あの日まではただの可愛い女《ひと》。
――悩みを打ち明けた方がいいよ。
そういわれても、悩みが葵という存在に対してだから、正直本人と話すことはためらわられた。どうしようという気持ちしかなく、そしてそういう場合、桜は仕事をしてごまかすのが常であった。街中はクリスマスソングが鳴り響いていて、それが逆に葵のことを思いださせられた。クリスマス前に二人で会って、プレゼントは渡したが、それ以来葵とは直接会っていない。クリスマスイブの休みはどうする?と言うメールは来てはいたが、『女子会するんだ』と返事したら、『それはそれで楽しそうだね』と言う言葉が返ってきていた。
葵に会いたいけれども、自分の気持ちが鎮まるまでは会えない。
なぜか桜はそう思い込むように仕事に没頭していた。
一人で残業をしていたら、ふと、手元に影が落ちてきた。
顔を上げると志岐が微笑んでいる。
「桜、そんなに仕事忙しいのか?」
「そ…うですね。なんとか旧正月までにまとめたいのと、お正月しっかり実家に帰りたくて」
そう、ここ数日で言いなれた言い訳を口に乗せて微笑んだ。
「桜はずっとそうやっていくのか?」
「どういうことでしょう?」
冷汗が腋を伝う気がした。
ゆっくりとそっと、志岐が桜の手首を持ち上げた。
「一人で――」
ドクリと心臓が大きく鼓動を一つ打った気がした。
思わず持ち上げている手首を眺めてしまう。ただ、手を引けば、あっさりと開放されて、ほっとする。
「僕は桜の恐怖を知っているから、今何かに脅えているのがよくわかる」
自嘲の笑みを乗せて志岐が桜にやさしく告げた。
「お、脅えてなんか…」
そう言葉をのせるも、自分でも弱いのは自覚できた。
「一人でそんなにがんばってもしょうがないだろ?」
「それはそうですけど…」
「君を見るたびに思っていたことだけど、なぜそこまで苦しもうとするんだ?」
そんなに苦しんでいるんだろうか?
確かに苦しい。苦しいけれども、自分らしくありたいと思うとこうなってしまうだけだ。わざと苦しもうとしたりしてはいない。
「こうしたほうがいいって思って、がんばるのはおかしいことですか?」
「仕事なんて、妥協点は必要だろ? 大体、君はしがらみとか、思惑とかを考えなさ過ぎる」
「そう…でしょうか?」
自分は派閥と言う枠の中ではうまくやってきたほうだと思っていた。
なんといっても、そうでなければ隆が桜をここまで囲い込んだりしないはずだ。
「隆さんが一体君に何を与えてくれている? 今回の役員人事に際して何か約束をくれたのか? 僕がこの部署で隆さんと一緒にやっていくための条件を述べたときに君は僕に何か約束を求めたか?」
そんなこと考えたこともなかった。志岐に対してプレゼンしたときも、確かに諦めてくれというよりも、こういう風にすると志岐の望みとキャリアの方向性が開けるという形で行っただけだった。こちらからこう言うことを段どるから何かを約束してくれとは言わなかった。
「約束なんて…」
「結果として、自分を後回しにしてないか?」
うーん。どうだろう。そう首を傾げてしまう。
自分が自分らしくありたいというのは我を張ることではないと、桜は思っている。
関係者全員が出来る限り、『らしく』やっていければいいと思うからこそ、桜は仕事の大半を捧げている。それが『Life is Style』に通じると思っているからだ。
「そういう君だからこそ、僕は君を欲しいと思ってるんだけど」
桜は大きく目を見開いた。志岐が悪戯が成功した小学生のような目で桜を見ていた。
「本当に桜は……」
桜の驚きが本物なことを確認して、少し苦笑するように言葉を継いでくる。
「僕と付き合うなりすれば、会社での位置も楽になると思わないか?」
「どういう意味、ですか?」
「安田常務派の人間にさりげない妨害を受けることもないし、隆さんに加えて僕というバックボーンも得ることになる」
「それって、志岐さんを利用することになりますよね?」
「大なり小なり人は他人を利用しているだろ?」
すらっと、志岐はなんでもないことのように桜に告げる。いつの間にか桜の机に腰をもたれさせかけてすらっとした両足を伸ばしてリラックスした姿勢で、桜を上から見つめた。
「それだと…」
「え?」
「それだと、気持ちはどうなるんです?」
ふっと志岐が微笑《わら》う。
「いまどきの小学生でも、もっと打算するんじゃないか?」
そんなこと言われても、そういうものなのか?
