液も出なくて苦しいという経験を桜は初めて味わった。もちろん初めて味わった身体に残る異物感とその痛みもツキツキと、桜にあれは実際あったことだという事実を突きつけた。
その日着ていた服は下着から全てゴミ箱に放り込んで捨てた。
そこからは自分の醜さに、反吐が出て何も食べれなくなった。
夜は眠れないから、酒量だけが増えた。誰とも雑談が出来る状況ではなかったから、家でひたすら味もしない状態でアルコールを飲んで、何とか眠りに落ちた。
志岐から与えられた痛みが体から去るにつれ、その傾向は拍車をかけて、1ヶ月で5キロ以上体重が減った。あまりに痛ましい桜の様子に介入してきた隆《りゅう》に、同時に担当していたプロジェクトのメインからはずされて、迷惑をかけるに至った時は、会社を辞めることも考えた。
何が自分は傷つかない、だ。ほんの一ヶ月ほどで、自分が積み上げてきたものが崩れていた。
辞めれなかったのは、単純に隆が許さなかったからだ。
プロジェクトのメインから抜けるよう言い渡される前に、隆に一体何があったかを長時間、問いただされた。
頑として『男女のことですから』以外に何も言わない桜に、隆は『じゃー。お前がそんなだんまり決め込むなら、志岐の言い分と周辺情報からしか判断できない。そうなるとお仕置きするしかない。オマエ3週間ほど会社休め。決定的にミスが出ると困るから、今のプロジェクトはフォロー役に引け。あと、志岐は俺の目に触れないところに飛ばすからな』と、自分がどういう事態に陥ったかを思い知らされた。
志岐の処分に関しては、逆に自分をと、言い募ったが、もう遅いし、お仕置きだって言っただろう、と一言で終了だった。隆がそこまで簡単に人間を処分するところを初めて見たし、けんもほろろというくらいの怒り様を浴びるのも初めてだった。その後の人事からの呼び出しで隆がどれほど無茶を行ったかも悟った。
3週間の長期休暇の後で、人事からは隆にパワーハラスメントの疑いがあること、それは桜に対して行ったということで、どれほど否定しても、説明しても、心療内科通いと一年間の業務の限定という処分は変わらなかった。桜だけでなく、隆自身も定期的にハラスメント講座を受講させられることになっていた。
多分完全に、隆と志岐の上司である安田の間で何らかのシナリオが出来ていたのであろう。速やかに志岐を飛ばす上でふたりの間で何らかの協議がなかったはずがない。隆が一体何を引き換えに、ライバル関係にある安田と取り決めたのかはいまだに謎だ。
ひとつだけ心当たりはあったが、まさかそんなカードを隆が切ったとは桜は考えたくなかった。
そして、あれほど、自分が言ってることを取り合ってもらえない経験はなかった。
志岐の異動については、アジア圏のビジネスの拡大のためというプレゼンを、もともと行っていたが、隆自らが社長にこの案件は早期に行うべきだ、と緊急的に旧正月明けをめどに準備を整えるために早急に人材を異動させるという無茶な主張を通した。志岐だけでなく、桜が知る限り他に2人の人間もあわせて異動を申し付けられた。
もちろんプレゼンの内容は無茶なものではなく、有効なものではあったし、異動すべき人間は、志岐以外は、確かにもともとそのプラン上に名前が載っていた人材ではあったが。会社として期待のプロジェクトということで、志岐は逆にキャリアの積み重ねとして異動させられる体裁であった。
一方、自分が抜けた穴を結果として隆に押し付けざる終えなかったことも泣きそうになった。自分が原因でそうなっているから、弱音も吐けず、辞めることもできず、ひたすら黒子でできる限りの手を打つしかなかった。
それまで失敗らしい失敗もせず、人を傷つけることもなくやってきただけに、この処分は心底堪えた。隆からのメッセージはひとつだけだ。『逃げるな』と。
3週間の休みの間に、自分なりに一人で反省点を見つける気力もなかったから…、というかそのときは、隆にここまで厳しくされたことがなくて、見放されてしまったという気持ちしかなかった。だから、仕事の研究のためと名目だけ自分に立てて、実は単純に気分転換ではじめたオンラインゲームの世界が、まさか自分の気持ちを奮い起こしてくれるとは思ってもみなかった。
オンラインゲームの世界で初めて、普段接しないような人たちや、カエデの鈴木桜ではなく、ただのサクラという人格に友人が出来た。作っているつもりはなかったが会社員の自分というのはやはり何か人に対して壁を作っていたのかもしれない。まったく関係ない世界に触れること、素の自分に近い自分を出しても許されることが桜を知らないうちに癒した。
会社に改めて出社したときに、なんとか戦っていくしかないという気持ちだけがあった。確かにこれ以上、隆に迷惑をかけられなかった。振り返ってみると、桜に自分の気持ちをリセットするために与えられた3週間が、隆が一人で持ちこたえられたぎりぎりの期間であった。ただ当時はそんなことを考える余裕はなく、休みを終えて出てきて、せめてパワハラ疑惑は晴らさなければならない。そう思って頑として、心療内科の治療は受けず、定期的なカウンセリングだけで最低限乗り切ろうと思った。
「今考えると、もしかしたら隆さんは知ってたのかもしれない」
「え?」
「私が、志岐さんを傷つけたこと」
葵の体温に勇気付けられて、過去を振り返るとそういう符丁がところどころにあったことに気がついた。