炎獄の娘
11・宴は続く
イサーナ妃が甲高い叫びを上げながら担架に乗せられた夫のあとをついて息子の手を引きホールを出て行くと、水を打ったように静まり返っていた舞踏会の会場には途端にざわめきが戻って来た。
アルフォンスは呆然と立ち尽くしていた。エーリクは、自分が少量ずつ毒を盛られている事を明かしたが、今すぐの危険はないように言っていた。確かに顔色は優れなかったが、急に倒れて死ぬようにも思えなかった。先程襲ってきた男も、成る程エーリクの言うように、彼に警告を行う事が目的であり、今日のこの日に彼を暗殺する気はないようであった。その証拠に、エーリクが秘密を漏らさぬと得心がいったら、役目を果たしたとばかりに自害してしまった。なのに、これは一体どうした事なのか?
「アルフォンス!」
険しい顔付きで近づいて来たのは、ポール・ラングレイ公爵。七公爵の間で一番の年長、宰相バロック公より3歳歳上の彼は、質実剛健と清廉潔白を人物にしたような生き様を貫いてきた男である。灰色の鋭い目は一見近寄りがたい風格を備えているが、実は謹厳なだけではなく、面倒見がよく子ども好きで朗らかな性質も持ち合わせており、宮廷人から領民に至るまでに大きな信頼と尊敬を受ける人物なのだ。アルフォンスやエーリクの事は少年の頃からよく知っており、他家の長でありながら、縁戚の若者に対するような穏やかでかつ威厳のある態度で接して来るが、彼らにとってもこの老人から学ぶ事は多く、アルフォンスにとっては亡き父を思わせる存在である。ラングレイ公はアルフォンスの傍近くへ来ると、
「エーリクはどうしたんだ! まさか……」
と小声で問いかけてきた。少し離れた所にいた為に確認できず、その生存に望みを持っている様子である。だがアルフォンスは声を潜めて、
「わたしの腕の中で息を引き取りました」
と言うしかなかった。老人の目頭が僅かに赤くなった。アルフォンスとて同じ思いである。
「何故だ、最近体調が悪そうではあったが、何故今日の日にこんな急に……」
「わかりません……」
「最期に何と言っていたのだ?」
「……すまない、ありがとう、と。それだけです」
「何か患っていたのか? そなた、何も聞いていなかったのか」
「明日にでも見舞って話を聞こうと、先程スザナと話していたところでした」
「……」
ラングレイ公は目頭を押さえながらも話を聞き終わると何か考え込んでいる風であった。貴人がこのように吐血して急死した場合、誰もが考える可能性は暗殺である。しかしエーリクには特段敵はいなかった筈である。表に出ない部分で恨み妬みをかっていたという事は誰にでもあり得るが、わざわざこのような大舞台を選んで毒を盛ったとなれば、相応の理由と覚悟があっての事に間違いはない。アルフォンスは、「毒を盛られている」という話を既に本人から聞いていたのであるから、これが暗殺である事に疑いは持たなかったが、この急死が、緩やかな毒の摂取の蓄積によるものか、或いは何者かがどうしても急に彼を殺さねば不都合と思う理由が出来たのかは測りかねた。かれはただ、
「検死の結果を待たねば何とも言えません」
とだけ言った。スザナと、ブルーブラン公リッターも二人の方へ足早に近づいてきた。七公爵のうち、殺されたエーリクと、王に付き添っていった宰相、そして宰相の腰巾着と普段から秘かに揶揄されるヴェイヨン公以外の四人が傍近くに集まった。他の者は遠慮して遠巻きになって大貴族達の深刻そうな様子をちらちらと見やりながら囁きを交わしていた。
