短編集
鎮魂夢
夢を、見た。
それが夢だと、私は気付いていなかった。
いや、きっと気付いていた。
気付いていながら、その短くも儚い刻を、本物だと信じようとしていた。
ふと気付けば、いつも通う道。習字を習っている私は、いつものように荷物を片手に、教室のある建物へと向かっていた。
いつものように……違う。ちょっとした、でも、私にとっては、とてもとても大きな違いがある。
——それは、もう一方の手が、小さな、けれど温かい掌で満たされていた事。
下げた視線の先、私と手を繋ぐ小さな男の子が、黙って歩いている。
俯いているし、身長差も手伝って、顔はよく見えない。それでも、分かる。知っている。その面差しは私とよく似ていて、でも、少し違う事を。
ああ、と、私は、直ぐに悟った。
——ああ、やっと、会いに来てくれたんだね。
どれだけの間一緒にいられるのか、分からない。この子はそれでも、私に、会いに来てくれたのだ。
一瞬で、胸が温かくなった。
——だって、ずっと、会いたかった。
ありがとう。
やっと来てくれて、私の所に来てくれて、ありがとう。
心の中で、感謝の言葉が、ただ、溢れた。
何か一生懸命話しかけていた気もするけれど、その感情が余りにも強すぎて、良く覚えていない。
2人で歩いて、建物の1階に着いた。そこで、稽古仲間のお友達と会う。その子のお母さんも一緒だった。
「あれ、その子、誰?」
「弟。——だよ」
そう、弟。この子は、私の弟の、——だ。もう2度と会えない筈だったのに、小さな奇跡が、私達を再び会わせてくれた。
さっきから——は、一言も話さない。あの頃から、あんまりおしゃべりなタイプには見えなかったもんね。
「わあ、可愛いね」
「あら、——ちゃんとよく似てるわね」
そう、——は私によく似ている。昔も、必ず言われた。可愛いね、よく似ているねって。その事が、私には誇らしかった。
——はそれでも黙ったままで、挨拶くらいすれば良いのに、と思う。でも、小さく頭を下げてはいるから、人見知りかもしれない。それとも、やっぱりマイペースなのかな。
そう思いながら、外に付いている階段を上っていく。結構段差が大きくて、いつも小さい子が苦労して上っている階段だ。
「——、上れる? 大丈夫?」
声をかけると、——は黙って頷いた。そして、まだそんなに大きくない足で、一段一段上っていく。私も少し手を引っ張って、手伝ってあげた。
その間も、周りの人達は口々に——の事を聞いてくる。今まで1度も——の事を話した事がなかったから、気になるんだろう。
でも私は、本当の事を説明する気には、どうしてもなれなかった。あれこれ詮索されるのも嫌だし、何より。
——話したら、その場でこの子はいなくなっちゃう。
そんな予感があって、話せなかった。
これ以上聞かれたくなくて、私は少し足を速めた。それが間違いだった。——はまだ小さくて、一生懸命階段を上っていたのに。
私の手に引っ張られて、——は転んだ。タイミングが悪かったのか、顔から倒れてしまった。
「あああ、ごめんねごめんね、——、大丈夫!?」
私は大慌てで謝った。きっと泣いてしまう、泣かせてしまった、その事に怯えながら。
けれど——は、やっぱり黙って立ち上がり、また階段を上り始めた。
「大丈夫?」
おそるおそるもう1度聞くと、——は黙って頷いた。泣いている様子も、泣くのを我慢している様子も、無い。
「わあ、偉いね、泣かないね。そうだね、——、もう大きいもんね」
そう言ったとき、私は、あれ、と、思ってしまった。
——は、私の3つ下だ。なら、今はもう小学校の5,6年生になっている筈。でも、今ここで私と手を繋いで階段を上っている——は、せいぜい小学校の1年生くらいだ。なのに、何で……?
