炎獄の娘
8・黒い髪のルーン
伸ばした黒髪を緩やかに束ね、銀灰色のびろうどの胴衣に水色の胸飾りをつけたアトラウス・ルーンは、双子のひとつ歳上、17歳になっていた。知的な深みを帯びた黒い瞳も落ち着いた物腰も、周囲の人々に好印象を与える。顔立ちは歳を重ねる毎に益々亡き母シルヴィアに似て、繊細な文芸肌の美青年といった風情である。アルフォンスは、この数奇な幼少期を送った甥を我が子のように扱い、ファルシスを宮廷に伴う折には常にアトラウスも同行させて様々なことを学ばせていた。それ故に、アトラウスは肩書の上では地方の伯爵の息子に過ぎないが、宮廷では知られる存在であった。彼の母の身に起きた悲劇……彼自身の悲惨な生い立ちは、12年を経た今でも知らぬ人は少ない。ルーン公の弟の愚行による悲劇は当時国中の噂にのぼり、我が子を救う為に自らの命を絶ったシルヴィアは美しい母性の象徴として民衆の間でも語り継がれた。そのせいか、人々はアトラウスに翳った印象を持つ。ルーン家の一員でありながら黒髪と黒い瞳を持つ彼が、次期ルーン公である従弟のファルシス、綺羅々かな黄金色の貴公子に物静かに寄り添うと、光と影のイメージは益々強いものとなる。
その上、アトラウスにはもう一つ、人の興味を惹く面があった。彼の父親の再婚である。シルヴィアの死から一年後、カルシスは二番目の妻を娶った。この縁組は当時、世の人々を驚愕させた。シルヴィアの悲劇が美談として語られるのと並行して、愚かな男の代名詞のように国中で囁かれたルーン公弟に、後妻として娘を嫁がせたのは、当時から既に宰相として権力を集めつつあったアロール・バロックだったのだ。つまり、アトラウスの義母は宰相の正妃の生んだ娘。もっと良い縁組がいくらでもあろうにと、世の人は勿論のこと、アルフォンスや当人のカルシスまでもが当惑せずにはいられなかった。バロック家の三女アサーナをカルシスに、と言い出したのは、ルーン家側ではなく、宰相アロール・バロックその人であった。大貴族の婚姻は家と家を結びつける為の政治的な意味合いが強いものであるのは常識ではあるが、領地を接するバロック家とルーン家の関係性は長年安定しており、この婚姻がバロック家の大きな益になるとも思われなかったし、国中で愚鈍と評判されている男の後妻に娘を嫁がせるというのも、極めて矜恃の高い人物としても知られる宰相らしくないと誰もが違和感を抱いたのである。長女は同じ七公のヴェイヨン公の嫡男に、次女は当時の王の従弟に嫁いでいる。明らかにカルシスは格の上でも人間性においても劣っている。だがカルシスは『宰相閣下が自分を認めてくれた』と大喜びであったし、アルフォンスとしても向こうから申し入れてきたものを断る理由もない。
この婚姻がなされる時、アルフォンスは弟に念を押した。
『アサーナどのが男子を産まれても、おまえの嫡男はアトラウスなんだ。これを覆すような事はわたしは認めないからな』
『解ってるよ……宰相閣下もその条件をご承知という事だから、おれは別にどっちでも構わない』
シルヴィアの死後、三ヶ月程アルフォンスの館で療養した後、アトラウスは父カルシスの元へ帰った。アルフォンスの選んだきちんとした教育係と世話係をつけ、カルシスが二度と息子を虐待しないよう、執事にもしっかり言い含めて頻繁に様子を報告させたが、流石のカルシスも反省したようで、アトラウスに乱暴をする事はないようだった。だが、当然の事ながらアトラウスは父親に懐かない。母の無惨な死の全ての原因は、父親の杜撰な誤解のせいだという事を5歳のアトラウスがどのような形でどれだけ理解しているのか、周囲の者にもはっきりと測りかねたが、とりあえず父に対しては礼儀正しく従順に接していた。カルシスの再婚話が舞い込んだ時、父子はそうしたぎくしゃくした関係にあり、アルフォンスはカルシスが、一時は反省したものの、宰相の娘と結婚出来ると知って有頂天になり、シルヴィアへの想いも忘れかけているようであったので、宰相に阿ってアトラウスを廃嫡し、次に出来た子を跡取りにする気ではないかと懸念して、何度もそれはしないと約束させた。だが、結局それは杞憂に過ぎなかった。
