炎獄の娘
13・帰宅
カレリンダがそっと部屋を出て行ったあと。アトラウスは幸せな夢をみていた。
一面の花園のなかで、ユーリンダとファルシスと戯れている。見渡す限りの色とりどりの美しい花、そして雲一つない晴れやかな空と眩い光。
昼に見た光景が、夢の中ではもっとずっと広く果てもなく続いているのだ。
ユーリンダが手製の花冠を頭に乗せてくれた。彼女の黄金色の髪は煌らかに輝いて神々しいほど。そして大きな黄金色のひとみは、慈しみに溢れていた。
ずっと、闇の中にいた。光が、こんなに美しいなんて知らなかった。教えてくれたのは、ユーリンダとファルシス。たいせつな、いとこ。
少し離れたところで、お母さまが、アルフォンス伯父さまやカレリンダ伯母さまと一緒に笑って話していた。よかった、お母さまは伯父さまや伯母さまと仲良しなんだ。伯父さまも伯母さまもとってもすてきな人だもの、いつかお母さまが悪口を言っていたと思ったのは、きっとぼくのかんちがいだ。
お母さまはぼくを見た。
「おいで、わたくしのアトラ!」
お母さまは笑顔で両手を広げた。
「お母さま!」
光の中を走ってアトラウスはシルヴィアの胸にとびこんだ。
「ずーっと、ずーっといっしょだよ!」
もうアトラウスは、自分の黒い髪も瞳も、『罪の子』という言葉も気にならなかった。お母さまがずっと一緒にいてくれる。そう思うだけで息も詰まるほど、幸福だった。抱きついたはずみに、花冠が落ちた。アトラウスはそれを拾い、シルヴィアの黄金色の頭に乗せようとした。だがその時、アトラウスはシルヴィアの笑顔が奇妙に歪んでいるのに気づいた。
「……どうしたの、お母さま?」
「あいするアトラ……アトラウス・ルーン……お母さまはずっと、あなたの傍に……」
「お母さま! どうしたの?」
「アトラ……さようなら」
母の衣服が、貌が、朱に染まってゆく。夢と現実が同調し始めたのだが、勿論アトラウスには解らない。続いて、叫び声がした。
「シルヴィアーーッ!!」
お父さまの声だ! お父さまがぼくたちを連れ戻しにきたんだ。どうしよう!
……そこで、夢はとぎれた。
夜更かしをした為に、子どもたちはなかなか起きてこなかった。乳母や教育係に、今日は目を覚ますまで寝かせておくようにと指示して、アルフォンスとカレリンダは、カルシスの館を訪れる為に身支度をしているところだった。
昼前だった。玄関の辺りが騒がしい。支度を終えたアルフォンスは、何事かと下りて行った。
「あ……ああ、兄貴……」
玄関ホールに座り込み、弱々しい声を出してかれを見上げたのはカルシスだった。黄金色の髪は滅茶苦茶にかき回したように乱れ、とりあえず羽織ったらしい上衣はよれよれという姿である。
「カルシス?! いったいどうした?」
カルシスの顔は真っ赤で、その目は泣いたように腫れて爛れている。その息からは酒の臭いがした。
「シルヴィアが……ああ、おれはどうすればいいんだ……」
「シルヴィアがどうしたんだ?!」
「一緒に来てくれよ……大神官も来てる。あいつ……許せねえ」
「どういう意味だ? シルヴィアはどうしているんだ?」
「……言いたくない。とにかく来て見てくれ。それから、がきは……アトラウスはどうしている?」
「まだ子どもたちは眠っている。疲れているんだ」
応えながらも、カルシスのただならぬ様子に、アルフォンスの胸中で不吉な予感が高まってゆく。許せないとはシルヴィアのことか? まさか不貞は本当のことで、罪を遺書にしたためて自害でも図ったのでは……?