そう、疑問を覚えてしまったのが、いけなかったのだろうか。
ふうっ、と。世界が白く染まっていく。え、と思うより先に、意識が遠ざかった。
はっ、と瞬きして目に入ったのは、いつもの部屋の天井。思わず息を吐きだして、腕で目を覆った。
——ああ、やっぱり夢だったのか。
そう思う私の目からは、後から後から涙が溢れ出てくる。多分、夢を見ながらも泣いていたんだと思う。
だって、嬉しかった。
お父さんの足に乗って、手を持ってもらってしか歩けないまま天国へ旅立ってしまった、あの子が。
私に会いに来てくれて、私と一緒に歩いて、階段も上れるようになっていた。周りがしんみりするのが嫌で、ずっと一人っ子だと偽っていた私が、弟だよって、胸を張って言えた。
それが、本当に、本当に嬉しかったのだ。
夢と分かれば、弟が一言も喋らなかった理由も分かる。私達は、あの子が話すのを聞かずに別たれてしまったから、あの子の声を知らないのだ。
もう何年も経っていたから、寂しくて懐かしくて泣く事も、久しくなっていたけれど。こうして会えたのは、たまらなく嬉しくて、切なくて。
いつまでも止まらない涙は、けれど少しも悲しいものじゃなく、ただただ、温かかった。
きっとこれは、区切りなんだと感じた。喪失を悲しむ刻から、思い出を懐かしむ刻への区切り。
それを伝える為に、別れを告げる為に、弟は夢で会ってくれたんだと思う。
「……ありがとう。だいすきだよ」
だから私は、しばらく後、涙が収まってから、そう呟いた。そしてまた溢れそうになった涙をぐいっと拭って、起き上がる。顔を洗って、何か飲もうと思った。
——あの夢の中、私は結局、弟の俯いた横顔しか見る事が出来なかった。
余りに幼かった為に良く覚えていない、弟との思い出。写真やビデオは沢山あるし、大人達はきちんと覚えているから、それがあった、という事実は、沢山教えてもらって、知っているけれど。自分の記憶として覚えているものは、ほとんど無い。
だからなのか、弟は、私の方を向いてはくれなかった。
————ねえ。もし貴方が私を見ていたら、どんな顔だったのかな。
写真のように、満開の向日葵のような笑顔を、浮かべてくれたのだろうか。それとも、転ばされたせいで、ちょっとむくれた顔をしていたのだろうか。
それを見る事が出来なかった事だけが、唯一の心残り。
でも。
もし貴方の顔を見る事が出来ていたら。貴方が、私を見てくれたなら。
例え貴方がどんな表情をしていたとしても、私は貴方にとびきりの笑顔を送った事だろう。
そして、心を込めて、告げるんだ。
「ありがとう、大好きだよ」
って。
それが夢だと、私は気付いていなかった。
いや、きっと気付いていた。
気付いていながら、その短くも儚い刻を、本物だと信じようとしていた。
ふと気付けば、いつも通う道。習字を習っている私は、いつものように荷物を片手に、教室のある建物へと向かっていた。
いつものように……違う。ちょっとした、でも、私にとっては、とてもとても大きな違いがある。
——それは、もう一方の手が、小さな、けれど温かい掌で満たされていた事。
下げた視線の先、私と手を繋ぐ小さな男の子が、黙って歩いている。
俯いているし、身長差も手伝って、顔はよく見えない。それでも、分かる。知っている。その面差しは私とよく似ていて、でも、少し違う事を。
ああ、と、私は、直ぐに悟った。
——ああ、やっと、会いに来てくれたんだね。
どれだけの間一緒にいられるのか、分からない。この子はそれでも、私に、会いに来てくれたのだ。
一瞬で、胸が温かくなった。
——だって、ずっと、会いたかった。
ありがとう。
やっと来てくれて、私の所に来てくれて、ありがとう。
心の中で、感謝の言葉が、ただ、溢れた。
何か一生懸命話しかけていた気もするけれど、その感情が余りにも強すぎて、良く覚えていない。
2人で歩いて、建物の1階に着いた。そこで、稽古仲間のお友達と会う。その子のお母さんも一緒だった。
「あれ、その子、誰?」
「弟。——だよ」
そう、弟。この子は、私の弟の、——だ。もう2度と会えない筈だったのに、小さな奇跡が、私達を再び会わせてくれた。
さっきから——は、一言も話さない。あの頃から、あんまりおしゃべりなタイプには見えなかったもんね。
「わあ、可愛いね」
「あら、——ちゃんとよく似てるわね」
そう、——は私によく似ている。昔も、必ず言われた。可愛いね、よく似ているねって。その事が、私には誇らしかった。