自分の考え方が幼いと笑われた気がして桜は困惑して、まだキーボードの上に置いてあった自分の爪先を見つめた。爪を噛む癖が大分なくなったので、スカルプからジェルネイルにこの2ヶ月ほど変えている。定期的にジェルネイルを施している大人の女の爪だ――。
「藤間君には、君を支えることなんてできない」
静かに強い口調で志岐が言った。え、なぜここで葵の名前が?と思って桜は志岐を見つめる。
「君はカエデでLife is Styleを体現したいと言っていただろ? その目的を達成することが君の目的のはずだ。それを藤間君は助けることなんかできないよ」
君の目的のためには、もっと役に立つ人間を選ぶべきだと、志岐が静かに言い募った。
「でも――」
私は葵が好きで…。でもこの気持ちは押し殺さなくちゃいけなくて…と、桜は困惑を深めた。そんな桜の唇に志岐がゆっくりと自分のものを近づけてくる。
「桜――」
触れるか触れないかの距離で、その声音に桜の唇も震える。志岐がとろりとした瞳で桜を射抜くように見つめてもう少し距離をつめる。思わずまじまじと志岐の目を見つめてしまう。
「僕を選べ」
反射的に志岐の唇に、自分の手をあててキスを防いだ。
「…………。Life is Styleっていうのは、自分らしく生きるってことじゃないですか?」
カエデでの目標ということではなく、自分を支える言葉を守るために、葵を諦めようとしているのに。これ以上彼を好きになったら、自分らしく生きていけないかもしれない。葵に心を許してしまって恋に迷って、自分を保てなくなるのがいやで…。今までだって散々迷惑をかけてきた。
だから、醜く嫉妬したり束縛したり、彼に迷惑をかけたりしたくないから、諦めようとしているのに。
自分らしく生きるって何だろう? 気持ちと自分が欲しいものが一致せず、桜は混乱する。
ただ、目的をかなえるために気持ちを無視するのは変だ。たとえ、自分がどうしたいか、わからなくなっている迷子のような気持ちだとしても…。
「君はこの会社で成したい事があるんだろう? 君の最終的な望みのために、最短の道を取ったほうがいいだろ?」
確かに自分には仕事しかなかった。でも、全てを仕事にささげてるわけではない。
いやだ。それはいやだと、桜の心の奥底がきしむ。『Life is Style』って自分らしい、自分のためのスタイルを守るという言葉だ。カエデの製品を支えていく上で、桜がもっともなくしたくない精神的な支柱でもある。この10年間、それを支えに、色々なものを犠牲にしてきたし、そしてこれからも犠牲にする。
ひたすら桜は首を横に振る。困惑して、弱い声しか出せないけれども、ここから先だけは絶対に譲れない…そう思って言葉を搾り出す。
「――無理です。私は、私でありたいんです」
そんな桜の様子を見て、志岐は微笑と共にため息をつく。
「わかった。でも、気が変わったらいつでも言ってくれ」
そう言って、桜を残してオフィスから志岐は出て行った。その後姿が消えるのを見送って、桜はごとりと頭を机に預ける。自分がわがままを言って避けようとしているくせに、なんて身勝手なって思ったが思わず口から零れてしまう。
「――葵…。会いたいよぅ…」
そういわれても、悩みが葵という存在に対してだから、正直本人と話すことはためらわられた。どうしようという気持ちしかなく、そしてそういう場合、桜は仕事をしてごまかすのが常であった。街中はクリスマスソングが鳴り響いていて、それが逆に葵のことを思いださせられた。クリスマス前に二人で会って、プレゼントは渡したが、それ以来葵とは直接会っていない。クリスマスイブの休みはどうする?と言うメールは来てはいたが、『女子会するんだ』と返事したら、『それはそれで楽しそうだね』と言う言葉が返ってきていた。