だが、カルシスの言葉は、その想像を否定する。
「許してくれ、シルヴィア、アトラウス……おれは……真実さえ知っていれば、お前らを憎んだりしなかったのに……」
「……どういう事だ?」
昨日、シルヴィアは自信ありげに、自らの無実を証明すると言っていた。それが本当にカルシスに伝わったのか。だが、当のシルヴィアはどうなったのか。
「はっきり言え、カルシス! シルヴィアはどうしたんだ?!」
「おれには言えない……とにかく、アトラウスを連れて来てくれよ。あれは、おれとシルヴィアのがきだった」
泣きそうな声でカルシスは言う。酒臭い息にアルフォンスは眉を顰める。何か受け入れがたい現実から逃れたくなるとすぐに酒に頼るのは、弟の昔からの悪癖だ。
「シルヴィアは無事なのか?」
「来ればわかる。とにかくあんたとアトラウスと、来て欲しいんだ」
「……わかった」
これ以上問答しても、答えは得られそうにない。とにかくシルヴィアを見舞わなくては。
乳母に起こされて、目をこすりながらアトラウスが階段の上に姿を現した。不吉な夢のあと、また途切れ途切れに眠りが訪れて、いまは夢のことは忘れているが、ひどく寝汗をかいている。しかし、急ぐという事で、まだ夜着のままである。そんなアトラウスは、父親の姿を見て、いっぺんに目が覚めたように顔を強ばらせた。
「ぼく……帰るの? お母さまは来てくれないの?」
泣きそうな声でアトラウスは言った。
「大丈夫だよ、アトラウス。伯父さまも一緒に行くからね。お母さまをお見舞いに行くんだ。またいつでもここに来ていいからね」
アルフォンスは急く心を抑えながら歩み寄り、怯えを隠さない甥を優しくなだめた。カレリンダもすぐに部屋から出てきた。
「どうしたの……何があったの?」
アトラウスの前で、シルヴィアの身に変事があったらしいとは言えない。
「……とにかく、予定通りシルヴィアのところへ行こう」
夫の表情と階下で頭を抱えてうずくまっている義弟の様子から、カレリンダも、ただならぬ事が起きていると察し黙って頷いた。
馬車の中、アルフォンス夫妻の間にアトラウスは座った。向かい側に父親がいる。父親は時々アトラウスの顔を見ては、溜息をついた。その目には、いつものような苛立った光はない。苦しみと哀れみ……だが、まだそれを読み取れるほどアトラウスは成熟していない。ただ、大人たちの様子から、なにかただならぬことが起きたのだと察せられ、怯えていた。どうしてお母さまは一緒じゃないのだろう? どうしてみんな、怖い顔をしているのだろう?
カルシスが何も言わないので、アルフォンスもカレリンダも、アトラウスの前である事を気遣ってあまり問い詰めなかった。だが、シルヴィアの身に重大な異変が起きた事は容易に想像が付く。
「あなた……シルヴィアは魔道を使ったのですわ。恐らく、シルヴィアは……」
馬車に乗る前、アトラウスに聞こえぬよう、カレリンダは夫に囁いた。カルシスを通して、神子である彼女には、断片的に魔道の痕跡が感じられたのだ。よく見ると、カルシスの衣服には血がついている。シルヴィアの血であるとカレリンダには直感的に判った。
「お母さまはどうしたのですか……伯父さま」
遂に沈黙に耐えきれなくなって、アトラウスはアルフォンスを見上げて尋ねた。
「うん……少し具合が悪いのかも知れないね。伯父さまがお母さまとお話ししてみるから、心配しないで待っておいで」
そうとしか、アルフォンスには言えなかった。アトラウスは黙って俯いた。
そして馬車はカルシス邸に着いた。
出迎えた執事に、アトラウスを着替えさせて別室で落ち着いて待てるように相手をせよとアルフォンスは指示する。執事がアトラウスの手をとって優しく廊下の向こうへ連れて行くのを見てから、改めてアルフォンスは、シルヴィアはどうしたのかとカルシスに責め寄った。
だが、その時。アトラウスは執事の手をさっと振り払い、風のように父と伯父の脇をすり抜けて階段を駆け上がった。長い間幽閉されていた痩せ細った子供が、爆発的な力を見せた。大人たちも不意を突かれ、咄嗟にこの幼子を捕まえることが出来なかった。
