炎獄の娘
9・母子の別れ
その時、幼い笑い声が聞こえ、ユーリンダとファルシス、アトラウスが楽しそうに駆け込んできた。庭園で遊んでいた三人は、はあはあと息を切らせながらも満面の笑顔である。ふたごの黄金色の髪にもアトラウスの黒髪にも、花びらや葉っぱが絡みついている。表を走って他の子どもと遊んだ経験のないアトラウスは、疲れたらしく部屋の入り口でしゃがみこんだが、その時、そこに大好きな母がいる事に気づいてぱっと立ち上がった。
「お母さま?!」
シルヴィアが泣いているのは心配だが、しかし母に会えたのは嬉しい、そんな面持ちでアトラウスは駆け寄った。
「ああ、アトラ……」
シルヴィアは、我が子をしっかりと抱きしめた。彼女のほつれた黄金色の髪がアトラウスの黒い瞳にかかって、アトラウスはぱちぱちと目を瞬かせた。
「そんなに楽しかったのね、お外は。今まで出してあげられなくてごめんなさい」
「! ううん、いいんだよ、そんなの! お母さまに会えたのが、今日の一番のいい事だよ!」
「いいえ……いいえ、おまえはもっと、外に出なければいけないわ。伯父さまについていきなさい。お泊まりしてらっしゃい」
「お泊まり?」
アトラウスは不思議そうに首を傾げた。
「だってもう、そろそろお部屋に帰らなくちゃ……」
不安げに、脇に立って腕組みしてこちらを睨んでいる不機嫌そうな父親を見やる。今日は初めての楽しい事があって、おまけに母に会う事もできた。こんなにいい事があったのだから、その代償に、またあの部屋で父にぶたれるだろう。父は、『罪の子』である自分が楽しそうにしていると怒り、罰を与えなければいけない、と言う。だが、それも仕方のない事なのだろう、とアトラウスは思う。『罪の子』は幸せになってはいけないのだ、と何度も父に言われ、幼いアトラウスは自然に、自分が悪いのだから辛い目に遭うのは自分のせいなのだ、と思い込んでいる。しかし母は意外な事を言った。
「もう、あのお部屋には帰らなくていいの。あなたはしばらく、伯父さまのお館で暮らすのよ」
「えっ……」
びっくりして、それ以上言葉が出ない。地下の部屋が世界の全てだったアトラウスには、よそで暮らす、などと急に言われても、想像の域を遙かに超えているのだ。それでも、一番大事な事をすぐに思い出した。
「でも、お母さまは?」
喜ぶよりも母の心配をする我が子の愛しさが胸にこみあげ、シルヴィアはアトラウスをきつくきつく抱き締めた。
「い……痛いよ、お母さま」
まさかまた首を絞められるのだろうか? こんな、皆が見ているところでそんな事をしたら、母はどうされてしまうだろう? 自分の身より、アトラウスにはその方が心配だった。
「ごめんなさい、アトラ」
勿論、今のシルヴィアはしっかりと己を保っている。最愛の我が子との別れについ力が入りすぎただけだ。ゆっくりと腕をゆるめ、両手でアトラウスの頬を優しく撫でた。戸惑いを湛えた大きな黒い瞳と少し開かれたあどけないくちびる。きれいな顔をしている、とシルヴィアは思った。大きくなったら、きっと父親や伯父に似た美男子になるだろう、と想像してみた。ルーン公の甥として皆にみとめられ、たくさんの令嬢の心をつかむだろうか。そのとき、もし自分が傍にいたら、どんな気持ちになるのだろう……。そこまで考えて、シルヴィアはきゅっと唇を噛みしめた。これまでの暮らしで小さな心に負ってしまったたくさんの傷は、時間が、周囲が、ゆっくりと癒すだろう。痛みを知った分だけ、この子はきっと幸せな家庭を築くに違いない。我が子の幸せな未来の為なら、なんだって出来る。
「これからは、ルーン家の公子として、誇りを持って生きるのよ。あなたはひとりじゃない。素晴らしい伯父さまや伯母さまもいらっしゃるし、素敵ないとこたちもいる。ファルシスと一緒に色んなことを学ばせて頂くのよ」
