短編集
桜花
窓から見下ろした桜が、妙に眩しく見えた。
去年も見た桜。確かに去年は学校の外からで、今年は教室からという違いはある。
けれど、桜なんてどこにもあって。毎年、開花してから全て散りゆくまで、その艶姿は嫌と言うほど目にしている。あの雪のような霞のような光景は、とっくに見飽きたと思っていた——それなのに。
光を受けて白くけぶる桜に、どうしようもなく目が引きつけられて。今まで桜を目にする度に耳に蘇った音律すらも、遠のいて。
静寂の中、時折花びらをひらめかせて咲き誇る桜。校庭の、どこにでもあるような桜並木は、私の目に浮き上がり、その威容を見せつけていた。
——花見なんて、もう何年も行っていないけれど。
あの下に行ってみたい、と。そんな衝動に駆られ、私は踵を返した。
桜の木の下では、空は花に覆われてしまう。数え切れないほどの花々が、見上げているはずの私を、逆に見下ろしているような錯覚に陥った。
桜は、鞠のように集まって咲く。今は本当に満開で、数々の桜色の鞠が木に連なってくっついている。簪そっくりだ。
ひらひらと、花弁が舞い落ちる。何となく掌を上に向けると、ふわりと1つ、掌に舞い降りた。僅かにピンクがかった花びらは、形も愛らしい。そっと、潰さないように握りこむ。
ざっと、少し強い風が吹いた。桜の花びらが風に攫われ、空を舞う。つられて空を仰ぎ見ると、蒼穹をけぶらせる花枝が揺れ、小さな分身を空に送り出していた。
とくんと、鼓動が1つ、跳ねる。
桜は、美しい。それは、ほぼ日本人全員が持つ共通認識。私もそれに同意している。
——けれど。
私は、桜を見るといつも、吸い込まれるような錯覚に陥るのだ。
吸い込まれ、どこかに連れ去られていこうとする。この磁力に抗わずにいたなら、私は、どこへ連れて行かれるのだろう——
「——香宮?」
低く、抑揚のない声が耳に届いた。
ふっ、と。意識が、現実へと戻ってくる。
もう1度桜に意識を戻す。先程まで私をどこかへ連れ去ろうとしていた桜は、今、ただの豪奢な花でしかなかった。
「香宮」
もう1度、今度は少し強い音で、名前を呼ばれた。振り返った先には、この1年で見知った先輩。友人の親戚と知り、急に縁の深くなった人だ。何だか、いつもと様子が違う。
「空瀬先輩……」
呟くように、その名を呼ぶ。途端、先輩の体から緊張した雰囲気が消えた。
——緊張? この人が?
兄さんと対峙しても揺るがず、その静かな瞳で、兄さんの苛烈な光を受け止める人。基本物静かで無口だけれど、何があろうと泰然と構えているような人が、緊張?
あり得ない自分の感性に首を傾げたその時、彼が口を開いた。
「何をしている?」
ぼんやりしていた、というのは、わざわざ言わなくても分かるはずだ。先輩が声をかけるまでその存在に気付かず、ぼうっと花を見上げていたのだから。普段の私はそれなりに人の気配には敏感だし、先輩もそれを知っている。
けれど、何をしていたかと言われれば、見て分かることしか言えないわけで。
「桜を、見ていました。なんだかとても、綺麗に見えたので」
ありのままに答えると、先輩は、妙に遠いその距離を埋める。桜から距離を置こうとでもしているかのような場所から、私の隣へ。
そして、私がさっきまでしていたように桜を見上げる先輩を、私はじっと見つめた。
「綺麗、ですよね」
そのまま沈黙を保っていても良かったけれど、何となくそう言った。彼の相槌を、期待していたわけでは、ない。
「そうだな」
けれど、そうして実際に相槌を打たれて、心のどこかがふわりと揺れた。舞い上がる花びらのようなその衝動に従って、更に続ける。
「でも、私は……桜を見ていると、吸い込まれるような気がするんです」
先輩に倣って、桜を見上げた。先輩がこっちを向いた気がしたけれど、多分気のせいだ。
「桜の下にいると、どこかへ連れて行かれるような……そんな気がします」
「…………」
先輩は、何も言わなかった。けれど、錯覚の中で私を見つめていた先輩の視線が、名実ともに桜を見上げる。