お母さまはどうしたのだろう? 早くお母さまに会いたくて、もうこれ以上待てない。お父さまにぶたれてもいいから、お母さまに会いたい。アトラウスの頭にはそれしかない。
二階の廊下で、侍女たちが身を寄せ合って啜り泣いていた。オルガが真っ先に、駆けてくるアトラウスに気づいた。
「あっ、いけません、若様!!」
オルガになど構っていられない。もう記憶は薄らいでいたけれど、物心つくかつかないかのうちに過ごしたシルヴィアの部屋が、アトラウスにははっきりと判った。
「お母さま!」
アトラウスは扉を開け放った。夢にみた笑顔のお母さまが迎えてくれることを願いながら。
そして、幼いアトラウスは見た。床から壁にかけて飛び散り染まった血の朱の色……その血溜まりの中に伏して動かない母親の亡骸を。
一面の花園のなかで、ユーリンダとファルシスと戯れている。見渡す限りの色とりどりの美しい花、そして雲一つない晴れやかな空と眩い光。
昼に見た光景が、夢の中ではもっとずっと広く果てもなく続いているのだ。
ユーリンダが手製の花冠を頭に乗せてくれた。彼女の黄金色の髪は煌らかに輝いて神々しいほど。そして大きな黄金色のひとみは、慈しみに溢れていた。
ずっと、闇の中にいた。光が、こんなに美しいなんて知らなかった。教えてくれたのは、ユーリンダとファルシス。たいせつな、いとこ。
少し離れたところで、お母さまが、アルフォンス伯父さまやカレリンダ伯母さまと一緒に笑って話していた。よかった、お母さまは伯父さまや伯母さまと仲良しなんだ。伯父さまも伯母さまもとってもすてきな人だもの、いつかお母さまが悪口を言っていたと思ったのは、きっとぼくのかんちがいだ。
お母さまはぼくを見た。
「おいで、わたくしのアトラ!」
お母さまは笑顔で両手を広げた。
「お母さま!」
光の中を走ってアトラウスはシルヴィアの胸にとびこんだ。
「ずーっと、ずーっといっしょだよ!」
もうアトラウスは、自分の黒い髪も瞳も、『罪の子』という言葉も気にならなかった。お母さまがずっと一緒にいてくれる。そう思うだけで息も詰まるほど、幸福だった。抱きついたはずみに、花冠が落ちた。アトラウスはそれを拾い、シルヴィアの黄金色の頭に乗せようとした。だがその時、アトラウスはシルヴィアの笑顔が奇妙に歪んでいるのに気づいた。
「……どうしたの、お母さま?」
「あいするアトラ……アトラウス・ルーン……お母さまはずっと、あなたの傍に……」
「お母さま! どうしたの?」
「アトラ……さようなら」
母の衣服が、貌が、朱に染まってゆく。夢と現実が同調し始めたのだが、勿論アトラウスには解らない。続いて、叫び声がした。
「シルヴィアーーッ!!」
お父さまの声だ! お父さまがぼくたちを連れ戻しにきたんだ。どうしよう!
……そこで、夢はとぎれた。
夜更かしをした為に、子どもたちはなかなか起きてこなかった。乳母や教育係に、今日は目を覚ますまで寝かせておくようにと指示して、アルフォンスとカレリンダは、カルシスの館を訪れる為に身支度をしているところだった。
昼前だった。玄関の辺りが騒がしい。支度を終えたアルフォンスは、何事かと下りて行った。
「あ……ああ、兄貴……」
玄関ホールに座り込み、弱々しい声を出してかれを見上げたのはカルシスだった。黄金色の髪は滅茶苦茶にかき回したように乱れ、とりあえず羽織ったらしい上衣はよれよれという姿である。
「カルシス?! いったいどうした?」
カルシスの顔は真っ赤で、その目は泣いたように腫れて爛れている。その息からは酒の臭いがした。
「シルヴィアが……ああ、おれはどうすればいいんだ……」
「シルヴィアがどうしたんだ?!」
「一緒に来てくれよ……大神官も来てる。あいつ……許せねえ」
「どういう意味だ? シルヴィアはどうしているんだ?」
「……言いたくない。とにかく来て見てくれ。それから、がきは……アトラウスはどうしている?」
「まだ子どもたちは眠っている。疲れているんだ」
応えながらも、カルシスのただならぬ様子に、アルフォンスの胸中で不吉な予感が高まってゆく。許せないとはシルヴィアのことか? まさか不貞は本当のことで、罪を遺書にしたためて自害でも図ったのでは……?