宰相の三女は非常に精神の弱い女性だった。人前に出るのを極端に忌み、結婚当初はそれでも妻の役目を果たしていたものの、娘をひとり産んだ後は夫さえも近づけなくなって、娘と共に部屋に籠もりっきりになってしまったのである。最初の妻は軟禁、二番目の妻は自ら引き籠もり……これもカルシスの業であろうとひそかに人々は囁き合った。ともかく、自他共に対して厳しい宰相の事であるから、大貴族の娘としての責を果たせそうにない娘を疎んでカルシスに押しつけたのであろうと、その時になって周囲の人々は理解したのである。カルシスは妻に対しては好きなようにさせて何不自由ないように計らい、気に入った側女を侍らせてそれで満足しているようである。たまに宮廷に顔を出すと、『宰相の娘婿』という立場を笠に着て威張り散らすので嫌われている。今回の結婚式、即位式に出席するのを非常に楽しみにしていたが、折悪しくひどい食あたりになり、王都へ出向くのが無理な状態になってしまっていた。アルフォンスとしては、この弟が結局この12年で心映えも変わらずに自己中心的で評判も悪くいつも恥ずかしい思いをさせられてきたので、内心ほっとしてもいた。
しかし、カルシスが『宰相の娘婿』であっても、アトラウスが『宰相の孫』である訳ではない。カルシスの妻が再び子を為す可能性もない訳ではない。アトラウスの立場は微妙なものだった。
「アトラったら、どこに行ってたの? あんなに約束していたのに」
「ごめんよ、ちょっと風にあたりに行っていたんだ。その様子だと、まだファル以外の方とは踊ってないみたいだね」
「当たり前じゃない。約束だもの」
「約束と言ったって、きみが強引に……」
「え……嫌なの?」
アトラウスの言葉にユーリンダの表情が曇る。アトラウスは困ったようにファルシスを見た。ファルシスはやはりと思いながら、
「ユーリンダ、とにかく、ティラール殿をお待たせしてはいけない。アトラとは後でゆっくり踊ればいいだろう?」
と妹に言い聞かせた。周囲は興味津々でこのやり取りを見守っている。ファルシスは背中に汗をかいた。アトラウスもファルシスの言葉に大きく頷いて、
「僕とはアルマヴィラでもいつでも踊れるだろう? 折角宰相閣下のご子息がお声をかけて下さっているのに、失礼をしてはいけないよ。僕は待っているから」
と言う。常ならば、この二人からここまで言われれば素直に従うユーリンダであるのだが、今のこの特別な状況にあって、ユーリンダは恐らくこれまでの人生の中でも最大にして最悪と思われる形の反抗をしてしまった。
「私は、アトラと最初に踊る約束をしていたんですもの。他の方のほうに、待って頂かないといけないわ」
「ユーリィ!」
あまりの聞き分けのなさに苛立って、ファルシスは拳を握り締めた。
「アトラの立場も考えるんだ。彼を困らせたいのか?」
「困る、ってどうして? 約束を守るのは大事なことでしょう? それとも……本当にいやなの、アトラ?」
小首を傾げて従兄を見上げるユーリンダの黄金色の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。その愛らしさに抗うのは、殆どの男性にとって困難なようにすら思われた。だが、アトラウスは一呼吸おいて僅かに首を横に振り、なるべく周囲に聞こえないように囁きかけた。
「いやじゃないよ……いやな訳がないだろう。だけど、状況を考えないと。僕の立場はどうでもいいが、このお誘いをお断りしては、きみが非常識の誹りを受けてしまうよ」
「そんな事はどうでもいいわ。私にとって大事なのは約束なの!」
この素晴らしい夜、生まれて初めて目にする様々な華やぎ、絢爛たる舞台で念願が叶わなければそのまま、いつかアトラウスの一番大切なひとになりたいという願いも断たれてしまうのではと、ユーリンダはそんな奇妙な焦りに囚われて、他人がどう思おうとこの約束を成就させる事のみを考えていた。大貴族の娘とも思えぬ、良く言えば純粋、悪く言えば無分別なこの気持ちを無理やりに変えさせるのは意外と困難なことで、人目もある中でこれ以上言い争うのも益々注目を集めるばかりときては、ファルシスもアトラウスも困り切って顔を見合わせるばかりであった。だが、救いの声は意外なところからかかった。