2人の間に会話がなくとも、音は途切れない。風が枝を揺らす音、遠くから聞こえる人の声、小さな鳥のさえずり。自然と、途切れることなく、音が聞こえ続ける。
——さっき一瞬、吸い込まれそうだった時。私は、音を聞いていただろうか。
「——桜は、様々な物語の題材となっている」
不意に先輩が沈黙を破った。何となく視線は桜に固定したまま、続きを待つ。
「小説、詩、歌詞、和歌……桜に様々な意味を乗せつつ、それぞれの持つイメージを形にしている。誰もが1度は、何かそういうものに触れているはずだ」
ざっ……と、枝が一際大きく鳴った。その音を縫うようにして、先輩の低い声が耳に届く。
「その中で……今も昔も変わらず、桜は、魔性として扱われてきた」
「魔性……」
その単語を繰り返すと、先輩が抑揚のない声で淡々と説く。
「例えば、桜の木の下には死体が埋めてある。例えば、桜は人を喰らう。そんな物語が、数え切れないほどある。小説然り、怪談然り、都市伝説然り。ここから分かるのは、人は皆、桜の美しさに、どこかこの世にあらざるものを感じるという事」
「…………」
ようやく、さっきの私の言葉への返答だと気付いた。桜を視界から外し、隣の先輩に目を向ける。
先輩は、眩しいものを見るように目を細め、桜を眺めたまま、呟くように言った。
「あるいは……桜は本当に、魔性を持つのかもしれない」
「……え」
この人が言うには、余りにも似合わない言葉。聞き間違いだろうかと思っていると、先輩も桜から視線を外し、私に目を向ける。
「先程香宮が感じていたのは、神隠しのような……そんな力なのかもしれない」
「……神隠しとか、そういうのは、空想でしょう」
自分から話を振っておいて何だけれども、この人に真剣にそんな事を言われると、何だかちょっと落ち着かない。気のせいで済ませたいというか、ちょっとした思い付きを真面目に扱われた気まずさに、咄嗟にそうはぐらかした。
けれど先輩はにこりともせずに——そもそも、この人の笑顔なんて見た事ないけれど——、変わらない口調で続けた。
「それは、俺たちにはあずかり知らぬ事だ。空想を書き散らしたものの中に、誰かが真実を紛れ込ませているのかもしれない」
「…………」
相槌が打てずに困る私を余所に、先輩はすいと視線を流し、再び桜をその瞳に映す。
「今俺たちが見ているものが、この世界の全てとは限らない。だから俺は——」
その言葉の続きが紡がれることは、なかった。先輩の言葉をうち消すように、枝がざわりと音をたて、鳥の鳴き声や、遠くから聞こえる人の声すらも掻き消す。
刹那の間、先輩が桜に呑まれてしまう気がした。
だから。
「——空瀬先輩」
さっき彼が私を呼んで、私を引き戻したように。
私は、彼の名を呼んだ。
一拍おいて、先輩の瞳が、私を捉える。少し、安堵した。
——ああ、これだったのか。
先輩の見せた緊張と弛緩が理解できた。今の今まで舞うばかりだった、胸の奥の花びらが、ふわりと地面に辿り着く。自然と、笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
「……俺は、何もしていない」
少し表情を動かして、それでもはっきりと形になるような感情を浮かべない先輩に、小さく頷く。
「はい。でも、私の中で、桜に対する感情が、整理できたので」
何となくだけど、これからは。桜を見ても、吸い込まれることは無い気がした。もし吸い込まれそうになっても、きっと、先輩の私を呼ぶ声が、私を引き戻してくれる。
そんな根拠の無い、けれど確かな安堵感が、私に笑顔と感謝をもたらしたのだ。
「……そうか」
先輩は、頷く。さっき桜を見上げていた時のように、 その目を眩しげに細めながら。何だか落ち着かなくて、私は視線を逸らす。
見上げれば、青い空と、白くけぶる桜の花。風に揺れる枝から舞い降りる、無数の花の精。
ふと気が付くと、私は、握り混んでいたはずの桜の花びらを、いつの間にか手放していた。