ブルーブラン公リッターは、七公爵のうちで最も年若い28歳である。長い黒髪に涼やかな青い目のすらりとした美青年であるが、その評判は「少々、変わり者」というものであった。爵位を継いだのは昨年であるが、未だ妻帯していない。元々彼は、前ブルーブラン公の次男であり、嫡子であった兄は健在なのだが、何らかのお家騒動があったらしく弟に爵位を奪われて、今は伯爵として領地に籠もっているという話である。詳しい事は当事者以外誰も知らない。リッターは普段は穏やかな貴公子であるが、時折辛辣な口をきく事もある。独特の判断基準を持っており、己の美学を貫く事に拘り、口癖は「王家の次に風流を愛す」というものであった。
「リッター、きみは直前までエーリクと話していただろう。何か言っていなかったか?」
とアルフォンスは問うてみた。それに対しリッターは軽く肩をすくめ、
「別に、何という事もない世間話です。周囲の者も皆耳にしていた筈ですよ。えらく顔色が悪く具合が悪そうだったので、大丈夫ですかと何度も聞きましたが、大丈夫だと仰るばかりで。本当に彼は亡くなったんですか。最後に話したのはあなたでしょう、アルフォンス」
「わたしも何も聞いていないんだ、何か言いたそうではあったが。しかし、彼の生死について、声を高くして言う訳にはいかない。残念ながらきみの思う通りだが、もうすぐ陛下から沙汰があるだろうからね」
「この祝事の席で不吉な、そして不手際な事があったなどと、国内にも、そしてよその大使に対しても、思わせる訳にはいかないわ。宰相閣下がうまく取り計らって下さるだろうと思うけれども」
とスザナ。彼女も幼馴染みの急死に衝撃を受け、青ざめてはいたが、そこは気丈な女公爵、取り乱したり涙ぐんだりする様子は見せない。
この時、ホールの正面に、宰相と共に国王が姿を現した。ざわめく人々を若い王は手で制して、
「グリンサム公は先の冬の寒さから肺病を患っていたそうで、多忙でそれが悪化したようだ。だが今は医師の手当てで意識を取り戻して、薬を服んで休んでいる。これもルルアのご寛恕であろう。イサーナ妃がついておられるから心配ない。音楽を続けるように。皆の楽しみを奪わぬようにとグリンサム公は気にかけていたから、後は今まで通りに楽しむがよい」
と宣言した。これにより、宴客たちはどっと湧いた。元々、エーリクの様子が深刻なものであったのを見た者は、全体から見れば少数であったので、いったい何事があって宴が中断したのかと言い合っていたような人々は、これでもうすっかり安心してしまって、「早く回復されればよいが」というような声と共に、大した悪い事は起きなかったのだと信じて祝賀の気分に戻っていった。音楽家たちは我に返って、特に明るい曲調のものを選んで奏で始めた。
「やっぱりね。流石、宰相閣下」
とスザナが呟いた。今の国王の台詞は宰相が言わせたものである事は、四人の公爵にとっては明白である。若い王の表情は暗く硬く、その言葉を額面通りに受け取るのは、何も思考していない事と同義と言ってよかった。今日の晴れの日に死人など出ていない、この日の為に特に注がれたルルアの恵みで重病のグリンサム公は一旦持ち直したが、数日後には元々定められていた通りに病によってルルアの国に召される、という筋書きだ。国王の一歩後ろに立った宰相は無表情で、その考えを読む事は多くの人には困難であったが、四人の公爵には宰相がこの不祥事に苛立っている事が感じられた。仮に宰相にエーリクを疎ましく思う気持ちがあったとしても、孫娘が王妃として披露目られる門出の時に事が起きる事を望む筈もない。国王の合図と共に舞踏会は再開されたが、宰相は暫く直立したまま、まるで眺めただけで犯人を見抜けるとでも思っているかのように会場を鋭い目で見渡していた。と、すっと宰相の傍に一人の従僕が寄って行き、何事かを囁きかけた。宰相の眉間に皺が寄り、その視線が動く。それは、集まっている四人の公爵達に向けられた。それぞれに思う所はあるものの、かれらも目を逸らすつもりはなかったので、そのまま気付かぬ風を装って会話を続けようとする。だが、やがて感じた。宰相は四人を見ているのではない……アルフォンスを見ているのだと。音楽の流れる賑々しさが戻ってきた中で、ゆっくりと宰相は、四人の方へ歩み寄って来た。