「でも、お母さまは? ぼく、お母さまと一緒がいいよ!」
「……大丈夫よ、お母さまも後から行くわ。そして、ずっとずっと、おまえのことを見守っていますからね」
「本当、お母さま!」
アトラウスは歓喜の声をあげた。こんな嬉しそうな顔は初めて見る……だが、溢れ出る涙でその顔がぼやけてゆく。もっとしっかりと息子の顔を目に焼き付けておこうと、シルヴィアは涙を拭った。
「シルヴィア! 黙って聞いてりゃ、随分いい加減な約束をしやがるじゃないか。誰がそんな事を許すと言った?」
苛々した様子でカルシスが母子の会話に割って入った。
「お願いです、カルシスさま。どうか、どうかわたくしのお願いをお聞き下さいませ。今夜一夜でも構いませんから、アトラウスをアルフォンスさまのもとへ行かせて下さい。明日の朝になって……それでもまだ、わたくしの言葉が信じられなかったら、後はどのようになさってもいいですわ。わたくしもアトラウスも逃げも隠れもしません」
「おまえはここに残るんだな」
「ええ、あなた」
カルシスは疑わしげに妻の顔を見ていたが、結局は吐き捨てるように、まあいいだろう、と言った。一晩くらいならどうということはない。これくらいは許さなければ、うるさい兄は決してこのまま帰ろうとはしないだろう。
「兄さん、あんたの館の奴らには、こいつの名は言うな。それが条件だ」
「……まあ、今日のところはそれでもいいだろう。しかしシルヴィア、貴女は本当に今日ここに残るのか。いったい何を考えている?」
心配そうにアルフォンスはシルヴィアを見る。この優しく従順なひとが、これ程勧めても一緒に来る事に首を縦に振らないのは、どういう理由なのか? まさか、本当に過ちによる子で、自らの命でその罪を償うつもりででもいるのでは……?
「もしや、おかしな事を考えてはいないだろうね? わたしは、何がどうあろうと、あなたを擁護する。それが、元婚約者に対するルーン公爵の当然の責任だ。こんな目に遭わされた貴女には、今後は何も心配せずに、息子と暮らす権利がある。カルシスと離縁するなら、親子で暮らせる住みよい館を手配しよう。そしてアトラウスには、ファルシスと同等の教育を受けさせよう。わたしは、ルーン公の名にかけて、貴女たちの平穏な暮らしを護ると誓う」
この申し出に、ほんの少し、シルヴィアの心は動かされたようだった。仄かに頬に赤みがさし……だが、結局、彼女は再び蒼ざめて首を横に振った。
「本当にご親切なお心遣いに感謝致します。でも……それはできません。離縁するつもりもございません。わたくしはカルシスさまの妻で、アトラウスはれっきとしたカルシス・ルーンの子。世間にそれを認めさせなくては、表に出ても、この子は一生後ろ指をさされるでしょう。だからまず、カルシスさまに、それを認めて頂くつもりです」
「だが、五年かけて話しても聞き入れなかったものを、どうやって認めさせる?」
「大丈夫です、アルフォンスさま、ご心配なさらないで」
シルヴィアは弱々しいながらも微笑さえ浮かべ、かつて恋していたひとの顔を見上げた。もしこのひとと結婚していたら……という悔やみは、もうない。自分の生の意味は、アトラウスを、カルシスの子を産む事だったのだ、と確信できたからだ。
本人が行かないと言い張るのだから、まさか人の妻を無理矢理連れ去る訳にもいかない。アルフォンスは、絶対に暴力を振るわぬよう、きつく弟に言い渡し、不安を残しながらも子どもたちと馬車に向かった。初めてのことに、子どもたちはすっかり舞い上がり、嬉しそうに声高に何か喋ったり歌ったりしている。
「……アトラ!」
馬車の上り口に足をかけた息子の名を、絞り出すようにシルヴィアは呼んだ。アトラウスはにこにこして振り向いた。