去年も見た桜。確かに去年は学校の外からで、今年は教室からという違いはある。
けれど、桜なんてどこにもあって。毎年、開花してから全て散りゆくまで、その艶姿は嫌と言うほど目にしている。あの雪のような霞のような光景は、とっくに見飽きたと思っていた——それなのに。
光を受けて白くけぶる桜に、どうしようもなく目が引きつけられて。今まで桜を目にする度に耳に蘇った音律すらも、遠のいて。
静寂の中、時折花びらをひらめかせて咲き誇る桜。校庭の、どこにでもあるような桜並木は、私の目に浮き上がり、その威容を見せつけていた。
——花見なんて、もう何年も行っていないけれど。
あの下に行ってみたい、と。そんな衝動に駆られ、私は踵を返した。
桜の木の下では、空は花に覆われてしまう。数え切れないほどの花々が、見上げているはずの私を、逆に見下ろしているような錯覚に陥った。
桜は、鞠のように集まって咲く。今は本当に満開で、数々の桜色の鞠が木に連なってくっついている。簪そっくりだ。
ひらひらと、花弁が舞い落ちる。何となく掌を上に向けると、ふわりと1つ、掌に舞い降りた。僅かにピンクがかった花びらは、形も愛らしい。そっと、潰さないように握りこむ。
ざっと、少し強い風が吹いた。桜の花びらが風に攫われ、空を舞う。つられて空を仰ぎ見ると、蒼穹をけぶらせる花枝が揺れ、小さな分身を空に送り出していた。
とくんと、鼓動が1つ、跳ねる。
桜は、美しい。それは、ほぼ日本人全員が持つ共通認識。私もそれに同意している。
——けれど。
私は、桜を見るといつも、吸い込まれるような錯覚に陥るのだ。
吸い込まれ、どこかに連れ去られていこうとする。この磁力に抗わずにいたなら、私は、どこへ連れて行かれるのだろう——
「——香宮?」
低く、抑揚のない声が耳に届いた。
ふっ、と。意識が、現実へと戻ってくる。
もう1度桜に意識を戻す。先程まで私をどこかへ連れ去ろうとしていた桜は、今、ただの豪奢な花でしかなかった。
「香宮」
もう1度、今度は少し強い音で、名前を呼ばれた。振り返った先には、この1年で見知った先輩。友人の親戚と知り、急に縁の深くなった人だ。何だか、いつもと様子が違う。
「空瀬先輩……」
呟くように、その名を呼ぶ。途端、先輩の体から緊張した雰囲気が消えた。
——緊張? この人が?
兄さんと対峙しても揺るがず、その静かな瞳で、兄さんの苛烈な光を受け止める人。基本物静かで無口だけれど、何があろうと泰然と構えているような人が、緊張?
あり得ない自分の感性に首を傾げたその時、彼が口を開いた。
「何をしている?」
ぼんやりしていた、というのは、わざわざ言わなくても分かるはずだ。先輩が声をかけるまでその存在に気付かず、ぼうっと花を見上げていたのだから。普段の私はそれなりに人の気配には敏感だし、先輩もそれを知っている。
けれど、何をしていたかと言われれば、見て分かることしか言えないわけで。
「桜を、見ていました。なんだかとても、綺麗に見えたので」
ありのままに答えると、先輩は、妙に遠いその距離を埋める。桜から距離を置こうとでもしているかのような場所から、私の隣へ。
そして、私がさっきまでしていたように桜を見上げる先輩を、私はじっと見つめた。
「綺麗、ですよね」
そのまま沈黙を保っていても良かったけれど、何となくそう言った。彼の相槌を、期待していたわけでは、ない。
「そうだな」
けれど、そうして実際に相槌を打たれて、心のどこかがふわりと揺れた。舞い上がる花びらのようなその衝動に従って、更に続ける。
「でも、私は……桜を見ていると、吸い込まれるような気がするんです」
先輩に倣って、桜を見上げた。先輩がこっちを向いた気がしたけれど、多分気のせいだ。
「桜の下にいると、どこかへ連れて行かれるような……そんな気がします」
「…………」
先輩は、何も言わなかった。けれど、錯覚の中で私を見つめていた先輩の視線が、名実ともに桜を見上げる。
