炎獄の娘
2・離れの館
季節がよくて色とりどりの花が咲き乱れていた。カルシスは本当は庭などにはさして興味もなく、普段目をやることさえなかったが、かつて元気だった頃シルヴィアが念を入れて雇った庭師がよく働く男で、いつか奥方がお庭に出られる日の為にと、手入れを怠らず丹念に管理していたのだった。
初めて足を踏み入れた綺麗な庭園で戯れるうちに子どもたちはすぐに父と叔父の諍いなど忘れてしまった。父たちの姿が見えない奥の方まで進んだ時、ファルシスは小さな建物があるのに気づいた。
「庭師の小屋かな?」
だが、それにしては造りのよすぎる建物だった。煉瓦造りのしっかりした小館で、どこか謎めいた雰囲気がある。元気いっぱいのファルシスは好奇心を刺激され、戸口を押してみたが、しっかりと施錠されていた。
「ファル、叱られるよ」
ユーリンダはおどおどと兄を諫めたが、そんな言葉くらいでは小さな冒険者は止められない。
「怖いならここにいろよ」
「やだ、おいていかないで」
館の裏手に回っていく兄に、ユーリンダは仕方なくついていった。
裏側には窓があった。人影はない。ファルシスが背伸びをして触れると、窓には鍵はかかっていない事がわかった。
「いいぞ、入れるぞ」
「ファルったら! だめよ!」
「秘密の館だぞ。何かあるのか、確かめない手があるもんか」
大人なら、こんな庭園の奥にある館なんて、せいぜい今は使われていない客館か何かとしか思わないだろう。だが、幼い少年の想像力は無限である。
「すごい宝物があるかも知れないぞ」
「そんなものをどうするつもりなの?」
「どうするって、ただ見たいだけさ。そうだ、それとも、妖精が捕まっているのかもしれないぞ」
「……妖精?」
この言葉には、おとぎ話が大好きなユーリンダの心も揺らいでしまった。
「そうさ、この庭の花の妖精さ。うっかり姿を現してしまって、ここに封印されちゃったのかも知れないぞ」
「だったら、助けてあげないといけないわね」
簡単に、兄に乗せられてしまうユーリンダだった。
ファルシスは近くにあった木箱を見つけてきて、それを窓の下に寄せると、身軽に飛び乗って窓枠によじのぼり、中へ入った。
「ファル? 大丈夫?」
「大丈夫。待ってろ、今、戸を開けてやるから」
「いいわ、私も窓から入る。戸を開けてたら、誰かに見つかるかも知れないもの」
そう言うと、ユーリンダは兄と同じ素早さで窓にとりついた。幼いユーリンダは、お人形のような外見とは裏腹にかなりお転婆だったのだ。
室内は薄暗かったが、きちんと整えられた厨房で、しかもほんの先程まで人がいて調理をしていた形跡がある。
「妖精は何を食べるのかしら?」
「人間の食べ物じゃないと思うな。薔薇のスープとかじゃないか」
ひそひそと子どもたちは話し合った。厨房の戸は開いているが、その向こうの狭い廊下にも人の気配はない。ここで調理をした人物は、他の用をする為に、表に鍵をかけて出て行ったのだろう、とふたごは思った。
そうっと廊下へ出ると、小部屋がひとつある。中を覗くと、どうも小間使いの部屋らしかった。戸を閉めて辺りを見回すと、廊下の突き当たりに、下へ続く階段がある。灯火はなく、階段の深さは測れない。
「ファル……怖いわ」
「じゃあ待ってなよ」
「いやよ、ひとりにしないで」
ファルシスは厨房へ戻ると、小さなランプを見つけてきた。ぽうっと廊下が明るくなる。きちんと掃除の行き届いた清潔な様子だ。
「ほら、これで怖くないだろ」
「うん」
ランプで照らしながら、ファルシスが先に立って階段を下り、兄の肩にすがりながらユーリンダが後に続いた。階段は、幼い子どもにとっては長く、恐怖心も手伝って、果てしなく続くかに思われた。
「怖いよ……」
「しっ」
ファルシスは妹を制した。小さな足は、階段から地下の廊下へと移ったのだ。
「魔法がかかっているかも知れないわ」
「そういう感じがするのか?」
この年齢で既に、母はユーリンダには大きな魔力があると言っていた。勿論、使い方はわからないし、禁じられているので使ってみようと思ったこともない。でも確かに、妹には自分には感じられないものを感じ取る力がある事をファルシスは知っていた。
「ううん。ただ、そうだったらどうしようかと思っただけ」
「なら大丈夫さ。ぼくがついているからな」
