あの日まではただの可愛い女《ひと》。
――本当は、明日会社も行けないくらい貪り喰らってやるって思ってたのに。
待ち合わせ場所の近くで、桜を捕獲したときのちょっと萎れた泣きそうな表情を見たときに葵は、今日こそ桜を貪ってやる、と思っていた。
あんなお互いが蕩けるようなセックスしといて、何事もなかったように振舞えると思ってるのかと。しかも、まったくといっていいほどメールの返信はしてくれないし、返信できなかった言い訳も見え見えだし、もうこれは、お仕置きレベルだろうと勝手に自分で解釈した。
うまいものと少しのアルコールで緊張をほぐさせて、柔らかい表情になった桜をどうやって持ち帰ろうかと頭の中で冷静に段取りを組み立てていた。様子が変わったのは、スキンシップを自然に深めようと、桜の髪に触れた瞬間だった。それまでの表情から一変して、顔が青くなるは、震えだすは、尋常では無さ過ぎる。
――俺がイヤでおかしくなってるわけじゃないよな。
手を握ってやりながら様子を見ていると、むしろ葵の体温を奪うように指が縋り付いてくる。『仕事で、思い出して』と、精一杯嘘を言わずに伝えてくる桜はあまりにも無防備すぎていたたまれなくなった。
柄にもなく、『何もしないから』と伝えて桜を抱え込んだ。
コンビニでメイク落しなど必要なものを買い、葵は桜の手を握ったまま自分のマンションに連れ帰り、冷え切ってしまっている桜に風呂を使わせた。
葵のパジャマを着込んで風呂から出てきた桜を見たときに葵は『何もしない』と言った事を非常に後悔していた。パジャマが大きくて袖とすそを折り込んでほてほてと出てきた無防備さといい、足首の細さといい、前のあわせから、ちらりと見える白い谷間といい、一体何の拷問だよ?みたいなことをつぶやきそうになった。
ものすごい意思の力を総動員し、奥歯をかみ締めてなんとか、桜を寝室に案内して寝かせる。そのあと自分も風呂を使って出てきたら、ソファに戻ってきていて、やっぱベッドは悪いよとか言う桜を説き伏せて一緒に寝室に戻った。腕の中に抱え込むようにして、一緒にベッドに潜りこんだ。
「ちょ…葵」
桜が身をよじって離れようとした。
「俺の腕の中、好きなんでしょ? 安心するって言ってたじゃないですか」
葵は桜の頭のてっぺんでささやきながら、栗色の柔らかい髪の感触と匂いを思いっきり楽しんだ。
――あー。俺も桜さん成分が足りなかったんだなぁ。
抱きしめるだけで、ものすごい充足感を葵は感じて、少しだけ腕に力をこめた。
以前は数ヶ月に一回会う程度のただの知り合いに近い女だったのに、いまはたった10日離れるだけでこんなにも足りない気持ちを味あわさせられる。
「や。でも、なんか…」
「安心できない?」
葵は少し意地悪い音色で聞いた。
フルフルと小さく首を横に振り、桜は小さくそんなことない、とつぶやく。
「じゃー、眠って?」
「き、聞かないの?」
「桜さんが話したいなら、話したいところだけでも話せばいいけど、別に」
「……。すごく馬鹿らしいくらいの小さなことで、聞いてもそんなことでって、きっと思うと思うよ?」
「うん」
「私――、仕事大好きじゃない?」
ぽつりと桜がつぶやいた。先ほどの店で震え上がってから、ずっと話し方がたどたどしい感じだ。というか、この人はこんな甘えた話かたをする人だったっけ、と葵は思った。眠気が襲ってきてるのかさらに舌足らずな口調で話し始めた。
確かに、葵もかなり忙しい職種だが、桜が休日出勤やら残業やらで忙しくしていることは仲間達からの話や、SNSでたまにつぶやかれる様子で知ってはいた。
ただ、それは愚痴というよりも、自分の会社が好きなんだな、製品が好きなんだなということが、伝わってくるような、そういうポジティブな形である。
「もう嵌まり込んでるって言うくらい働いてるんだけど、5年前にね、ちょっとひどいトラブルを起こしちゃって、たまたま今日そのときの関係者に会ったのね。それで…葵に髪を触られたときに、その人のことを思い出しただけなの」
たったそれだけのコトなの。たいしたことじゃないでしょ。
ごめんね、心配かけちゃって。そういって桜は目を閉じた。
――えー!? そんだけ? ちょっとちょっと、桜さんそこで寝入る?
