炎獄の娘

10・夫妻の晩餐

 その夜、久しぶりにカルシスとシルヴィアは晩餐を共にした。これまでずっと自室で簡単な食事を摂るばかりだったシルヴィアの為に、執事は精一杯の心遣いで、贅沢でかつ胃の腑に優しい膳が運ばれるよう取り計らった。だが暫く夫妻は無言で食事を進め、卓には緊張した空気が張り詰めたままだった。カルシスは意地になって妻の方を見ようとせず、シルヴィアは夫の様子を窺いつつも物思いに沈む時間が長い。給仕の者も執事も、これからどうなるのかと、興味と恐れを半々に抱いて夫妻を見守っている。
「……カルシスさま」
 むっとした表情で自分から口を開こうとしない夫に、遂にシルヴィアは話しかけた。
「……なんだ」
 威厳を保とうと低い声でカルシスは応じたが、内心は妻が何を言い出すのか、少しの動揺もあった。
「わたくしの願いをお聞き届け下さいまして、本当にありがとうございました」
「……今夜だけだ。明日にはあいつを連れ戻すからな」
「もし、明日の朝になってもお気持ちが変わられませんでしたら、そうなさって下さいまし」
 青白い顔に微笑を浮かべてシルヴィアは応える。久々の正式な晩餐も、食が細くなっているシルヴィアの喉にはあまり通らなかった。カルシスはぐいぐいとワインをあおっている。
「おまえも飲め。これは良いワインだ」
「これ以上いただいたら、倒れてしまいますわ」
 不思議な感覚が場を包んでいた。地下の部屋にアトラウスがおらず、こうして夫婦で夕餉をとっていると、まるでシルヴィアの出産以降のことがなかったことのようにさえ思われた……シルヴィア以外の人間には。だがすぐにカルシスはその感覚を振り払い、しげしげと妻の顔を眺めた。
「おれのことが、さぞ恨めしいだろう。本当は、あのがきの父親と一緒になりたいんじゃないのか」
「まだ、そんなことを。そんな人間はおりませんわ」
 くすりとシルヴィアは笑う。今までは、カルシスの暴力を恐れて、こんな口はきけなかった。ただ泣きながら、お許し下さい、信じて下さい、と繰り返すだけだったのだ。
 シルヴィアは、おのれの結婚生活を振り返ってみた。結婚から出産までの約一年半、本当に幸福だったと思った。最初は、憧れていたアルフォンスと違い、暴言を吐く夫に戸惑いもした。でもすぐに、この人はただ、怖がりなだけだと気づいた。愛されないことを極度に怖がっている、可哀想なひと。もしも、容姿がアルフォンスと似ていなければ、或いは好意的に受け止められなかったかも知れない。男女の仲は、理屈や正論では測れない。でも、恋したひととよく似た笑顔を持つ、ちょっと不器用なひとと思えば、シルヴィアは初めてにして唯一の男性であるカルシスを、ゆったりと愛することができた。何を言われても鷹揚に受け止め、ただ真摯に愛情を注ぐと、夫は変わってきた。それがとても嬉しかった。
 アトラウスが生まれた時、あるべき姿でないのを、悲しみもした。だが、それでも我が子は可愛かった。夫さえ信じてくれれば、あの幸福な生活を続ける事が出来た筈。夫さえ信じてくれれば……。あんなに愛して、裏切りなど、考えたこともなかったのに。でも、そんな思いも今夜で終わる。夫の信頼を復活させる代わりに自分がいなくなるのは辛いけれど、きっと夫は、自分の忘れ形見としてアトラウスを愛してくれるだろう。母親を失うアトラウスは不憫だけれど、きっと立派な青年貴族に育つだろう。その姿をこの目で見られない事だけがひどく悲しいけれど、自分の魂はきっとずっと息子の傍にある……シルヴィアは、そんな思いを巡らせていた。死を決意しながらも、自分でも不思議なくらい、心が落ち着いていた。
「カルシスさま、最後のお願いがありますの」
「またお願いか! まあ、聞くだけ聞いてやるから言ってみろ」
 あれだけの騒ぎの後であるのに、カルシスの心もまた、普段よりずっと穏やかだった。珍しくいい酔い方をして、何もかもどうでもいいような気分だった。兄への長年の劣等感を率直に吐き出した事で、彼なりにひとつのけりをつけた形に働いたのかも知れない。怒りをよそへ追いやって妻を眺めると、やつれているとはいえ、まだ若く美しい。今もまだ、自分を愛していると言った。アトラウスは一夜限りの過ちの結果で、本当は自分だけを愛している、と正直にいうなら、妻を許してやってもいいかも知れない……そんな気にさえ、なりかけていた。アトラウスは兄にでもやってしまい、また元のふたりの生活に戻る。次はいくら何でも、黒髪の子供を産みはしないだろう。五年間の仕置きの結果、妻は元より一層、自分に従順に尽くすだろう……。
「明日の朝、大神官ダルシオンさまを呼んで頂きたいのです」
「はあ?」
 あまりにも意外な妻の願いに、カルシスはそうとしか言えなかった。
「ダルシオンさまに見て頂きたいのです」
「何をだ? おまえが無実だという証拠があるとでもいうのか。そんなものがあるなら、もっと早くおまえは出していた筈だ」
「……勇気がなかったのです」
「訳がわからんな。もっとはっきり言え」
「今は申し上げられません。でも、明日の朝、わたくしの部屋をご覧になればお解り頂けると思います。そうしたら、何も手をつけずに真っ先にダルシオンさまを呼んで頂きたいのです」
「そんな、簡単に大神官を呼びつけられるものか」
「いいえ、状況を話せば、きっと来て下さると思います」
 カルシスは酔った頭を不愉快そうに振った。折角の緩んだ気持ちが、謎かけのような話で台無しになったと思った。今夜は妻を優しく抱いてやってもいいかとさえ思っていたが、やはりいつもの気に入りの侍女にしておこう……。
「もういい、もう休む。おいロータス、イーラにおれの寝所へ酒を運ばせろ」
「かしこまりました」
「カルシスさま!」
 立ち上がりかけた夫にシルヴィアは呼びかけた。
「なんだ?」
 カルシスはにやりとする。妻が嫉妬したかと思うと楽しくなった。
「おまえ、寝所に来て欲しいのか? 今日は殴らないぞ。兄貴との約束があるからな」
「……いいえ。ただ、今までのこと、わたくしの至らなさ、お詫びとお礼を申し上げたかったのです。それから、アトラのこと……」
「あいつの名前を出すな! 今日くらいは考えたくない」
「はい……」
 シルヴィアは項垂れ、カルシスは席を立った。これが、夫妻の別れとなった。