だが、カルシスの言葉は、その想像を否定する。
「許してくれ、シルヴィア、アトラウス……おれは……真実さえ知っていれば、お前らを憎んだりしなかったのに……」
「……どういう事だ?」
昨日、シルヴィアは自信ありげに、自らの無実を証明すると言っていた。それが本当にカルシスに伝わったのか。だが、当のシルヴィアはどうなったのか。
「はっきり言え、カルシス! シルヴィアはどうしたんだ?!」
「おれには言えない……とにかく、アトラウスを連れて来てくれよ。あれは、おれとシルヴィアのがきだった」
泣きそうな声でカルシスは言う。酒臭い息にアルフォンスは眉を顰める。何か受け入れがたい現実から逃れたくなるとすぐに酒に頼るのは、弟の昔からの悪癖だ。
「シルヴィアは無事なのか?」
「来ればわかる。とにかくあんたとアトラウスと、来て欲しいんだ」
「……わかった」
これ以上問答しても、答えは得られそうにない。とにかくシルヴィアを見舞わなくては。
乳母に起こされて、目をこすりながらアトラウスが階段の上に姿を現した。不吉な夢のあと、また途切れ途切れに眠りが訪れて、いまは夢のことは忘れているが、ひどく寝汗をかいている。しかし、急ぐという事で、まだ夜着のままである。そんなアトラウスは、父親の姿を見て、いっぺんに目が覚めたように顔を強ばらせた。
「ぼく……帰るの? お母さまは来てくれないの?」
泣きそうな声でアトラウスは言った。
「大丈夫だよ、アトラウス。伯父さまも一緒に行くからね。お母さまをお見舞いに行くんだ。またいつでもここに来ていいからね」
アルフォンスは急く心を抑えながら歩み寄り、怯えを隠さない甥を優しくなだめた。カレリンダもすぐに部屋から出てきた。
「どうしたの……何があったの?」
アトラウスの前で、シルヴィアの身に変事があったらしいとは言えない。
「……とにかく、予定通りシルヴィアのところへ行こう」
夫の表情と階下で頭を抱えてうずくまっている義弟の様子から、カレリンダも、ただならぬ事が起きていると察し黙って頷いた。
馬車の中、アルフォンス夫妻の間にアトラウスは座った。向かい側に父親がいる。父親は時々アトラウスの顔を見ては、溜息をついた。その目には、いつものような苛立った光はない。苦しみと哀れみ……だが、まだそれを読み取れるほどアトラウスは成熟していない。ただ、大人たちの様子から、なにかただならぬことが起きたのだと察せられ、怯えていた。どうしてお母さまは一緒じゃないのだろう? どうしてみんな、怖い顔をしているのだろう?
カルシスが何も言わないので、アルフォンスもカレリンダも、アトラウスの前である事を気遣ってあまり問い詰めなかった。だが、シルヴィアの身に重大な異変が起きた事は容易に想像が付く。
「あなた……シルヴィアは魔道を使ったのですわ。恐らく、シルヴィアは……」
馬車に乗る前、アトラウスに聞こえぬよう、カレリンダは夫に囁いた。カルシスを通して、神子である彼女には、断片的に魔道の痕跡が感じられたのだ。よく見ると、カルシスの衣服には血がついている。シルヴィアの血であるとカレリンダには直感的に判った。
「お母さまはどうしたのですか……伯父さま」
遂に沈黙に耐えきれなくなって、アトラウスはアルフォンスを見上げて尋ねた。
「うん……少し具合が悪いのかも知れないね。伯父さまがお母さまとお話ししてみるから、心配しないで待っておいで」
そうとしか、アルフォンスには言えなかった。アトラウスは黙って俯いた。
そして馬車はカルシス邸に着いた。
出迎えた執事に、アトラウスを着替えさせて別室で落ち着いて待てるように相手をせよとアルフォンスは指示する。執事がアトラウスの手をとって優しく廊下の向こうへ連れて行くのを見てから、改めてアルフォンスは、シルヴィアはどうしたのかとカルシスに責め寄った。
だが、その時。アトラウスは執事の手をさっと振り払い、風のように父と伯父の脇をすり抜けて階段を駆け上がった。長い間幽閉されていた痩せ細った子供が、爆発的な力を見せた。大人たちも不意を突かれ、咄嗟にこの幼子を捕まえることが出来なかった。
お母さまはどうしたのだろう? 早くお母さまに会いたくて、もうこれ以上待てない。お父さまにぶたれてもいいから、お母さまに会いたい。アトラウスの頭にはそれしかない。
二階の廊下で、侍女たちが身を寄せ合って啜り泣いていた。オルガが真っ先に、駆けてくるアトラウスに気づいた。
「あっ、いけません、若様!!」
オルガになど構っていられない。もう記憶は薄らいでいたけれど、物心つくかつかないかのうちに過ごしたシルヴィアの部屋が、アトラウスにははっきりと判った。
「お母さま!」
アトラウスは扉を開け放った。夢にみた笑顔のお母さまが迎えてくれることを願いながら。
そして、幼いアトラウスは見た。床から壁にかけて飛び散り染まった血の朱の色……その血溜まりの中に伏して動かない母親の亡骸を。