幼い兄は根拠もなく胸を張ったが、それで妹を少し安心させる事はできた。
「手を離さないでね」
「うん」
しっかりと手をつないで、ふたごは冒険を続行した。
ランプのあかりを頼りに地下の暗い廊下を歩いていく。真っ直ぐな廊下で障害物もない。廊下の突き当たりに、扉がひとつあった。
「ファル……」
「しっ……」
不安に声を出す妹を制したが、人の気配は感じられない。足音を忍ばせてファルシスは扉に近づいた。地下室には不似合いな頑丈な扉だ。大人の目線くらいの高さに、薄い布がかかっている。中の様子を見る為の覗き穴ではないかとファルシスは思った。
「ユーリィ、おんぶしてやるから、あの布の下に何があるか見てみなよ」
「やだ、怖いわ」
「じゃあユーリィがぼくをおんぶして」
「……いいよ」
四歳のふたごの体格はほぼ同じだった。よろめきながらユーリンダは兄をおんぶし、ファルシスは一生懸命手を伸ばしたが、僅かに布の下端に触れる事ができただけだった。布の下は窓のようになっているようだったが、よくはわからない。
「……もうだめぇ~」
もう少しで窓枠のようなものに手が届きそうだった時、ユーリンダが急に声をあげ、尻餅をついた。ファルシスは廊下に投げ出されて壁に思い切り頭をぶつける羽目になった。
「痛って~」
「ご、ごめんね、ファル、だいじょうぶ?」
「……へいきさ、これくらい」
たんこぶがずきずき痛んだが、ファルシスは虚勢を張った。
「それより、中に誰かいるなら、ぼくたちに気がついたんじゃないか?」
「そ、そうね。妖精さん、いるかしら?」
中からは、相変わらず何の気配もしない。しかし、ファルシスが布に触れた時、僅かにほの暗い灯りが洩れた。使われていない部屋ではないように思える。思い切ってファルシスは扉の取っ手に手をかけて回した。……鍵がかかっている。がっかりしてファルシスは手を離した。
その時だった。
「……ルガ? もしかして、……が来られたの?」
か細い声が、だが確かに、扉の内側から聞こえた。ファルシスとユーリンダは顔を見合わせた。
「お食事はさっき済んだばかりだよね。ねえ、オルガ?」
声の主は、扉に近づいてきたようだった。幼くか弱い声は、少年のものか少女のものか、判別をつけかねたが、声の主が何かを期待しているような響きは感じられた。
「……きみ、だれ?」
意を決して、ファルシスは問いかけた。
「……?!」
中の人物は、知らない声がしたのでひどく驚いたようだった。慌てて何か倒したのか、ものが割れる音が聞こえた。
「ねえ、きみ、どうしてここにいるの? 閉じ込められてるの?」
更にファルシスは問いかけたが、もう中からは何の音も声もしない。相手を怯えさせてしまったようだった。
「あなた、妖精さんなの?」
勇気を出してユーリンダも声をかけてみたが、やはり何の反応もない。
ファルシスは、どうにかして扉を開けられないかと、周囲を見回した。すると、何のこともない、扉の横の壁に釘が打ってあり、そこに、輪に通した鍵がかけられているではないか。この鍵は、ただ中の者が勝手に外へ出ないようにかけられているだけであり、誰かが忍び込んで許可なく鍵をあける事までは想定されていないようだった。
兄が鍵を手にしたのを見て、ユーリンダは急に怖ろしくなった。
「ファル、魔物だったらどうするの? お父さまに聞いてみてからにした方が……」
「おとなに聞いたら、だめって言われるに決まってるだろ。カルシス叔父さまが閉じ込めているんだぞ」
「じゃあ、カルシス叔父さまに聞いてみたら……」
「カルシス叔父さまはさっきもお父さまとけんかしてたじゃないか。ぼくらの言うことなんか聞いてくれるもんか。……魔法の気配とか、しないんだろ。だったら大丈夫だよ」
「魔法の気配はしないけど……」
ユーリンダは、ひどく胸騒ぎを感じていた。これは、わるいもの? それとも、いいもの? わからなかった。でもなにか、いままで感じたことのない不思議な感覚。もう少し彼女が大きければ、それを、『運命を変える出会いの予感』と表現できただろう。
ファルシスは鍵穴に鍵を入れて回した。がちゃり、と音を立てて鍵は回った。力を込めて押すと、重い扉は内側へ開いた。
