炎獄の娘
11・シルヴィアの覚悟
夜も更けてきて、館の中は静まり返っている。シルヴィア以外の者は皆暖かな寝台で眠っているのだろう。今頃アトラウスはいとこたちと一緒に楽しい夢でもみているだろうかと思いながら、ペンを取ると、シルヴィアはまず夫に宛てて文をしたため始めた。カルシスに文を送るのは婚約時代以来だと気づき、追想に耽りそうになるが、もうそんな時間は残されていないとすぐに思い直し、考え考え書き綴る。文に込めたこの気持ちが、頑なな夫の心を溶かしてくれるよう、切に願いながら。
『カルシスさま。カルシスさまの妻となり、アトラウスを生む為、わたくしはこの世に生を受けたのだと思います。カルシスさまと二人で過ごした時間は、本当に幸せでした。どうあってもわたくしを信じて下さらないこと、お恨みしたことも確かにございました。それでも、あなたを今も愛している、と申したこともまた、偽りではございません。どうか、このシルヴィアを少しでも哀れと思われたなら、代わりにこれからはアトラウスを息子として愛し、立派な公子に育ててやって下さいませ。この文をご覧になる頃には、アトラウスはまことにあなたとわたくしの間に生まれたたった一人の子ども、紛れもなくあなたの血をひいた長男であると、お判り下さっていることと思います。アトラウスには、わたくしの死の真相は伏せ、ただわたくしは遠いところに療養に行ったことにして、あの子がもっと成長してから、わたくしは病死したとお知らせ下さいますようお願い致します。あなたさまは本当は優しいおかた。どうか、よい後妻を娶られて幸せにお暮らし下さいませ』
本心を探れば、カルシスを今も愛しているのか、自分自身にもよくわからない。本当は優しい心を持っているひと……と信じている、信じたい。自分にとって唯一の男性で息子の父親。不貞を疑って豹変するまでは真に愛していた。でも、この五年の様々の暴言、暴力は、彼女の前向きな気力を奪い尽くしてしまった。今は、愛の残渣に縋っているだけかも知れない。でも、夫を愛している、と信じて死ぬ方が、そうでないよりずっと良い。だから、自分にそう言い聞かせた。
『愛するアトラへ。お母さまはこれから、遠い土地へ旅立たなくてはなりません。お母さまは病気で、そのせいであなたにもつらい思いをさせてしまいました。遠い暖かな土地でお母さまは病気を治して、きっと帰ってきます。約束を守れなくてごめんなさいね。ずっとあなたを愛しています』
それからシルヴィアは、成長していく我が子の姿を想像しながら、未来の我が子に向かって何通か手紙をしたためた。母が生きているのに文も寄越さないなど、訝り悲しむだろうと思ったからだ。
『愛するアトラ。大きくなったのでしょうね。勉学や鍛錬に励んでいることでしょう。会える日が楽しみです……』
『愛するアトラ。もうお母さまよりも背が伸びた事でしょうね。お母さまはまだ具合があまりよくなくて帰れそうにありません。でも、いつもあなたの事を思っています……』
書きながら、何度も涙がこぼれた。新しい文を書き始める毎に、心の中で息子は少しずつ大きくなって、幼児から少年へと変わってゆく。だが、その姿を見る事はもう自分には出来ないのだ。段々と凛々しい若者に近づいてゆくにつれて、今のあどけない幼子からその姿をくっきりと想像することが難しくなってゆく。
「アトラ……アトラ……」
途中で何度も手が止まり、シルヴィアは嗚咽した。息子の為に死ぬ事はむしろ母として喜ばしいことの筈、と思おうとしても、もうあの子を抱きしめることも顔をみることもないのだ、と思うと耐えがたい哀しみが襲う。明日、約束通りに行ってあげられない事できっと悲しむだろう。けれども聡い子だから、母が療養の旅に出たと聞かされれば、きっと納得して寂しさを我慢して待つことだろう……永遠に帰らぬ母を。そして年月が経つうち、母の面影はおぼろになり、病死したと聞く頃には母よりも大切になった誰かがきっと傍にいてくれる……そんな未来を思い浮かべると切ない。
(でも、それでいい……あの子の為に、あの子の将来の為に、それが一番なのだから。子どもは皆いつか母親の手から離れてゆくもの。あの子にとっては、それが少し早くなるだけなのだから)
涙を拭いて何度もそうやって自分を諭してゆくうち、シルヴィアの心は徐々に落ち着きを取り戻し、静かな決意だけがまた戻って来た。
そうして十通ばかりしたためた文を束ね、半年置きくらいに、今届いたとして渡してもらいたい、と添え書きをしておいた。