2人の間に会話がなくとも、音は途切れない。風が枝を揺らす音、遠くから聞こえる人の声、小さな鳥のさえずり。自然と、途切れることなく、音が聞こえ続ける。
——さっき一瞬、吸い込まれそうだった時。私は、音を聞いていただろうか。
「——桜は、様々な物語の題材となっている」
不意に先輩が沈黙を破った。何となく視線は桜に固定したまま、続きを待つ。
「小説、詩、歌詞、和歌……桜に様々な意味を乗せつつ、それぞれの持つイメージを形にしている。誰もが1度は、何かそういうものに触れているはずだ」
ざっ……と、枝が一際大きく鳴った。その音を縫うようにして、先輩の低い声が耳に届く。
「その中で……今も昔も変わらず、桜は、魔性として扱われてきた」
「魔性……」
その単語を繰り返すと、先輩が抑揚のない声で淡々と説く。
「例えば、桜の木の下には死体が埋めてある。例えば、桜は人を喰らう。そんな物語が、数え切れないほどある。小説然り、怪談然り、都市伝説然り。ここから分かるのは、人は皆、桜の美しさに、どこかこの世にあらざるものを感じるという事」
「…………」
ようやく、さっきの私の言葉への返答だと気付いた。桜を視界から外し、隣の先輩に目を向ける。
先輩は、眩しいものを見るように目を細め、桜を眺めたまま、呟くように言った。
「あるいは……桜は本当に、魔性を持つのかもしれない」
「……え」
この人が言うには、余りにも似合わない言葉。聞き間違いだろうかと思っていると、先輩も桜から視線を外し、私に目を向ける。
「先程香宮が感じていたのは、神隠しのような……そんな力なのかもしれない」
「……神隠しとか、そういうのは、空想でしょう」
自分から話を振っておいて何だけれども、この人に真剣にそんな事を言われると、何だかちょっと落ち着かない。気のせいで済ませたいというか、ちょっとした思い付きを真面目に扱われた気まずさに、咄嗟にそうはぐらかした。
けれど先輩はにこりともせずに——そもそも、この人の笑顔なんて見た事ないけれど——、変わらない口調で続けた。
「それは、俺たちにはあずかり知らぬ事だ。空想を書き散らしたものの中に、誰かが真実を紛れ込ませているのかもしれない」
「…………」
相槌が打てずに困る私を余所に、先輩はすいと視線を流し、再び桜をその瞳に映す。
「今俺たちが見ているものが、この世界の全てとは限らない。だから俺は——」
その言葉の続きが紡がれることは、なかった。先輩の言葉をうち消すように、枝がざわりと音をたて、鳥の鳴き声や、遠くから聞こえる人の声すらも掻き消す。
刹那の間、先輩が桜に呑まれてしまう気がした。
だから。
「——空瀬先輩」
さっき彼が私を呼んで、私を引き戻したように。
私は、彼の名を呼んだ。
一拍おいて、先輩の瞳が、私を捉える。少し、安堵した。
——ああ、これだったのか。
先輩の見せた緊張と弛緩が理解できた。今の今まで舞うばかりだった、胸の奥の花びらが、ふわりと地面に辿り着く。自然と、笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
「……俺は、何もしていない」
少し表情を動かして、それでもはっきりと形になるような感情を浮かべない先輩に、小さく頷く。
「はい。でも、私の中で、桜に対する感情が、整理できたので」
何となくだけど、これからは。桜を見ても、吸い込まれることは無い気がした。もし吸い込まれそうになっても、きっと、先輩の私を呼ぶ声が、私を引き戻してくれる。
そんな根拠の無い、けれど確かな安堵感が、私に笑顔と感謝をもたらしたのだ。
「……そうか」
先輩は、頷く。さっき桜を見上げていた時のように、 その目を眩しげに細めながら。何だか落ち着かなくて、私は視線を逸らす。
見上げれば、青い空と、白くけぶる桜の花。風に揺れる枝から舞い降りる、無数の花の精。
ふと気が付くと、私は、握り混んでいたはずの桜の花びらを、いつの間にか手放していた。