炎獄の娘
16・後悔
それからダルシオンは、細かに調査をした結果アトラウスは間違いなくカルシスとシルヴィアの子である、と皆に告げ、ようやく遺体を清めて寝台に移すことを許可し、帰って行った。
カルシスは相変わらず着替えもせず礼も言わず、血走った目でダルシオンを睨み続けている。アルフォンスが代わって大神官に労をねぎらい、礼を言って送り出した。互いに思うところがあったにせよ、二人はもう余計な事は何も言わなかった。
オルガにアトラウスの様子を見させたが、地下の自分の寝台で泣き疲れて眠っているようだという事なので、目は離さず、暫くそっとしておくようにとアルフォンスは指示した。
「カルシス……」
カルシスは、侍女たちがシルヴィアの部屋を掃除し、遺体を清めて血まみれの衣服を取り替え、寝台に安置する様を、戸口に立ち、黙って眺めていた。カレリンダはシルヴィアの枕元に跪き、静かに祈りを捧げている。アルフォンスは弟に何と声をかけるべきか迷った。無論、カルシスに対する怒りは大きい。ここに来るまでの間、もしシルヴィアの身に異変があれば、絶対に弟を許さない、と思っていた。だが、彼を責めてもシルヴィアが戻る訳でもない。かつて、カルシスとシルヴィアは愛情で結ばれていた。それが破綻したのは、すべて誤解からなのだ。カルシスの愚かさと頑なさがなければ解けていた誤解であったとしても。呆然として抜け殻のように立ち尽くしている弟を見ていると、罵る気は薄れていった。それが、アルフォンスの優しさであり弱さである。
「……シルヴィアさまの書き置きがございました」
侍女頭が書状の束をカルシスへ差し出した。
「……なんて書いてあるんだ?」
掠れた声でそう応じただけで、カルシスは受け取ろうともしない。アルフォンスが代わりにそれを受け取った。
「……おまえに、アトラウスに、そしてわたしにだ」
ダルシオンに宛てたものは、既に彼が持ち帰っていた。
「おれに、どんな恨み言を?」
「読んでいいのか?」
「ああ、読んでくれ」
そこでアルフォンスはカルシスの腕を引いて別室へ移り、使用人のいない所でシルヴィアの遺言を読んで聞かせた。カルシスはされるがままになって椅子にかけ、短い遺言を聞き、ようやくそれを自分の手で受け取って読んで、そして初めて涙を見せた。
「ほんとうにあいつはおれを想っていたのか。ほんとうに……最初から最後まで、あいつは、シルヴィアは、おれを裏切っていなかったのか。なんでおれは、あいつのことを少しも信じてやらなかったんだろう。おれは怖かったんだ。もしも信じて、それがまた裏切りだったらと、それが怖くて、あいつらを痛めつけて自分を慰めていたんだ……」
呟くようにカルシスは独りごちた。
「あいつらはおれのものだと……痛めつけてここに置いていれば、いつまでもおれのものだと……そんな真似をしなくても、あいつらは最初からずっと、おれの妻とがきだったのに……」
「……」
その悔恨の言葉を聞いても、やはりアルフォンスは、心から弟を思いやったり、許したりする事は出来ない。あのシルヴィアの凄惨な最期を見たばかりでは。『幸せにしてあげて欲しい』と心から願って託したのに、こんな結末しか彼女に与えられなかったのは、人に打ち明ける事が出来なかった弟のつまらない自尊心のせいだ。シルヴィア……優しくて善良なところが何よりの取り柄だと思っていた彼女があんなに強い心を持っていたなんて、自分は何と人を見る目がなかったのか。だが、そのシルヴィアが最後に自分に託した願いは、アトラウスのこと、そして、兄弟仲良く、ということ。その願いを叶えてやる責任が自分にはある、とアルフォンスは思った。
「カルシス、もう、いい」
アルフォンスは重い口を開いた。
「反省は必要だが、過ぎたことは還らない。おまえが今一番すべき事は、アトラウスに詫びて、傷つきすぎた心を癒やしてやることじゃないのか。なんといってもおまえはあの子の父親で、おまえがあの子を立派に嫡子として育てる事が、シルヴィアの一番の望みなんだ」