『アルフォンスさま。お優しい貴男さまは、わたくしのこの人生の結末にきっと心を痛め、そして何の咎もないのにご自分をお責めになることでしょう。そんな貴男さまの姿を想像すると辛うございます。でもいまわたくしは、本当に穏やかで満たされた心持ちでいるのです。どうぞわたくしを哀れまず、カルシスさまと兄弟仲良くなさって下さいませ。貴男さまの許婚でいた少女時代、カルシスさまの妻となってからの暮らし、わたくしはいつもたくさんの幸福に包まれていました。そして、一番の幸福を与えてくれたのが、我が子アトラウスでございます。どうかアルフォンスさま、シルヴィアの最期のお願いをお聞き下さいませ。アトラウスに情けをおかけ下さいませ。ルーン公爵の甥として世間に認められるよう取り計らって下さると信じております。夫と共に、アトラウスにしかるべき教育を施し、また、御子様たちときょうだいのように仲良くさせてやって下さいませ』
カレリンダと末永く睦まじく……その言葉を添えようか迷ったが、やめておいた。それは、この文に必要なほどに心からの気持ちではない、と思ったからだ。心のまことばかりを綴ったのに、迷いを感じることを交えるのは嫌だ。アルフォンスに幸福に満ちた生涯を送って欲しい、という気持ちは真実偽りないが、カレリンダさえいなければ、と何度も思った自分の心の闇が存在したのもまた変えようのない事実。カルシスと睦まじく暮らしていた頃は、とっくに消え去ってしまったと思っていた妬心が、この五年間は幾度も形を変えて心の奥から浮かび上がり、彼女を苦しめてきた。カレリンダさえいなければ。自分がアルフォンスの妻でアトラウスがかれの子どもであったなら。カルシスに暴力を振るわれる度にそんな気持ちが湧くのを抑えきれず、そしてまた、そんな事を思う自分が厭わしかった。こんな罪深い事を思うような自分だからルルアが罰を下されたのだ、アトラウスには何の罪もないのに……と自分を責める事も多々あったのだ。いつだったか、ついアトラウスの前でもそんな事を口走ってしまったような気がする。忘れているだろうと思いたいが……。
アルフォンスの性格上、絶対にアトラウスを見捨てるような事はないだろう。少女時代、ずっとずっと恋い焦がれて後を追ったひとだから、シルヴィアはかれの性格や行動を読む事には自信がある。それを利用するような形になってしまう事は後ろめたいが、アトラウスの為なのだから、と自分を納得させた。
『ダルシオンさま。禁じられた魔道を行うこと、どうかお許し下さい。けれど、ダルシオンさまが下さった書のおかげで、アトラウスは幸福になれると信じております。師として、本当に尊敬しておりましたし、感謝しております。わたくしの無実はわたくしが一番存じておりますが、この魔道の結果が如何なるものであるか、どうか夫によくお話し下さいますようお願い致します。不祥の弟子の最期の願いを、どうぞお聞き届け下さいませ』
ダルシオンはきっと明日の朝来てくれる。シルヴィアは理由もなく確信していた。ダルシオンが見てくれなければ自分の死は無駄になってしまうのだが、それはない、と強く感じる。厳しい人だったし、笑うところも滅多に見られなかったが、ごくたまに、優しい表情を見せてくれた。兄のように慕っていた師ダルシオンは、自分の真実を皆の前で明らかにし、アトラウスを救ってくれるだろう。
これだけの文を書き終わると、もうシルヴィアは疲れ果て、殆ど体力が残されていなかった。窓の外は白みかけている。シルヴィアはゆっくりと文机の引き出しから小箱を取り出す。柔らかなびろうどの布の中から現れたのは、銀製の小刀だった。魔道を行う触媒として用いるもので、彼女の長年の愛用の品である。これもダルシオンから貰ったものだが、その時には、これをこんな風に使う日が来るとは、夢にも思わなかった。
シルヴィアは、『自分は生涯夫に貞節を尽くしており、黄金色を持たずともアトラウスは真実カルシスの子である』という旨をしたためた紙を部屋の中央の床に置き、その傍に件の魔道書を、今から行う魔道の頁を広げて添えた。
(アトラ……さようなら)
最後の力を振り絞るように、シルヴィアは呪を唱え始める。淡い光が彼女の痩せた身体を包んでゆく。呪を唱え終わった彼女は、右手に持った小刀をひといきに自分の胸に突き立てた。
「ああ……ううっ……」
力が弱い為、小刀は最初の一刺しでは心の臓を僅かに傷つけたのみだった。この呪には、術者の大量の心臓の血が不可欠なのに……ひといきに死にきれぬ苦悶に身をよじりながらも耐え抜き、シルヴィアは渾身の力を込めて小刀を更に深く突き入れてゆく。ようやく銀の切っ先が彼女の心臓を切り裂いた。大量の血液が飛び散り、置いた紙片に降りかかった。と、なんでもない白い紙が、まばゆいばかりの黄金色の光を放ちだす。
「……」