「お約束なさっていたのであれば仕方がない。わたしはお待ちしていましょう」
「ティラール殿……そんな……」
ファルシスは驚いて二の句が継げなかった。ユーリンダの我が儘のせいで、衆目の前で恥をかかせたというのに、まるで気にしていない風である。もしも自分がダンスを申し込んだ相手からこんな扱いをされたなら、二度とその女性に話しかけようとは思わないだろう。この公子はとても鷹揚なのか、それともただの鈍感なのか? ファルシスには測りかねた。
「その代わり、次にはわたしにお相手を務めさせて頂いてもよろしいですね、姫?」
宰相の息子の緑色の目は、周りの驚きなど気にも介さず、むしろ好奇心を刺激されたように面白げにユーリンダを見つめている。
「もちろんですわ、ありがとうございます」
これで丸く収まったと思ったユーリンダは、ほっとしてティラールに笑顔を向けた。
「しかし、それでは申し訳ありません」
アトラウスが困惑顔で言った。ティラールはそんなアトラウスを見て、
「ところで、貴公はどなたでいらっしゃいますか。わたしは宮廷に疎くて……」
と言う。これはアトラウスに恥をかかせようという意図ではなく、真から解っていないのであったが、周囲の人垣からくすくすと笑い声が洩れて、アトラウスの頬は僅かに紅潮した。
「これは申し遅れました。私はアトラウス・ルーン、ルーン公の甥、貴公の姉君の義理の息子にあたります」
「ああ! アサーナ姉上の! これは失礼、では、貴公はわたしの義理の甥になる訳だな!」
ティラールはそう言うと、屈託のない笑顔でアトラウスに握手を求める。アトラウスはそれを受けつつ、
「そうです、そういう意味でも目下である私が、先にという訳には……」
と言いかけたが、ティラールはそれを制した。
「いや、約束は大事でしょう、先程姫が仰った通り。どうか気にしないで踊って頂きたい。ただ……」
「ただ……?」
「ダンスのお相手は先を譲りますが、姫への恋の駆け引きでは、決して引きませんよ」
アトラウスは返答に詰まったふうにして、この実にはっきりとした宣戦布告を何とか聞き流した。要するに、ティラールはここで譲っても最終的には自分こそユーリンダに選ばれると自信を持つが故に余裕を持って振る舞っているのだ。確かに、この宰相の四男は、宰相とも王妃ともまるで異なった気性を持っているようであった。
その上、アトラウスにはもう一つ、人の興味を惹く面があった。彼の父親の再婚である。シルヴィアの死から一年後、カルシスは二番目の妻を娶った。この縁組は当時、世の人々を驚愕させた。シルヴィアの悲劇が美談として語られるのと並行して、愚かな男の代名詞のように国中で囁かれたルーン公弟に、後妻として娘を嫁がせたのは、当時から既に宰相として権力を集めつつあったアロール・バロックだったのだ。つまり、アトラウスの義母は宰相の正妃の生んだ娘。もっと良い縁組がいくらでもあろうにと、世の人は勿論のこと、アルフォンスや当人のカルシスまでもが当惑せずにはいられなかった。バロック家の三女アサーナをカルシスに、と言い出したのは、ルーン家側ではなく、宰相アロール・バロックその人であった。大貴族の婚姻は家と家を結びつける為の政治的な意味合いが強いものであるのは常識ではあるが、領地を接するバロック家とルーン家の関係性は長年安定しており、この婚姻がバロック家の大きな益になるとも思われなかったし、国中で愚鈍と評判されている男の後妻に娘を嫁がせるというのも、極めて矜恃の高い人物としても知られる宰相らしくないと誰もが違和感を抱いたのである。長女は同じ七公のヴェイヨン公の嫡男に、次女は当時の王の従弟に嫁いでいる。明らかにカルシスは格の上でも人間性においても劣っている。だがカルシスは『宰相閣下が自分を認めてくれた』と大喜びであったし、アルフォンスとしても向こうから申し入れてきたものを断る理由もない。