「おれは……おれはあのがきに合わせる顔がない。どのみち、あいつはおれを許さないだろう」
絞り出すように悲痛な声でカルシスは言う。暴力で意のままに抑えつけてきた幼い息子を、恐れているようでさえあった。ようやく血を分けた実子であると理解した息子と向き合う事は、五年間に及ぶ自分の過ちに向き合う事であるのだから。アトラウスは父を許さない……そうかも知れない、とアルフォンスも思う。シルヴィアの死の直接の原因は結局、アトラウスでもなくアルフォンスでもなく、カルシスなのだから。しかし、根気強くアルフォンスは続けた。
「カルシス、シルヴィアは自分の死がアトラウスを傷つけないよう、あの子へこんな書き置きまで残しているんだ。あと何年か、アトラウスが自分の死を知らずに済むよう……知っても、自分のせいだと思わないよう。なのに、可哀想にアトラウスは最悪な形で彼女の死を知ってしまった。あんなに幼いのに、こんな辛い目に遭って、あの子をどうやって立ち直らせられるのか、正直わたしにもどうすればいいのかわからない。でも、どうにかして、あの子を外へ出して、ちゃんと育てるようにするんだ。いくらでも助力はする。しかし最終的には、父親のおまえが対処すべきことだ」
「兄さん……」
カルシスは涙声で縋るように言う。
「おれはどうしたらいいかわからないよ。おしえてくれよ、兄さん。あんたはなんでもできる筈だ」
「……」
不仲だった弟が、生まれて初めて自分に頼ってきている。涙に湿った黄金色の目は心からの後悔の念を湛えている。弟のこんな表情は見た事がなかった。物心もつかずに自分のあとをついて歩いていた頃を過ぎてからは、あの瞬きのような光輝いた新婚の間を除いては常に、反抗的で妬みと憎しみとを交えた目つきしかしていなかった。兄さえこの世にいなければ、と本気で考えている時、彼が隠しているつもりでもアルフォンスにはそれがひしひしと伝わってきていつもやるせない気分に囚われたものだ。両親が嫡男ばかりを立てて弟を冷遇するからこのように性格が歪んだとのだと不憫に思い、この世にたったふたりの兄弟なのだからいつか解り合える時も来るだろうとそれでも辛抱強く我慢して、カルシスの事を一番考えてやっていたのはシルヴィアを除けばアルフォンスであったのに、今まで一度もカルシスはその事を考えようともしなかった。
そして今もまた、これまでどれだけ自分が兄に迷惑をかけてきたか、自分の頑なな考えがどんなに深刻な状況を引き起こしてしまったのかを反省するよりも、それからは目を逸らして、自分がどうやって窮地から抜け出すかを悩み、自分の責任と咎から救ってくれそうだという理由だけで兄に頼ろうとしているように見える。勝手すぎる、しかしアルフォンスはただ、弟の頼みに上手く応えられない自分がもどかしい。いくら優れた人間といっても、あれ程に傷ついた幼い心を癒やす術など、そう簡単に見出せる訳もない。
「わたしだって何でも出来る訳じゃない……。だが、カレリンダならもう少し何か出来るかも知れない。こういう事は、女性の方が向いているだろう」
ただそう言うのが精一杯だった。アトラウスと同じ年頃の子どもの母親であり、大層愛情深い性質である妻の方が、固く閉ざされた幼子のこころをほぐす術を知っているだろう。シルヴィアとアトラウスの境遇に深く同情し、涙を見せていたカレリンダ。暫くの間でも、アトラウスの養育は彼女に任せるのがいいように思われるし、きっと彼女もその為に力を尽くしてくれるだろう。シルヴィアと従姉妹同士で同じ黄金色の髪と瞳。癒やしの象徴、聖炎の神子である彼女になら、アトラウスも心を開ける日が来るかも知れない。確かにアトラウスの為には、カルシス一人に対処させる事には無理がある。自分も……『伯父さまのせいだ!』と叫んだあの子が、そう簡単に自分の言葉に耳を貸すとは思えない。
幼いアトラウスの味わった苦しみに胸を痛め、様々と考えを巡らせるアルフォンスの前で、当の父親であるカルシスの方は、まるで自分が被害者ででもあるかのように頭を抱えて呻いた。