もう殆ど意識のない筈の彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ、ようであった。
紙片の傍に伏してこときれた彼女の貌は、最愛の息子の明るい未来を確信した満足感に包まれていた。
『カルシスさま。カルシスさまの妻となり、アトラウスを生む為、わたくしはこの世に生を受けたのだと思います。カルシスさまと二人で過ごした時間は、本当に幸せでした。どうあってもわたくしを信じて下さらないこと、お恨みしたことも確かにございました。それでも、あなたを今も愛している、と申したこともまた、偽りではございません。どうか、このシルヴィアを少しでも哀れと思われたなら、代わりにこれからはアトラウスを息子として愛し、立派な公子に育ててやって下さいませ。この文をご覧になる頃には、アトラウスはまことにあなたとわたくしの間に生まれたたった一人の子ども、紛れもなくあなたの血をひいた長男であると、お判り下さっていることと思います。アトラウスには、わたくしの死の真相は伏せ、ただわたくしは遠いところに療養に行ったことにして、あの子がもっと成長してから、わたくしは病死したとお知らせ下さいますようお願い致します。あなたさまは本当は優しいおかた。どうか、よい後妻を娶られて幸せにお暮らし下さいませ』
本心を探れば、カルシスを今も愛しているのか、自分自身にもよくわからない。本当は優しい心を持っているひと……と信じている、信じたい。自分にとって唯一の男性で息子の父親。不貞を疑って豹変するまでは真に愛していた。でも、この五年の様々の暴言、暴力は、彼女の前向きな気力を奪い尽くしてしまった。今は、愛の残渣に縋っているだけかも知れない。でも、夫を愛している、と信じて死ぬ方が、そうでないよりずっと良い。だから、自分にそう言い聞かせた。
『愛するアトラへ。お母さまはこれから、遠い土地へ旅立たなくてはなりません。お母さまは病気で、そのせいであなたにもつらい思いをさせてしまいました。遠い暖かな土地でお母さまは病気を治して、きっと帰ってきます。約束を守れなくてごめんなさいね。ずっとあなたを愛しています』
それからシルヴィアは、成長していく我が子の姿を想像しながら、未来の我が子に向かって何通か手紙をしたためた。母が生きているのに文も寄越さないなど、訝り悲しむだろうと思ったからだ。
『愛するアトラ。大きくなったのでしょうね。勉学や鍛錬に励んでいることでしょう。会える日が楽しみです……』
『愛するアトラ。もうお母さまよりも背が伸びた事でしょうね。お母さまはまだ具合があまりよくなくて帰れそうにありません。でも、いつもあなたの事を思っています……』
書きながら、何度も涙がこぼれた。新しい文を書き始める毎に、心の中で息子は少しずつ大きくなって、幼児から少年へと変わってゆく。だが、その姿を見る事はもう自分には出来ないのだ。段々と凛々しい若者に近づいてゆくにつれて、今のあどけない幼子からその姿をくっきりと想像することが難しくなってゆく。
「アトラ……アトラ……」
途中で何度も手が止まり、シルヴィアは嗚咽した。息子の為に死ぬ事はむしろ母として喜ばしいことの筈、と思おうとしても、もうあの子を抱きしめることも顔をみることもないのだ、と思うと耐えがたい哀しみが襲う。明日、約束通りに行ってあげられない事できっと悲しむだろう。けれども聡い子だから、母が療養の旅に出たと聞かされれば、きっと納得して寂しさを我慢して待つことだろう……永遠に帰らぬ母を。そして年月が経つうち、母の面影はおぼろになり、病死したと聞く頃には母よりも大切になった誰かがきっと傍にいてくれる……そんな未来を思い浮かべると切ない。
(でも、それでいい……あの子の為に、あの子の将来の為に、それが一番なのだから。子どもは皆いつか母親の手から離れてゆくもの。あの子にとっては、それが少し早くなるだけなのだから)
涙を拭いて何度もそうやって自分を諭してゆくうち、シルヴィアの心は徐々に落ち着きを取り戻し、静かな決意だけがまた戻って来た。
そうして十通ばかりしたためた文を束ね、半年置きくらいに、今届いたとして渡してもらいたい、と添え書きをしておいた。