この婚姻がなされる時、アルフォンスは弟に念を押した。
『アサーナどのが男子を産まれても、おまえの嫡男はアトラウスなんだ。これを覆すような事はわたしは認めないからな』
『解ってるよ……宰相閣下もその条件をご承知という事だから、おれは別にどっちでも構わない』
シルヴィアの死後、三ヶ月程アルフォンスの館で療養した後、アトラウスは父カルシスの元へ帰った。アルフォンスの選んだきちんとした教育係と世話係をつけ、カルシスが二度と息子を虐待しないよう、執事にもしっかり言い含めて頻繁に様子を報告させたが、流石のカルシスも反省したようで、アトラウスに乱暴をする事はないようだった。だが、当然の事ながらアトラウスは父親に懐かない。母の無惨な死の全ての原因は、父親の杜撰な誤解のせいだという事を5歳のアトラウスがどのような形でどれだけ理解しているのか、周囲の者にもはっきりと測りかねたが、とりあえず父に対しては礼儀正しく従順に接していた。カルシスの再婚話が舞い込んだ時、父子はそうしたぎくしゃくした関係にあり、アルフォンスはカルシスが、一時は反省したものの、宰相の娘と結婚出来ると知って有頂天になり、シルヴィアへの想いも忘れかけているようであったので、宰相に阿ってアトラウスを廃嫡し、次に出来た子を跡取りにする気ではないかと懸念して、何度もそれはしないと約束させた。だが、結局それは杞憂に過ぎなかった。
宰相の三女は非常に精神の弱い女性だった。人前に出るのを極端に忌み、結婚当初はそれでも妻の役目を果たしていたものの、娘をひとり産んだ後は夫さえも近づけなくなって、娘と共に部屋に籠もりっきりになってしまったのである。最初の妻は軟禁、二番目の妻は自ら引き籠もり……これもカルシスの業であろうとひそかに人々は囁き合った。ともかく、自他共に対して厳しい宰相の事であるから、大貴族の娘としての責を果たせそうにない娘を疎んでカルシスに押しつけたのであろうと、その時になって周囲の人々は理解したのである。カルシスは妻に対しては好きなようにさせて何不自由ないように計らい、気に入った側女を侍らせてそれで満足しているようである。たまに宮廷に顔を出すと、『宰相の娘婿』という立場を笠に着て威張り散らすので嫌われている。今回の結婚式、即位式に出席するのを非常に楽しみにしていたが、折悪しくひどい食あたりになり、王都へ出向くのが無理な状態になってしまっていた。アルフォンスとしては、この弟が結局この12年で心映えも変わらずに自己中心的で評判も悪くいつも恥ずかしい思いをさせられてきたので、内心ほっとしてもいた。
しかし、カルシスが『宰相の娘婿』であっても、アトラウスが『宰相の孫』である訳ではない。カルシスの妻が再び子を為す可能性もない訳ではない。アトラウスの立場は微妙なものだった。
「アトラったら、どこに行ってたの? あんなに約束していたのに」
「ごめんよ、ちょっと風にあたりに行っていたんだ。その様子だと、まだファル以外の方とは踊ってないみたいだね」
「当たり前じゃない。約束だもの」
「約束と言ったって、きみが強引に……」
「え……嫌なの?」
アトラウスの言葉にユーリンダの表情が曇る。アトラウスは困ったようにファルシスを見た。ファルシスはやはりと思いながら、
「ユーリンダ、とにかく、ティラール殿をお待たせしてはいけない。アトラとは後でゆっくり踊ればいいだろう?」
と妹に言い聞かせた。周囲は興味津々でこのやり取りを見守っている。ファルシスは背中に汗をかいた。アトラウスもファルシスの言葉に大きく頷いて、
「僕とはアルマヴィラでもいつでも踊れるだろう? 折角宰相閣下のご子息がお声をかけて下さっているのに、失礼をしてはいけないよ。僕は待っているから」
と言う。常ならば、この二人からここまで言われれば素直に従うユーリンダであるのだが、今のこの特別な状況にあって、ユーリンダは恐らくこれまでの人生の中でも最大にして最悪と思われる形の反抗をしてしまった。
