あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 桜は、思い出すようにとろりとした目で言った。

「同期入社の親友なんだけど、彼女は情報収集が趣味な人でね。でも、この件については、本当に全ての情報がしっかり同じことをいってて気持ち悪いって言ってた」
「それって、普通じゃないんですか?」
「ううん。レイヤーが変わると微妙に情報に差異が出るはずなんだけど、それが驚くほど小さいんだって」

 ああ。やはりある程度どういう類のトラブルか察知していたからこそ、アレほど隆《りゅう》は怒っていたのかもしれない、と桜は思った。何があったかは隆も細かいところまでは知らないのだと思うが、桜がやらかしそうなことくらいは想像はついたのであろう。だから、未だにしつこく折を見て、何があったかを聞いてくるのかもしれない。
 そして、できる限り意図しない情報が出ないように隆なりに流出する情報を決めたからこそ…。オフィシャルの情報以外に、普通は大きな人事については別途噂や思惑への推測が流れることが多い。この件に関しては隆の嫉妬で志岐が中国に飛ばされ、そのパワハラで桜は体調を崩した。それだけが世の中に流れる情報(うわさ)のすべてであった。

「あーもう。自分がだめすぎていやになる」
「桜さんは、なんでも自分で解決しようとするよね」
「え?」

 葵が深くて黒い眼差しで桜を見つめていた。

「俺、ちょっとだけ隆さんって人の気持ちがわかる気がする」
「エト…」

 これはお説教が始まるんだろうか?と少し、桜は冷や汗をかいた。少し身じろぎして葵から体をはがして向き合った。

「きっと…もうきっと志岐さんと話、つけちゃったんですよね?」
「あ…。でもでも、真っ先に葵に話したいと思ったんだよ?」
「……」

 まぁ確かに、この件に関して、葵に頼るという選択肢ははなからなかった。それは桜の中で揺るぎのない事実だ。というか誰にも頼る気がなかった。自分が始めてしまったことだから、自分で処理しなければと思っていた。

「気を悪くさせたなら、ご、ごめん。なんか、葵に話すのと、志岐さんとのことを片付けるのは別のことだと思ったの。なんとなく、彼には自分だけで正面から向き合わないとって」
「正しいんだけど、少しは頼ってほしかったな」
「え?」
「本当は、志岐さんのこと好きだったんでしょ?」
「え? いやそんなことは…」
「今は違うかもだけど、5年前は?」
「あ……」

 5年前…。確かに志岐に対して特別な気持ちを抱いていた。だから、彼になついたのは確かだ。恋ではなかったかもしれないが。

「桜さんは、どうでもいい男にそんな制裁加えれる人じゃないでしょ?」

 少しは心を預けてたからこそ…。そう葵は言外に言った。

「そうなのかな…」

 そうかもしれない。でないと、たぶん、自分の身を放り出すようなあんな大胆な手を打つことはなかっただろう。
 自分は志岐の特別になりたかったんだろうか?
 身を投げ出したときに、彼を傷つけることしか考えてなかったが、それは彼の特別に少しでもなりたかったからなのだろうか?
 桜は、小首をかしげて考えてしまった。もう5年前の感情なんて遠すぎて、片鱗さえも手繰り寄せることは不可能だと思った。つい最近まで自分の中で重く居座っていた感情なのに。志岐と対峙してお互いの落としどころを探したのは数時間前だったが、桜は志岐に対して、その時には何の思慕も感慨も沸かなかったことを思い返した。
 いつの間に、あの震えるような恐怖や志岐に対しての負い目が薄れてしまったんだ?そう桜は疑問に思った。
 
「もうわかんないよ。さっき抱きしめられたときには何も感じなかったし…」

 考えてたことが独り言のように口から出ていたのに気がついたのは、葵がぎゅっと桜を引き寄せたせいだ。

「あっ?」
「抱きしめられた?」
「あー…。うん。なんかいやがらせで…」

 桜にしたらうんざりするような話だった。アレは絶対嫌がらせしかないと、もうその時点で決めてかかっていた。さすがにこの様子だとキスもされたことは言えないということは悟ったが。

「一体どういう風に言われたんです? というかそれ以外にも何かあったでしょ?」
「いやまぁ、なんでしょ。何でそんなことわかったように言うかな。そこ食いつくところじゃないじゃん」
「食いつくところでしょ?」

 桜が隠し事をするときの口調を察知して、少しすねたように葵が言った。思わず桜は笑ってしまう。

「ふっ…」
「桜さん!?」

 ぼろぼろと笑いと一緒に涙がこぼれた。

「な、なんでだろ? わかんない。胸が痛い」

 顔を隠そうと、身をよじって桜は顔を背けたが、そんな桜を葵は桜の頭ごと抱え込んだ。抜け出せず、桜はひたすら葵の胸に頭を預けて涙を流した。

「う~~~……」

 桜はひたすら泣いた。一体何に対して泣いているのか、まったく自分では分析できなかった。ただ胸が痛くて痛くて、泣くしかなかった。

「桜さん、俺には甘えてくれればいいんですよ」
「ふ…っ、た、たのもしいね」
「どんだけ俺が今まで甘やかしてきてると思うんです?」
「ご、ごめん」

 泣きながら茶化してみると真顔で返された。
 もうそうなると、桜はただ泣くしかできなくなってしまった。

 有効と思えばいろんな手を使ってしまう自分にどうにも嫌気がさしていた。本当は志岐に対してプレゼンで対抗することが一番有効な説得方法だと、自分に言い聞かせてそれを行ったのは、彼との間に明確な区切りを作りたかったからだ。それだけ5年前の件との対峙は桜にとって大きなストレスだった。
 もしかすると、気持ちが固まらないまま、志岐に抱かれてしまったことが、今更ながら桜の気持ちにそれが落ちてきたのかもしれない。正直、当時の志岐への気持ちは、どういうものだったかは、まったくわからないが、5年前、自分がとても汚い手を使った事実は消えない。そしてそのフォローを結局隆に押し付けた。心のどこかでそれも期待していたかもしれない。あまりに未熟な自分をどう扱っていいのかわからない。そんなことを考えながらぼろぼろと泣いた。
 自分の汚さに反吐が出そうだ。そう思ったが、涙しか出てこなかった。

 葵は桜を抱きしめ続けた。
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