「これは宰相閣下、王妃陛下のご気分はいかがですかな」
四人を代表してラングレイ老公が尋ねた。青ざめた表情で奥へ入っていった王妃はまだ姿を見せない。
「大丈夫です。今はお召し替えをなさっています……御衣装に、血がついてしまったものでね」
最後の部分は、周囲を憚った小声だった。確かに、縁起のよい事とは決して言えない。
「エーリクが意識を取り戻したとのお話でほっとしましたわ。ゆっくり養生しなければいけませんわね」
とスザナ。白々しくはあったが宰相は満足げに頷いて、
「さよう、彼は元々体力に溢れた方ではなかったから、このところの多忙で疲労が溜まったのだろう。無理を押しても王妃陛下のお相手をお務めしようという忠誠は臣下として皆手本とせねばならぬものだが、このように宴に水を差す前に退出すべきところは計り損ねたと見ゆる。大層恐縮していたようなので、王妃陛下はご幼少の頃より格別にお心の広い女性であり、衣装より臣の身体を心配される方であるので、気にせずとも良いと話しておいた」
と、これははっきりした声で言った。周囲から、ほう、と感嘆の声が洩れる。あの素晴らしい衣装を駄目にされても不快とせずに、逆に相手を気遣われるとは御流石なお心映え、という囁きがそこここで聞こえた。エーリクが運び出される時に、既に息がないのに気付いていた者たちでさえ、宰相の言葉をそのままに受け止めている。宰相の言葉を疑う素振りを見せるのは、この宮廷にあって間違いなく己の立場を危うくする事である。意識してか無意識にか、人々は、グリンサム公は手当がうまくなされて蘇生したのであろう、と思うようにしているらしかった。
だが、このような茶番は言うまでもなくアルフォンスにとって愉快である筈もなかった。エーリクの死すら、孫娘の株を上げる為のちょっとした小道具として使おうという宰相の魂胆は、友人の死を悼む気持ちをひどく害した。宰相アロール・バロックの、謹直で忠心篤く政治手腕に優れたところは常に感服し尊敬の念を持っているが、こういう小狡さはまったくアルフォンスとは相容れない。エーリクの死を隠すのは当然の措置であると思うが、死んだエーリクを批判して王妃を高めようとする物言いには我慢がならなかった。だが、息を吸い込んだところでスザナがそっと袖をひく。幼馴染みの彼女には、アルフォンスの心情が手に取るように判り、しかし宰相の言葉に言い返したところで益はひとつもない、と知らせようとしての事である。アルフォンスもすぐにそうと察して頭を冷やした。このような衆目の前で口論など、それこそ、忠臣のする事ではない。そこで、大きく息を吐いてちらりとスザナを見やり、感謝の意を素早く視線で伝えた。その様子を見ていた宰相は、次にこんな事を言った。
「ところでアルフォンス、少し時間を頂けないかね。エーリクがそなたに話をしたいそうだ。ついてきてもらいたい」
宰相の表情は、冷やりとする程そこから何も読み取れなかった。
アルフォンスは呆然と立ち尽くしていた。エーリクは、自分が少量ずつ毒を盛られている事を明かしたが、今すぐの危険はないように言っていた。確かに顔色は優れなかったが、急に倒れて死ぬようにも思えなかった。先程襲ってきた男も、成る程エーリクの言うように、彼に警告を行う事が目的であり、今日のこの日に彼を暗殺する気はないようであった。その証拠に、エーリクが秘密を漏らさぬと得心がいったら、役目を果たしたとばかりに自害してしまった。なのに、これは一体どうした事なのか?