「私は、アトラと最初に踊る約束をしていたんですもの。他の方のほうに、待って頂かないといけないわ」
「ユーリィ!」
あまりの聞き分けのなさに苛立って、ファルシスは拳を握り締めた。
「アトラの立場も考えるんだ。彼を困らせたいのか?」
「困る、ってどうして? 約束を守るのは大事なことでしょう? それとも……本当にいやなの、アトラ?」
小首を傾げて従兄を見上げるユーリンダの黄金色の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。その愛らしさに抗うのは、殆どの男性にとって困難なようにすら思われた。だが、アトラウスは一呼吸おいて僅かに首を横に振り、なるべく周囲に聞こえないように囁きかけた。
「いやじゃないよ……いやな訳がないだろう。だけど、状況を考えないと。僕の立場はどうでもいいが、このお誘いをお断りしては、きみが非常識の誹りを受けてしまうよ」
「そんな事はどうでもいいわ。私にとって大事なのは約束なの!」
この素晴らしい夜、生まれて初めて目にする様々な華やぎ、絢爛たる舞台で念願が叶わなければそのまま、いつかアトラウスの一番大切なひとになりたいという願いも断たれてしまうのではと、ユーリンダはそんな奇妙な焦りに囚われて、他人がどう思おうとこの約束を成就させる事のみを考えていた。大貴族の娘とも思えぬ、良く言えば純粋、悪く言えば無分別なこの気持ちを無理やりに変えさせるのは意外と困難なことで、人目もある中でこれ以上言い争うのも益々注目を集めるばかりときては、ファルシスもアトラウスも困り切って顔を見合わせるばかりであった。だが、救いの声は意外なところからかかった。
「お約束なさっていたのであれば仕方がない。わたしはお待ちしていましょう」
「ティラール殿……そんな……」
ファルシスは驚いて二の句が継げなかった。ユーリンダの我が儘のせいで、衆目の前で恥をかかせたというのに、まるで気にしていない風である。もしも自分がダンスを申し込んだ相手からこんな扱いをされたなら、二度とその女性に話しかけようとは思わないだろう。この公子はとても鷹揚なのか、それともただの鈍感なのか? ファルシスには測りかねた。
「その代わり、次にはわたしにお相手を務めさせて頂いてもよろしいですね、姫?」
宰相の息子の緑色の目は、周りの驚きなど気にも介さず、むしろ好奇心を刺激されたように面白げにユーリンダを見つめている。
「もちろんですわ、ありがとうございます」
これで丸く収まったと思ったユーリンダは、ほっとしてティラールに笑顔を向けた。
「しかし、それでは申し訳ありません」
アトラウスが困惑顔で言った。ティラールはそんなアトラウスを見て、
「ところで、貴公はどなたでいらっしゃいますか。わたしは宮廷に疎くて……」
と言う。これはアトラウスに恥をかかせようという意図ではなく、真から解っていないのであったが、周囲の人垣からくすくすと笑い声が洩れて、アトラウスの頬は僅かに紅潮した。
「これは申し遅れました。私はアトラウス・ルーン、ルーン公の甥、貴公の姉君の義理の息子にあたります」
「ああ! アサーナ姉上の! これは失礼、では、貴公はわたしの義理の甥になる訳だな!」
ティラールはそう言うと、屈託のない笑顔でアトラウスに握手を求める。アトラウスはそれを受けつつ、
「そうです、そういう意味でも目下である私が、先にという訳には……」
と言いかけたが、ティラールはそれを制した。
「いや、約束は大事でしょう、先程姫が仰った通り。どうか気にしないで踊って頂きたい。ただ……」
「ただ……?」
「ダンスのお相手は先を譲りますが、姫への恋の駆け引きでは、決して引きませんよ」
アトラウスは返答に詰まったふうにして、この実にはっきりとした宣戦布告を何とか聞き流した。要するに、ティラールはここで譲っても最終的には自分こそユーリンダに選ばれると自信を持つが故に余裕を持って振る舞っているのだ。確かに、この宰相の四男は、宰相とも王妃ともまるで異なった気性を持っているようであった。