「お母さまも早く来てね! ね、明日、きっと来てね!」
「……きっと、きっとね、アトラ」
泣くまい、とシルヴィアは唇を噛んだ。そして、心の中でずっと、約束を守れないお母さまを許して……と呟き続けていた。
「お母さま?!」
シルヴィアが泣いているのは心配だが、しかし母に会えたのは嬉しい、そんな面持ちでアトラウスは駆け寄った。
「ああ、アトラ……」
シルヴィアは、我が子をしっかりと抱きしめた。彼女のほつれた黄金色の髪がアトラウスの黒い瞳にかかって、アトラウスはぱちぱちと目を瞬かせた。
「そんなに楽しかったのね、お外は。今まで出してあげられなくてごめんなさい」
「! ううん、いいんだよ、そんなの! お母さまに会えたのが、今日の一番のいい事だよ!」
「いいえ……いいえ、おまえはもっと、外に出なければいけないわ。伯父さまについていきなさい。お泊まりしてらっしゃい」
「お泊まり?」
アトラウスは不思議そうに首を傾げた。
「だってもう、そろそろお部屋に帰らなくちゃ……」
不安げに、脇に立って腕組みしてこちらを睨んでいる不機嫌そうな父親を見やる。今日は初めての楽しい事があって、おまけに母に会う事もできた。こんなにいい事があったのだから、その代償に、またあの部屋で父にぶたれるだろう。父は、『罪の子』である自分が楽しそうにしていると怒り、罰を与えなければいけない、と言う。だが、それも仕方のない事なのだろう、とアトラウスは思う。『罪の子』は幸せになってはいけないのだ、と何度も父に言われ、幼いアトラウスは自然に、自分が悪いのだから辛い目に遭うのは自分のせいなのだ、と思い込んでいる。しかし母は意外な事を言った。
「もう、あのお部屋には帰らなくていいの。あなたはしばらく、伯父さまのお館で暮らすのよ」
「えっ……」
びっくりして、それ以上言葉が出ない。地下の部屋が世界の全てだったアトラウスには、よそで暮らす、などと急に言われても、想像の域を遙かに超えているのだ。それでも、一番大事な事をすぐに思い出した。
「でも、お母さまは?」
喜ぶよりも母の心配をする我が子の愛しさが胸にこみあげ、シルヴィアはアトラウスをきつくきつく抱き締めた。
「い……痛いよ、お母さま」
まさかまた首を絞められるのだろうか? こんな、皆が見ているところでそんな事をしたら、母はどうされてしまうだろう? 自分の身より、アトラウスにはその方が心配だった。
「ごめんなさい、アトラ」
勿論、今のシルヴィアはしっかりと己を保っている。最愛の我が子との別れについ力が入りすぎただけだ。ゆっくりと腕をゆるめ、両手でアトラウスの頬を優しく撫でた。戸惑いを湛えた大きな黒い瞳と少し開かれたあどけないくちびる。きれいな顔をしている、とシルヴィアは思った。大きくなったら、きっと父親や伯父に似た美男子になるだろう、と想像してみた。ルーン公の甥として皆にみとめられ、たくさんの令嬢の心をつかむだろうか。そのとき、もし自分が傍にいたら、どんな気持ちになるのだろう……。そこまで考えて、シルヴィアはきゅっと唇を噛みしめた。これまでの暮らしで小さな心に負ってしまったたくさんの傷は、時間が、周囲が、ゆっくりと癒すだろう。痛みを知った分だけ、この子はきっと幸せな家庭を築くに違いない。我が子の幸せな未来の為なら、なんだって出来る。
「これからは、ルーン家の公子として、誇りを持って生きるのよ。あなたはひとりじゃない。素晴らしい伯父さまや伯母さまもいらっしゃるし、素敵ないとこたちもいる。ファルシスと一緒に色んなことを学ばせて頂くのよ」
「でも、お母さまは? ぼく、お母さまと一緒がいいよ!」
「……大丈夫よ、お母さまも後から行くわ。そして、ずっとずっと、おまえのことを見守っていますからね」