『アルフォンスさま。お優しい貴男さまは、わたくしのこの人生の結末にきっと心を痛め、そして何の咎もないのにご自分をお責めになることでしょう。そんな貴男さまの姿を想像すると辛うございます。でもいまわたくしは、本当に穏やかで満たされた心持ちでいるのです。どうぞわたくしを哀れまず、カルシスさまと兄弟仲良くなさって下さいませ。貴男さまの許婚でいた少女時代、カルシスさまの妻となってからの暮らし、わたくしはいつもたくさんの幸福に包まれていました。そして、一番の幸福を与えてくれたのが、我が子アトラウスでございます。どうかアルフォンスさま、シルヴィアの最期のお願いをお聞き下さいませ。アトラウスに情けをおかけ下さいませ。ルーン公爵の甥として世間に認められるよう取り計らって下さると信じております。夫と共に、アトラウスにしかるべき教育を施し、また、御子様たちときょうだいのように仲良くさせてやって下さいませ』
カレリンダと末永く睦まじく……その言葉を添えようか迷ったが、やめておいた。それは、この文に必要なほどに心からの気持ちではない、と思ったからだ。心のまことばかりを綴ったのに、迷いを感じることを交えるのは嫌だ。アルフォンスに幸福に満ちた生涯を送って欲しい、という気持ちは真実偽りないが、カレリンダさえいなければ、と何度も思った自分の心の闇が存在したのもまた変えようのない事実。カルシスと睦まじく暮らしていた頃は、とっくに消え去ってしまったと思っていた妬心が、この五年間は幾度も形を変えて心の奥から浮かび上がり、彼女を苦しめてきた。カレリンダさえいなければ。自分がアルフォンスの妻でアトラウスがかれの子どもであったなら。カルシスに暴力を振るわれる度にそんな気持ちが湧くのを抑えきれず、そしてまた、そんな事を思う自分が厭わしかった。こんな罪深い事を思うような自分だからルルアが罰を下されたのだ、アトラウスには何の罪もないのに……と自分を責める事も多々あったのだ。いつだったか、ついアトラウスの前でもそんな事を口走ってしまったような気がする。忘れているだろうと思いたいが……。
アルフォンスの性格上、絶対にアトラウスを見捨てるような事はないだろう。少女時代、ずっとずっと恋い焦がれて後を追ったひとだから、シルヴィアはかれの性格や行動を読む事には自信がある。それを利用するような形になってしまう事は後ろめたいが、アトラウスの為なのだから、と自分を納得させた。
『ダルシオンさま。禁じられた魔道を行うこと、どうかお許し下さい。けれど、ダルシオンさまが下さった書のおかげで、アトラウスは幸福になれると信じております。師として、本当に尊敬しておりましたし、感謝しております。わたくしの無実はわたくしが一番存じておりますが、この魔道の結果が如何なるものであるか、どうか夫によくお話し下さいますようお願い致します。不祥の弟子の最期の願いを、どうぞお聞き届け下さいませ』
ダルシオンはきっと明日の朝来てくれる。シルヴィアは理由もなく確信していた。ダルシオンが見てくれなければ自分の死は無駄になってしまうのだが、それはない、と強く感じる。厳しい人だったし、笑うところも滅多に見られなかったが、ごくたまに、優しい表情を見せてくれた。兄のように慕っていた師ダルシオンは、自分の真実を皆の前で明らかにし、アトラウスを救ってくれるだろう。
これだけの文を書き終わると、もうシルヴィアは疲れ果て、殆ど体力が残されていなかった。窓の外は白みかけている。シルヴィアはゆっくりと文机の引き出しから小箱を取り出す。柔らかなびろうどの布の中から現れたのは、銀製の小刀だった。魔道を行う触媒として用いるもので、彼女の長年の愛用の品である。これもダルシオンから貰ったものだが、その時には、これをこんな風に使う日が来るとは、夢にも思わなかった。
シルヴィアは、『自分は生涯夫に貞節を尽くしており、黄金色を持たずともアトラウスは真実カルシスの子である』という旨をしたためた紙を部屋の中央の床に置き、その傍に件の魔道書を、今から行う魔道の頁を広げて添えた。
(アトラ……さようなら)
最後の力を振り絞るように、シルヴィアは呪を唱え始める。淡い光が彼女の痩せた身体を包んでゆく。呪を唱え終わった彼女は、右手に持った小刀をひといきに自分の胸に突き立てた。
「ああ……ううっ……」
力が弱い為、小刀は最初の一刺しでは心の臓を僅かに傷つけたのみだった。この呪には、術者の大量の心臓の血が不可欠なのに……ひといきに死にきれぬ苦悶に身をよじりながらも耐え抜き、シルヴィアは渾身の力を込めて小刀を更に深く突き入れてゆく。ようやく銀の切っ先が彼女の心臓を切り裂いた。大量の血液が飛び散り、置いた紙片に降りかかった。と、なんでもない白い紙が、まばゆいばかりの黄金色の光を放ちだす。
「……」
もう殆ど意識のない筈の彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ、ようであった。
紙片の傍に伏してこときれた彼女の貌は、最愛の息子の明るい未来を確信した満足感に包まれていた。