いやもうなに? 髪触ったときに思い出したって。
つまりその男に今日、髪の毛触られたってこと!?
髪の毛触ってくるほどの親密な関係だったんですか?
しかも思い出すだけであそこまで震えあがるようなことがあったってことデスヨネ?
もっとkwsk!!!
そんな感じで、うーん、と葵はうなった。
そんなトラブル、どう考えても色恋沙汰だろ、と。
桜さんはいまだその男に心を残してるんだろうか? と考えた瞬間に、胸の裡がキリキリと痛んだ。
――ああ。俺はこんなにも桜さんにすでに嵌って堕ちてたのか。
あの日の朝に一瞬感じた強い渇きを、葵は思い出した。
――もっと、能天気な人だと思ってたんだよなぁ。
ちょっと年上だし、結構さばさばしてる…というよりは無頓着だし、ほんの10日ほど前までは特に意識してない女《ひと》でしかなかった。アレはほんのたまたまでしかなかった。
大体『筋肉筋肉♪』と言いながら楽しそうに男の体に触れてくる無防備さ、触られてイヤじゃなかったし、最寄り駅が一緒なのでホテルに誘い込みやすかったに近い。
葵にとって桜は、その時点までは話すと楽しい、ただの可愛い女《ひと》でしかなかった。ホテルに連れ込んだら、存外のエロさと初々しさにやられた。
そっからはちょっとした好奇心だった。
からかったら、どういう風になるんだろう?
こんなメールしたらどういう反応するんだろう?
そんなちょっとした興味だった。今日久々に会って、彼女の弱い一面を見てガツンとやられた。弱いくせに強がるところにも。もしかすると、すでにとっくに堕ちていて、自覚が今更ながらやってきたのかもしれない。
それくらい、葵はぽっかり堕ちてた場所が深いことに気がついた。
待ち合わせ場所の近くで、桜を捕獲したときのちょっと萎れた泣きそうな表情を見たときに葵は、今日こそ桜を貪ってやる、と思っていた。
あんなお互いが蕩けるようなセックスしといて、何事もなかったように振舞えると思ってるのかと。しかも、まったくといっていいほどメールの返信はしてくれないし、返信できなかった言い訳も見え見えだし、もうこれは、お仕置きレベルだろうと勝手に自分で解釈した。
うまいものと少しのアルコールで緊張をほぐさせて、柔らかい表情になった桜をどうやって持ち帰ろうかと頭の中で冷静に段取りを組み立てていた。様子が変わったのは、スキンシップを自然に深めようと、桜の髪に触れた瞬間だった。それまでの表情から一変して、顔が青くなるは、震えだすは、尋常では無さ過ぎる。
――俺がイヤでおかしくなってるわけじゃないよな。
手を握ってやりながら様子を見ていると、むしろ葵の体温を奪うように指が縋り付いてくる。『仕事で、思い出して』と、精一杯嘘を言わずに伝えてくる桜はあまりにも無防備すぎていたたまれなくなった。
柄にもなく、『何もしないから』と伝えて桜を抱え込んだ。
コンビニでメイク落しなど必要なものを買い、葵は桜の手を握ったまま自分のマンションに連れ帰り、冷え切ってしまっている桜に風呂を使わせた。
葵のパジャマを着込んで風呂から出てきた桜を見たときに葵は『何もしない』と言った事を非常に後悔していた。パジャマが大きくて袖とすそを折り込んでほてほてと出てきた無防備さといい、足首の細さといい、前のあわせから、ちらりと見える白い谷間といい、一体何の拷問だよ?みたいなことをつぶやきそうになった。
ものすごい意思の力を総動員し、奥歯をかみ締めてなんとか、桜を寝室に案内して寝かせる。そのあと自分も風呂を使って出てきたら、ソファに戻ってきていて、やっぱベッドは悪いよとか言う桜を説き伏せて一緒に寝室に戻った。腕の中に抱え込むようにして、一緒にベッドに潜りこんだ。
「ちょ…葵」
桜が身をよじって離れようとした。