——はそれでも黙ったままで、挨拶くらいすれば良いのに、と思う。でも、小さく頭を下げてはいるから、人見知りかもしれない。それとも、やっぱりマイペースなのかな。
そう思いながら、外に付いている階段を上っていく。結構段差が大きくて、いつも小さい子が苦労して上っている階段だ。
「——、上れる? 大丈夫?」
声をかけると、——は黙って頷いた。そして、まだそんなに大きくない足で、一段一段上っていく。私も少し手を引っ張って、手伝ってあげた。
その間も、周りの人達は口々に——の事を聞いてくる。今まで1度も——の事を話した事がなかったから、気になるんだろう。
でも私は、本当の事を説明する気には、どうしてもなれなかった。あれこれ詮索されるのも嫌だし、何より。
——話したら、その場でこの子はいなくなっちゃう。
そんな予感があって、話せなかった。
これ以上聞かれたくなくて、私は少し足を速めた。それが間違いだった。——はまだ小さくて、一生懸命階段を上っていたのに。
私の手に引っ張られて、——は転んだ。タイミングが悪かったのか、顔から倒れてしまった。
「あああ、ごめんねごめんね、——、大丈夫!?」
私は大慌てで謝った。きっと泣いてしまう、泣かせてしまった、その事に怯えながら。
けれど——は、やっぱり黙って立ち上がり、また階段を上り始めた。
「大丈夫?」
おそるおそるもう1度聞くと、——は黙って頷いた。泣いている様子も、泣くのを我慢している様子も、無い。
「わあ、偉いね、泣かないね。そうだね、——、もう大きいもんね」
そう言ったとき、私は、あれ、と、思ってしまった。
——は、私の3つ下だ。なら、今はもう小学校の5,6年生になっている筈。でも、今ここで私と手を繋いで階段を上っている——は、せいぜい小学校の1年生くらいだ。なのに、何で……?
そう、疑問を覚えてしまったのが、いけなかったのだろうか。
ふうっ、と。世界が白く染まっていく。え、と思うより先に、意識が遠ざかった。
はっ、と瞬きして目に入ったのは、いつもの部屋の天井。思わず息を吐きだして、腕で目を覆った。
——ああ、やっぱり夢だったのか。
そう思う私の目からは、後から後から涙が溢れ出てくる。多分、夢を見ながらも泣いていたんだと思う。
だって、嬉しかった。
お父さんの足に乗って、手を持ってもらってしか歩けないまま天国へ旅立ってしまった、あの子が。
私に会いに来てくれて、私と一緒に歩いて、階段も上れるようになっていた。周りがしんみりするのが嫌で、ずっと一人っ子だと偽っていた私が、弟だよって、胸を張って言えた。
それが、本当に、本当に嬉しかったのだ。
夢と分かれば、弟が一言も喋らなかった理由も分かる。私達は、あの子が話すのを聞かずに別たれてしまったから、あの子の声を知らないのだ。
もう何年も経っていたから、寂しくて懐かしくて泣く事も、久しくなっていたけれど。こうして会えたのは、たまらなく嬉しくて、切なくて。
いつまでも止まらない涙は、けれど少しも悲しいものじゃなく、ただただ、温かかった。
きっとこれは、区切りなんだと感じた。喪失を悲しむ刻から、思い出を懐かしむ刻への区切り。
それを伝える為に、別れを告げる為に、弟は夢で会ってくれたんだと思う。
「……ありがとう。だいすきだよ」
だから私は、しばらく後、涙が収まってから、そう呟いた。そしてまた溢れそうになった涙をぐいっと拭って、起き上がる。顔を洗って、何か飲もうと思った。
——あの夢の中、私は結局、弟の俯いた横顔しか見る事が出来なかった。
余りに幼かった為に良く覚えていない、弟との思い出。写真やビデオは沢山あるし、大人達はきちんと覚えているから、それがあった、という事実は、沢山教えてもらって、知っているけれど。自分の記憶として覚えているものは、ほとんど無い。
だからなのか、弟は、私の方を向いてはくれなかった。
————ねえ。もし貴方が私を見ていたら、どんな顔だったのかな。
写真のように、満開の向日葵のような笑顔を、浮かべてくれたのだろうか。それとも、転ばされたせいで、ちょっとむくれた顔をしていたのだろうか。
それを見る事が出来なかった事だけが、唯一の心残り。
でも。
もし貴方の顔を見る事が出来ていたら。貴方が、私を見てくれたなら。
例え貴方がどんな表情をしていたとしても、私は貴方にとびきりの笑顔を送った事だろう。
そして、心を込めて、告げるんだ。
「ありがとう、大好きだよ」
って。