中は、薄暗かった。高いところに明かり取りの窓があり、陽光が差し込んでいるが、あとはランプの光だけである。元から置かれているランプに、ファルシスの手にしたランプの灯りが加わった。ファルシスとユーリンダは、驚きに目を瞠りながら室内を見回した。
初めて足を踏み入れた綺麗な庭園で戯れるうちに子どもたちはすぐに父と叔父の諍いなど忘れてしまった。父たちの姿が見えない奥の方まで進んだ時、ファルシスは小さな建物があるのに気づいた。
「庭師の小屋かな?」
だが、それにしては造りのよすぎる建物だった。煉瓦造りのしっかりした小館で、どこか謎めいた雰囲気がある。元気いっぱいのファルシスは好奇心を刺激され、戸口を押してみたが、しっかりと施錠されていた。
「ファル、叱られるよ」
ユーリンダはおどおどと兄を諫めたが、そんな言葉くらいでは小さな冒険者は止められない。
「怖いならここにいろよ」
「やだ、おいていかないで」
館の裏手に回っていく兄に、ユーリンダは仕方なくついていった。
裏側には窓があった。人影はない。ファルシスが背伸びをして触れると、窓には鍵はかかっていない事がわかった。
「いいぞ、入れるぞ」
「ファルったら! だめよ!」
「秘密の館だぞ。何かあるのか、確かめない手があるもんか」
大人なら、こんな庭園の奥にある館なんて、せいぜい今は使われていない客館か何かとしか思わないだろう。だが、幼い少年の想像力は無限である。
「すごい宝物があるかも知れないぞ」
「そんなものをどうするつもりなの?」
「どうするって、ただ見たいだけさ。そうだ、それとも、妖精が捕まっているのかもしれないぞ」
「……妖精?」
この言葉には、おとぎ話が大好きなユーリンダの心も揺らいでしまった。
「そうさ、この庭の花の妖精さ。うっかり姿を現してしまって、ここに封印されちゃったのかも知れないぞ」
「だったら、助けてあげないといけないわね」
簡単に、兄に乗せられてしまうユーリンダだった。
ファルシスは近くにあった木箱を見つけてきて、それを窓の下に寄せると、身軽に飛び乗って窓枠によじのぼり、中へ入った。
「ファル? 大丈夫?」
「大丈夫。待ってろ、今、戸を開けてやるから」
「いいわ、私も窓から入る。戸を開けてたら、誰かに見つかるかも知れないもの」
そう言うと、ユーリンダは兄と同じ素早さで窓にとりついた。幼いユーリンダは、お人形のような外見とは裏腹にかなりお転婆だったのだ。
室内は薄暗かったが、きちんと整えられた厨房で、しかもほんの先程まで人がいて調理をしていた形跡がある。
「妖精は何を食べるのかしら?」
「人間の食べ物じゃないと思うな。薔薇のスープとかじゃないか」
ひそひそと子どもたちは話し合った。厨房の戸は開いているが、その向こうの狭い廊下にも人の気配はない。ここで調理をした人物は、他の用をする為に、表に鍵をかけて出て行ったのだろう、とふたごは思った。
そうっと廊下へ出ると、小部屋がひとつある。中を覗くと、どうも小間使いの部屋らしかった。戸を閉めて辺りを見回すと、廊下の突き当たりに、下へ続く階段がある。灯火はなく、階段の深さは測れない。
「ファル……怖いわ」
「じゃあ待ってなよ」
「いやよ、ひとりにしないで」
ファルシスは厨房へ戻ると、小さなランプを見つけてきた。ぽうっと廊下が明るくなる。きちんと掃除の行き届いた清潔な様子だ。
「ほら、これで怖くないだろ」
「うん」
ランプで照らしながら、ファルシスが先に立って階段を下り、兄の肩にすがりながらユーリンダが後に続いた。階段は、幼い子どもにとっては長く、恐怖心も手伝って、果てしなく続くかに思われた。
「怖いよ……」
「しっ」
ファルシスは妹を制した。小さな足は、階段から地下の廊下へと移ったのだ。
「魔法がかかっているかも知れないわ」
「そういう感じがするのか?」
この年齢で既に、母はユーリンダには大きな魔力があると言っていた。勿論、使い方はわからないし、禁じられているので使ってみようと思ったこともない。でも確かに、妹には自分には感じられないものを感じ取る力がある事をファルシスは知っていた。
「ううん。ただ、そうだったらどうしようかと思っただけ」
「なら大丈夫さ。ぼくがついているからな」
幼い兄は根拠もなく胸を張ったが、それで妹を少し安心させる事はできた。
「手を離さないでね」
「うん」
しっかりと手をつないで、ふたごは冒険を続行した。