「本当、お母さま!」
アトラウスは歓喜の声をあげた。こんな嬉しそうな顔は初めて見る……だが、溢れ出る涙でその顔がぼやけてゆく。もっとしっかりと息子の顔を目に焼き付けておこうと、シルヴィアは涙を拭った。
「シルヴィア! 黙って聞いてりゃ、随分いい加減な約束をしやがるじゃないか。誰がそんな事を許すと言った?」
苛々した様子でカルシスが母子の会話に割って入った。
「お願いです、カルシスさま。どうか、どうかわたくしのお願いをお聞き下さいませ。今夜一夜でも構いませんから、アトラウスをアルフォンスさまのもとへ行かせて下さい。明日の朝になって……それでもまだ、わたくしの言葉が信じられなかったら、後はどのようになさってもいいですわ。わたくしもアトラウスも逃げも隠れもしません」
「おまえはここに残るんだな」
「ええ、あなた」
カルシスは疑わしげに妻の顔を見ていたが、結局は吐き捨てるように、まあいいだろう、と言った。一晩くらいならどうということはない。これくらいは許さなければ、うるさい兄は決してこのまま帰ろうとはしないだろう。
「兄さん、あんたの館の奴らには、こいつの名は言うな。それが条件だ」
「……まあ、今日のところはそれでもいいだろう。しかしシルヴィア、貴女は本当に今日ここに残るのか。いったい何を考えている?」
心配そうにアルフォンスはシルヴィアを見る。この優しく従順なひとが、これ程勧めても一緒に来る事に首を縦に振らないのは、どういう理由なのか? まさか、本当に過ちによる子で、自らの命でその罪を償うつもりででもいるのでは……?
「もしや、おかしな事を考えてはいないだろうね? わたしは、何がどうあろうと、あなたを擁護する。それが、元婚約者に対するルーン公爵の当然の責任だ。こんな目に遭わされた貴女には、今後は何も心配せずに、息子と暮らす権利がある。カルシスと離縁するなら、親子で暮らせる住みよい館を手配しよう。そしてアトラウスには、ファルシスと同等の教育を受けさせよう。わたしは、ルーン公の名にかけて、貴女たちの平穏な暮らしを護ると誓う」
この申し出に、ほんの少し、シルヴィアの心は動かされたようだった。仄かに頬に赤みがさし……だが、結局、彼女は再び蒼ざめて首を横に振った。
「本当にご親切なお心遣いに感謝致します。でも……それはできません。離縁するつもりもございません。わたくしはカルシスさまの妻で、アトラウスはれっきとしたカルシス・ルーンの子。世間にそれを認めさせなくては、表に出ても、この子は一生後ろ指をさされるでしょう。だからまず、カルシスさまに、それを認めて頂くつもりです」
「だが、五年かけて話しても聞き入れなかったものを、どうやって認めさせる?」
「大丈夫です、アルフォンスさま、ご心配なさらないで」
シルヴィアは弱々しいながらも微笑さえ浮かべ、かつて恋していたひとの顔を見上げた。もしこのひとと結婚していたら……という悔やみは、もうない。自分の生の意味は、アトラウスを、カルシスの子を産む事だったのだ、と確信できたからだ。
本人が行かないと言い張るのだから、まさか人の妻を無理矢理連れ去る訳にもいかない。アルフォンスは、絶対に暴力を振るわぬよう、きつく弟に言い渡し、不安を残しながらも子どもたちと馬車に向かった。初めてのことに、子どもたちはすっかり舞い上がり、嬉しそうに声高に何か喋ったり歌ったりしている。
「……アトラ!」
馬車の上り口に足をかけた息子の名を、絞り出すようにシルヴィアは呼んだ。アトラウスはにこにこして振り向いた。
「お母さまも早く来てね! ね、明日、きっと来てね!」
「……きっと、きっとね、アトラ」
泣くまい、とシルヴィアは唇を噛んだ。そして、心の中でずっと、約束を守れないお母さまを許して……と呟き続けていた。