 自室に戻ったシルヴィアは、中から施錠した。目を瞑り、深く呼吸をし、文机の引き出しの奥から、一冊の書を取り出した。
 ルーン分家の筆頭の家の出である彼女は、ヴィーン家の血も引いており、強い魔力をそなえている。彼女自身、その方面に興味があり、娘時代、大神官の元へ通って魔道の手ほどきを受けた。優秀な生徒である彼女を大神官ダルシオンも可愛がってくれ、当時シルヴィアはダルシオンを兄のように慕っていたのだ。結婚を目前にして、もうこれまでのように神殿に教えを受けにいけなくなるという最後の授業の日、ダルシオンは記念に一冊の書をくれた。
「様々な魔道が記してある。表だって講義できぬものもある。禁呪ではないが、封呪……術者のいのちを奪うこともあるゆえ、封印された魔道だ」
 ダルシオンは、シルヴィアに書を手渡しながら愛弟子の顔を覗き込んだ。
「まあ……恐ろしい」
 シルヴィアの顔が曇る。なぜ、門出の記念に、そんな不吉な書をくれるのか、という疑念がありありと浮かんでいる。ダルシオンは破顔した。
「はは、それはほんの一部だ。決して使ってはならぬぞ。害にならぬ、役立つ魔道も色々記されている。ただ、高等魔道ゆえ、使いこなせる者はなかなかいない。そなたなら、間違いなく使えるだろう」
「役立つ魔道とは?」
「たとえば、庭園の花々をより美しく咲き誇らせる魔道など、そなたには似合うだろう」
「まあ、素敵ですわね!」
 シルヴィアはやっと安心して大切な書を胸に抱き締めた。
「ありがとうございます、ダルシオンさま!」

 シルヴィアは暫し、遠い日の思い出に思いを馳せた。あの頃は、幸せな夢ばかり見ていた気がする。
 出産のあと、ダルシオンも何度か見舞いに来てくれたらしいが、カルシスは大神官に対してさえ、一切の事情を伏せてシルヴィアに会わせなかった。
(もうお会いすることもできない……でも、ダルシオンさまのおかげで、アトラウスは救われます)
 心の中でシルヴィアは深い感謝を捧げる。彼からもらった書は、隅々まで読んで頭に入っている。彼の言った封呪とは、誰かを救う為に術者の身を犠牲にするような内容のものだった。その中のひとつを、シルヴィアは今夜実行する。身の潔白を完全に証明する魔道。
 だが、その前にまだやる事があった。シルヴィアは一旦書を置いて、文机に向かった。これから、手紙をしたためるのだ。
< 13 / 67 >

この作品をシェア

pagetop