葵に会いたいけれども、自分の気持ちが鎮まるまでは会えない。
なぜか桜はそう思い込むように仕事に没頭していた。
一人で残業をしていたら、ふと、手元に影が落ちてきた。
顔を上げると志岐が微笑んでいる。
「桜、そんなに仕事忙しいのか?」
「そ…うですね。なんとか旧正月までにまとめたいのと、お正月しっかり実家に帰りたくて」
そう、ここ数日で言いなれた言い訳を口に乗せて微笑んだ。
「桜はずっとそうやっていくのか?」
「どういうことでしょう?」
冷汗が腋を伝う気がした。
ゆっくりとそっと、志岐が桜の手首を持ち上げた。
「一人で――」
ドクリと心臓が大きく鼓動を一つ打った気がした。
思わず持ち上げている手首を眺めてしまう。ただ、手を引けば、あっさりと開放されて、ほっとする。
「僕は桜の恐怖を知っているから、今何かに脅えているのがよくわかる」
自嘲の笑みを乗せて志岐が桜にやさしく告げた。
「お、脅えてなんか…」
そう言葉をのせるも、自分でも弱いのは自覚できた。
「一人でそんなにがんばってもしょうがないだろ?」
「それはそうですけど…」
「君を見るたびに思っていたことだけど、なぜそこまで苦しもうとするんだ?」
そんなに苦しんでいるんだろうか?
確かに苦しい。苦しいけれども、自分らしくありたいと思うとこうなってしまうだけだ。わざと苦しもうとしたりしてはいない。
「こうしたほうがいいって思って、がんばるのはおかしいことですか?」
「仕事なんて、妥協点は必要だろ? 大体、君はしがらみとか、思惑とかを考えなさ過ぎる」
「そう…でしょうか?」
自分は派閥と言う枠の中ではうまくやってきたほうだと思っていた。
なんといっても、そうでなければ隆が桜をここまで囲い込んだりしないはずだ。
「隆さんが一体君に何を与えてくれている? 今回の役員人事に際して何か約束をくれたのか? 僕がこの部署で隆さんと一緒にやっていくための条件を述べたときに君は僕に何か約束を求めたか?」
そんなこと考えたこともなかった。志岐に対してプレゼンしたときも、確かに諦めてくれというよりも、こういう風にすると志岐の望みとキャリアの方向性が開けるという形で行っただけだった。こちらからこう言うことを段どるから何かを約束してくれとは言わなかった。
「約束なんて…」
「結果として、自分を後回しにしてないか?」
うーん。どうだろう。そう首を傾げてしまう。
自分が自分らしくありたいというのは我を張ることではないと、桜は思っている。
関係者全員が出来る限り、『らしく』やっていければいいと思うからこそ、桜は仕事の大半を捧げている。それが『Life is Style』に通じると思っているからだ。
「そういう君だからこそ、僕は君を欲しいと思ってるんだけど」
桜は大きく目を見開いた。志岐が悪戯が成功した小学生のような目で桜を見ていた。
「本当に桜は……」
桜の驚きが本物なことを確認して、少し苦笑するように言葉を継いでくる。
「僕と付き合うなりすれば、会社での位置も楽になると思わないか?」
「どういう意味、ですか?」
「安田常務派の人間にさりげない妨害を受けることもないし、隆さんに加えて僕というバックボーンも得ることになる」
「それって、志岐さんを利用することになりますよね?」
「大なり小なり人は他人を利用しているだろ?」
すらっと、志岐はなんでもないことのように桜に告げる。いつの間にか桜の机に腰をもたれさせかけてすらっとした両足を伸ばしてリラックスした姿勢で、桜を上から見つめた。
「それだと…」
「え?」
「それだと、気持ちはどうなるんです?」
ふっと志岐が微笑《わら》う。
「いまどきの小学生でも、もっと打算するんじゃないか?」
そんなこと言われても、そういうものなのか?