「だれでもいい、なんでもいいから、おれを助けてくれ……」
カルシスは相変わらず着替えもせず礼も言わず、血走った目でダルシオンを睨み続けている。アルフォンスが代わって大神官に労をねぎらい、礼を言って送り出した。互いに思うところがあったにせよ、二人はもう余計な事は何も言わなかった。
オルガにアトラウスの様子を見させたが、地下の自分の寝台で泣き疲れて眠っているようだという事なので、目は離さず、暫くそっとしておくようにとアルフォンスは指示した。
「カルシス……」
カルシスは、侍女たちがシルヴィアの部屋を掃除し、遺体を清めて血まみれの衣服を取り替え、寝台に安置する様を、戸口に立ち、黙って眺めていた。カレリンダはシルヴィアの枕元に跪き、静かに祈りを捧げている。アルフォンスは弟に何と声をかけるべきか迷った。無論、カルシスに対する怒りは大きい。ここに来るまでの間、もしシルヴィアの身に異変があれば、絶対に弟を許さない、と思っていた。だが、彼を責めてもシルヴィアが戻る訳でもない。かつて、カルシスとシルヴィアは愛情で結ばれていた。それが破綻したのは、すべて誤解からなのだ。カルシスの愚かさと頑なさがなければ解けていた誤解であったとしても。呆然として抜け殻のように立ち尽くしている弟を見ていると、罵る気は薄れていった。それが、アルフォンスの優しさであり弱さである。
「……シルヴィアさまの書き置きがございました」
侍女頭が書状の束をカルシスへ差し出した。
「……なんて書いてあるんだ?」
掠れた声でそう応じただけで、カルシスは受け取ろうともしない。アルフォンスが代わりにそれを受け取った。
「……おまえに、アトラウスに、そしてわたしにだ」
ダルシオンに宛てたものは、既に彼が持ち帰っていた。
「おれに、どんな恨み言を?」
「読んでいいのか?」
「ああ、読んでくれ」
そこでアルフォンスはカルシスの腕を引いて別室へ移り、使用人のいない所でシルヴィアの遺言を読んで聞かせた。カルシスはされるがままになって椅子にかけ、短い遺言を聞き、ようやくそれを自分の手で受け取って読んで、そして初めて涙を見せた。
「ほんとうにあいつはおれを想っていたのか。ほんとうに……最初から最後まで、あいつは、シルヴィアは、おれを裏切っていなかったのか。なんでおれは、あいつのことを少しも信じてやらなかったんだろう。おれは怖かったんだ。もしも信じて、それがまた裏切りだったらと、それが怖くて、あいつらを痛めつけて自分を慰めていたんだ……」
呟くようにカルシスは独りごちた。
「あいつらはおれのものだと……痛めつけてここに置いていれば、いつまでもおれのものだと……そんな真似をしなくても、あいつらは最初からずっと、おれの妻とがきだったのに……」
「……」
その悔恨の言葉を聞いても、やはりアルフォンスは、心から弟を思いやったり、許したりする事は出来ない。あのシルヴィアの凄惨な最期を見たばかりでは。『幸せにしてあげて欲しい』と心から願って託したのに、こんな結末しか彼女に与えられなかったのは、人に打ち明ける事が出来なかった弟のつまらない自尊心のせいだ。シルヴィア……優しくて善良なところが何よりの取り柄だと思っていた彼女があんなに強い心を持っていたなんて、自分は何と人を見る目がなかったのか。だが、そのシルヴィアが最後に自分に託した願いは、アトラウスのこと、そして、兄弟仲良く、ということ。その願いを叶えてやる責任が自分にはある、とアルフォンスは思った。
「カルシス、もう、いい」
アルフォンスは重い口を開いた。
「反省は必要だが、過ぎたことは還らない。おまえが今一番すべき事は、アトラウスに詫びて、傷つきすぎた心を癒やしてやることじゃないのか。なんといってもおまえはあの子の父親で、おまえがあの子を立派に嫡子として育てる事が、シルヴィアの一番の望みなんだ」
「おれは……おれはあのがきに合わせる顔がない。どのみち、あいつはおれを許さないだろう」