ランプのあかりを頼りに地下の暗い廊下を歩いていく。真っ直ぐな廊下で障害物もない。廊下の突き当たりに、扉がひとつあった。
「ファル……」
「しっ……」
不安に声を出す妹を制したが、人の気配は感じられない。足音を忍ばせてファルシスは扉に近づいた。地下室には不似合いな頑丈な扉だ。大人の目線くらいの高さに、薄い布がかかっている。中の様子を見る為の覗き穴ではないかとファルシスは思った。
「ユーリィ、おんぶしてやるから、あの布の下に何があるか見てみなよ」
「やだ、怖いわ」
「じゃあユーリィがぼくをおんぶして」
「……いいよ」
四歳のふたごの体格はほぼ同じだった。よろめきながらユーリンダは兄をおんぶし、ファルシスは一生懸命手を伸ばしたが、僅かに布の下端に触れる事ができただけだった。布の下は窓のようになっているようだったが、よくはわからない。
「……もうだめぇ~」
もう少しで窓枠のようなものに手が届きそうだった時、ユーリンダが急に声をあげ、尻餅をついた。ファルシスは廊下に投げ出されて壁に思い切り頭をぶつける羽目になった。
「痛って~」
「ご、ごめんね、ファル、だいじょうぶ?」
「……へいきさ、これくらい」
たんこぶがずきずき痛んだが、ファルシスは虚勢を張った。
「それより、中に誰かいるなら、ぼくたちに気がついたんじゃないか?」
「そ、そうね。妖精さん、いるかしら?」
中からは、相変わらず何の気配もしない。しかし、ファルシスが布に触れた時、僅かにほの暗い灯りが洩れた。使われていない部屋ではないように思える。思い切ってファルシスは扉の取っ手に手をかけて回した。……鍵がかかっている。がっかりしてファルシスは手を離した。
その時だった。
「……ルガ? もしかして、……が来られたの?」
か細い声が、だが確かに、扉の内側から聞こえた。ファルシスとユーリンダは顔を見合わせた。
「お食事はさっき済んだばかりだよね。ねえ、オルガ?」
声の主は、扉に近づいてきたようだった。幼くか弱い声は、少年のものか少女のものか、判別をつけかねたが、声の主が何かを期待しているような響きは感じられた。
「……きみ、だれ?」
意を決して、ファルシスは問いかけた。
「……?!」
中の人物は、知らない声がしたのでひどく驚いたようだった。慌てて何か倒したのか、ものが割れる音が聞こえた。
「ねえ、きみ、どうしてここにいるの? 閉じ込められてるの?」
更にファルシスは問いかけたが、もう中からは何の音も声もしない。相手を怯えさせてしまったようだった。
「あなた、妖精さんなの?」
勇気を出してユーリンダも声をかけてみたが、やはり何の反応もない。
ファルシスは、どうにかして扉を開けられないかと、周囲を見回した。すると、何のこともない、扉の横の壁に釘が打ってあり、そこに、輪に通した鍵がかけられているではないか。この鍵は、ただ中の者が勝手に外へ出ないようにかけられているだけであり、誰かが忍び込んで許可なく鍵をあける事までは想定されていないようだった。
兄が鍵を手にしたのを見て、ユーリンダは急に怖ろしくなった。
「ファル、魔物だったらどうするの? お父さまに聞いてみてからにした方が……」
「おとなに聞いたら、だめって言われるに決まってるだろ。カルシス叔父さまが閉じ込めているんだぞ」
「じゃあ、カルシス叔父さまに聞いてみたら……」
「カルシス叔父さまはさっきもお父さまとけんかしてたじゃないか。ぼくらの言うことなんか聞いてくれるもんか。……魔法の気配とか、しないんだろ。だったら大丈夫だよ」
「魔法の気配はしないけど……」
ユーリンダは、ひどく胸騒ぎを感じていた。これは、わるいもの? それとも、いいもの? わからなかった。でもなにか、いままで感じたことのない不思議な感覚。もう少し彼女が大きければ、それを、『運命を変える出会いの予感』と表現できただろう。
ファルシスは鍵穴に鍵を入れて回した。がちゃり、と音を立てて鍵は回った。力を込めて押すと、重い扉は内側へ開いた。
中は、薄暗かった。高いところに明かり取りの窓があり、陽光が差し込んでいるが、あとはランプの光だけである。元から置かれているランプに、ファルシスの手にしたランプの灯りが加わった。ファルシスとユーリンダは、驚きに目を瞠りながら室内を見回した。