自分の考え方が幼いと笑われた気がして桜は困惑して、まだキーボードの上に置いてあった自分の爪先を見つめた。爪を噛む癖が大分なくなったので、スカルプからジェルネイルにこの2ヶ月ほど変えている。定期的にジェルネイルを施している大人の女の爪だ――。
「藤間君には、君を支えることなんてできない」
静かに強い口調で志岐が言った。え、なぜここで葵の名前が?と思って桜は志岐を見つめる。
「君はカエデでLife is Styleを体現したいと言っていただろ? その目的を達成することが君の目的のはずだ。それを藤間君は助けることなんかできないよ」
君の目的のためには、もっと役に立つ人間を選ぶべきだと、志岐が静かに言い募った。
「でも――」
私は葵が好きで…。でもこの気持ちは押し殺さなくちゃいけなくて…と、桜は困惑を深めた。そんな桜の唇に志岐がゆっくりと自分のものを近づけてくる。
「桜――」
触れるか触れないかの距離で、その声音に桜の唇も震える。志岐がとろりとした瞳で桜を射抜くように見つめてもう少し距離をつめる。思わずまじまじと志岐の目を見つめてしまう。
「僕を選べ」
反射的に志岐の唇に、自分の手をあててキスを防いだ。
「…………。Life is Styleっていうのは、自分らしく生きるってことじゃないですか?」
カエデでの目標ということではなく、自分を支える言葉を守るために、葵を諦めようとしているのに。これ以上彼を好きになったら、自分らしく生きていけないかもしれない。葵に心を許してしまって恋に迷って、自分を保てなくなるのがいやで…。今までだって散々迷惑をかけてきた。
だから、醜く嫉妬したり束縛したり、彼に迷惑をかけたりしたくないから、諦めようとしているのに。
自分らしく生きるって何だろう? 気持ちと自分が欲しいものが一致せず、桜は混乱する。
ただ、目的をかなえるために気持ちを無視するのは変だ。たとえ、自分がどうしたいか、わからなくなっている迷子のような気持ちだとしても…。
「君はこの会社で成したい事があるんだろう? 君の最終的な望みのために、最短の道を取ったほうがいいだろ?」
確かに自分には仕事しかなかった。でも、全てを仕事にささげてるわけではない。
いやだ。それはいやだと、桜の心の奥底がきしむ。『Life is Style』って自分らしい、自分のためのスタイルを守るという言葉だ。カエデの製品を支えていく上で、桜がもっともなくしたくない精神的な支柱でもある。この10年間、それを支えに、色々なものを犠牲にしてきたし、そしてこれからも犠牲にする。
ひたすら桜は首を横に振る。困惑して、弱い声しか出せないけれども、ここから先だけは絶対に譲れない…そう思って言葉を搾り出す。
「――無理です。私は、私でありたいんです」
そんな桜の様子を見て、志岐は微笑と共にため息をつく。
「わかった。でも、気が変わったらいつでも言ってくれ」
そう言って、桜を残してオフィスから志岐は出て行った。その後姿が消えるのを見送って、桜はごとりと頭を机に預ける。自分がわがままを言って避けようとしているくせに、なんて身勝手なって思ったが思わず口から零れてしまう。
「――葵…。会いたいよぅ…」