絞り出すように悲痛な声でカルシスは言う。暴力で意のままに抑えつけてきた幼い息子を、恐れているようでさえあった。ようやく血を分けた実子であると理解した息子と向き合う事は、五年間に及ぶ自分の過ちに向き合う事であるのだから。アトラウスは父を許さない……そうかも知れない、とアルフォンスも思う。シルヴィアの死の直接の原因は結局、アトラウスでもなくアルフォンスでもなく、カルシスなのだから。しかし、根気強くアルフォンスは続けた。
「カルシス、シルヴィアは自分の死がアトラウスを傷つけないよう、あの子へこんな書き置きまで残しているんだ。あと何年か、アトラウスが自分の死を知らずに済むよう……知っても、自分のせいだと思わないよう。なのに、可哀想にアトラウスは最悪な形で彼女の死を知ってしまった。あんなに幼いのに、こんな辛い目に遭って、あの子をどうやって立ち直らせられるのか、正直わたしにもどうすればいいのかわからない。でも、どうにかして、あの子を外へ出して、ちゃんと育てるようにするんだ。いくらでも助力はする。しかし最終的には、父親のおまえが対処すべきことだ」
「兄さん……」
カルシスは涙声で縋るように言う。
「おれはどうしたらいいかわからないよ。おしえてくれよ、兄さん。あんたはなんでもできる筈だ」
「……」
不仲だった弟が、生まれて初めて自分に頼ってきている。涙に湿った黄金色の目は心からの後悔の念を湛えている。弟のこんな表情は見た事がなかった。物心もつかずに自分のあとをついて歩いていた頃を過ぎてからは、あの瞬きのような光輝いた新婚の間を除いては常に、反抗的で妬みと憎しみとを交えた目つきしかしていなかった。兄さえこの世にいなければ、と本気で考えている時、彼が隠しているつもりでもアルフォンスにはそれがひしひしと伝わってきていつもやるせない気分に囚われたものだ。両親が嫡男ばかりを立てて弟を冷遇するからこのように性格が歪んだとのだと不憫に思い、この世にたったふたりの兄弟なのだからいつか解り合える時も来るだろうとそれでも辛抱強く我慢して、カルシスの事を一番考えてやっていたのはシルヴィアを除けばアルフォンスであったのに、今まで一度もカルシスはその事を考えようともしなかった。
そして今もまた、これまでどれだけ自分が兄に迷惑をかけてきたか、自分の頑なな考えがどんなに深刻な状況を引き起こしてしまったのかを反省するよりも、それからは目を逸らして、自分がどうやって窮地から抜け出すかを悩み、自分の責任と咎から救ってくれそうだという理由だけで兄に頼ろうとしているように見える。勝手すぎる、しかしアルフォンスはただ、弟の頼みに上手く応えられない自分がもどかしい。いくら優れた人間といっても、あれ程に傷ついた幼い心を癒やす術など、そう簡単に見出せる訳もない。
「わたしだって何でも出来る訳じゃない……。だが、カレリンダならもう少し何か出来るかも知れない。こういう事は、女性の方が向いているだろう」
ただそう言うのが精一杯だった。アトラウスと同じ年頃の子どもの母親であり、大層愛情深い性質である妻の方が、固く閉ざされた幼子のこころをほぐす術を知っているだろう。シルヴィアとアトラウスの境遇に深く同情し、涙を見せていたカレリンダ。暫くの間でも、アトラウスの養育は彼女に任せるのがいいように思われるし、きっと彼女もその為に力を尽くしてくれるだろう。シルヴィアと従姉妹同士で同じ黄金色の髪と瞳。癒やしの象徴、聖炎の神子である彼女になら、アトラウスも心を開ける日が来るかも知れない。確かにアトラウスの為には、カルシス一人に対処させる事には無理がある。自分も……『伯父さまのせいだ!』と叫んだあの子が、そう簡単に自分の言葉に耳を貸すとは思えない。
幼いアトラウスの味わった苦しみに胸を痛め、様々と考えを巡らせるアルフォンスの前で、当の父親であるカルシスの方は、まるで自分が被害者ででもあるかのように頭を抱えて呻いた。
「だれでもいい、なんでもいいから、おれを助けてくれ……」