「俺の腕の中、好きなんでしょ? 安心するって言ってたじゃないですか」
葵は桜の頭のてっぺんでささやきながら、栗色の柔らかい髪の感触と匂いを思いっきり楽しんだ。
――あー。俺も桜さん成分が足りなかったんだなぁ。
抱きしめるだけで、ものすごい充足感を葵は感じて、少しだけ腕に力をこめた。
以前は数ヶ月に一回会う程度のただの知り合いに近い女だったのに、いまはたった10日離れるだけでこんなにも足りない気持ちを味あわさせられる。
「や。でも、なんか…」
「安心できない?」
葵は少し意地悪い音色で聞いた。
フルフルと小さく首を横に振り、桜は小さくそんなことない、とつぶやく。
「じゃー、眠って?」
「き、聞かないの?」
「桜さんが話したいなら、話したいところだけでも話せばいいけど、別に」
「……。すごく馬鹿らしいくらいの小さなことで、聞いてもそんなことでって、きっと思うと思うよ?」
「うん」
「私――、仕事大好きじゃない?」
ぽつりと桜がつぶやいた。先ほどの店で震え上がってから、ずっと話し方がたどたどしい感じだ。というか、この人はこんな甘えた話かたをする人だったっけ、と葵は思った。眠気が襲ってきてるのかさらに舌足らずな口調で話し始めた。
確かに、葵もかなり忙しい職種だが、桜が休日出勤やら残業やらで忙しくしていることは仲間達からの話や、SNSでたまにつぶやかれる様子で知ってはいた。
ただ、それは愚痴というよりも、自分の会社が好きなんだな、製品が好きなんだなということが、伝わってくるような、そういうポジティブな形である。
「もう嵌まり込んでるって言うくらい働いてるんだけど、5年前にね、ちょっとひどいトラブルを起こしちゃって、たまたま今日そのときの関係者に会ったのね。それで…葵に髪を触られたときに、その人のことを思い出しただけなの」
たったそれだけのコトなの。たいしたことじゃないでしょ。
ごめんね、心配かけちゃって。そういって桜は目を閉じた。
――えー!? そんだけ? ちょっとちょっと、桜さんそこで寝入る?
いやもうなに? 髪触ったときに思い出したって。
つまりその男に今日、髪の毛触られたってこと!?
髪の毛触ってくるほどの親密な関係だったんですか?
しかも思い出すだけであそこまで震えあがるようなことがあったってことデスヨネ?
もっとkwsk!!!
そんな感じで、うーん、と葵はうなった。
そんなトラブル、どう考えても色恋沙汰だろ、と。
桜さんはいまだその男に心を残してるんだろうか? と考えた瞬間に、胸の裡がキリキリと痛んだ。
――ああ。俺はこんなにも桜さんにすでに嵌って堕ちてたのか。
あの日の朝に一瞬感じた強い渇きを、葵は思い出した。
――もっと、能天気な人だと思ってたんだよなぁ。
ちょっと年上だし、結構さばさばしてる…というよりは無頓着だし、ほんの10日ほど前までは特に意識してない女《ひと》でしかなかった。アレはほんのたまたまでしかなかった。
大体『筋肉筋肉♪』と言いながら楽しそうに男の体に触れてくる無防備さ、触られてイヤじゃなかったし、最寄り駅が一緒なのでホテルに誘い込みやすかったに近い。
葵にとって桜は、その時点までは話すと楽しい、ただの可愛い女《ひと》でしかなかった。ホテルに連れ込んだら、存外のエロさと初々しさにやられた。
そっからはちょっとした好奇心だった。
からかったら、どういう風になるんだろう?
こんなメールしたらどういう反応するんだろう?
そんなちょっとした興味だった。今日久々に会って、彼女の弱い一面を見てガツンとやられた。弱いくせに強がるところにも。もしかすると、すでにとっくに堕ちていて、自覚が今更ながらやってきたのかもしれない。
それくらい、葵はぽっかり堕ちてた場所が深いことに気がついた。