「アルフォンス!」
険しい顔付きで近づいて来たのは、ポール・ラングレイ公爵。七公爵の間で一番の年長、宰相バロック公より3歳歳上の彼は、質実剛健と清廉潔白を人物にしたような生き様を貫いてきた男である。灰色の鋭い目は一見近寄りがたい風格を備えているが、実は謹厳なだけではなく、面倒見がよく子ども好きで朗らかな性質も持ち合わせており、宮廷人から領民に至るまでに大きな信頼と尊敬を受ける人物なのだ。アルフォンスやエーリクの事は少年の頃からよく知っており、他家の長でありながら、縁戚の若者に対するような穏やかでかつ威厳のある態度で接して来るが、彼らにとってもこの老人から学ぶ事は多く、アルフォンスにとっては亡き父を思わせる存在である。ラングレイ公はアルフォンスの傍近くへ来ると、
「エーリクはどうしたんだ! まさか……」
と小声で問いかけてきた。少し離れた所にいた為に確認できず、その生存に望みを持っている様子である。だがアルフォンスは声を潜めて、
「わたしの腕の中で息を引き取りました」
と言うしかなかった。老人の目頭が僅かに赤くなった。アルフォンスとて同じ思いである。
「何故だ、最近体調が悪そうではあったが、何故今日の日にこんな急に……」
「わかりません……」
「最期に何と言っていたのだ?」
「……すまない、ありがとう、と。それだけです」
「何か患っていたのか? そなた、何も聞いていなかったのか」
「明日にでも見舞って話を聞こうと、先程スザナと話していたところでした」
「……」
ラングレイ公は目頭を押さえながらも話を聞き終わると何か考え込んでいる風であった。貴人がこのように吐血して急死した場合、誰もが考える可能性は暗殺である。しかしエーリクには特段敵はいなかった筈である。表に出ない部分で恨み妬みをかっていたという事は誰にでもあり得るが、わざわざこのような大舞台を選んで毒を盛ったとなれば、相応の理由と覚悟があっての事に間違いはない。アルフォンスは、「毒を盛られている」という話を既に本人から聞いていたのであるから、これが暗殺である事に疑いは持たなかったが、この急死が、緩やかな毒の摂取の蓄積によるものか、或いは何者かがどうしても急に彼を殺さねば不都合と思う理由が出来たのかは測りかねた。かれはただ、
「検死の結果を待たねば何とも言えません」
とだけ言った。スザナと、ブルーブラン公リッターも二人の方へ足早に近づいてきた。七公爵のうち、殺されたエーリクと、王に付き添っていった宰相、そして宰相の腰巾着と普段から秘かに揶揄されるヴェイヨン公以外の四人が傍近くに集まった。他の者は遠慮して遠巻きになって大貴族達の深刻そうな様子をちらちらと見やりながら囁きを交わしていた。
ブルーブラン公リッターは、七公爵のうちで最も年若い28歳である。長い黒髪に涼やかな青い目のすらりとした美青年であるが、その評判は「少々、変わり者」というものであった。爵位を継いだのは昨年であるが、未だ妻帯していない。元々彼は、前ブルーブラン公の次男であり、嫡子であった兄は健在なのだが、何らかのお家騒動があったらしく弟に爵位を奪われて、今は伯爵として領地に籠もっているという話である。詳しい事は当事者以外誰も知らない。リッターは普段は穏やかな貴公子であるが、時折辛辣な口をきく事もある。独特の判断基準を持っており、己の美学を貫く事に拘り、口癖は「王家の次に風流を愛す」というものであった。
「リッター、きみは直前までエーリクと話していただろう。何か言っていなかったか?」
とアルフォンスは問うてみた。それに対しリッターは軽く肩をすくめ、
「別に、何という事もない世間話です。周囲の者も皆耳にしていた筈ですよ。えらく顔色が悪く具合が悪そうだったので、大丈夫ですかと何度も聞きましたが、大丈夫だと仰るばかりで。本当に彼は亡くなったんですか。最後に話したのはあなたでしょう、アルフォンス」
「わたしも何も聞いていないんだ、何か言いたそうではあったが。しかし、彼の生死について、声を高くして言う訳にはいかない。残念ながらきみの思う通りだが、もうすぐ陛下から沙汰があるだろうからね」
「この祝事の席で不吉な、そして不手際な事があったなどと、国内にも、そしてよその大使に対しても、思わせる訳にはいかないわ。宰相閣下がうまく取り計らって下さるだろうと思うけれども」
とスザナ。彼女も幼馴染みの急死に衝撃を受け、青ざめてはいたが、そこは気丈な女公爵、取り乱したり涙ぐんだりする様子は見せない。
この時、ホールの正面に、宰相と共に国王が姿を現した。ざわめく人々を若い王は手で制して、
「グリンサム公は先の冬の寒さから肺病を患っていたそうで、多忙でそれが悪化したようだ。だが今は医師の手当てで意識を取り戻して、薬を服んで休んでいる。これもルルアのご寛恕であろう。イサーナ妃がついておられるから心配ない。音楽を続けるように。皆の楽しみを奪わぬようにとグリンサム公は気にかけていたから、後は今まで通りに楽しむがよい」
と宣言した。これにより、宴客たちはどっと湧いた。元々、エーリクの様子が深刻なものであったのを見た者は、全体から見れば少数であったので、いったい何事があって宴が中断したのかと言い合っていたような人々は、これでもうすっかり安心してしまって、「早く回復されればよいが」というような声と共に、大した悪い事は起きなかったのだと信じて祝賀の気分に戻っていった。音楽家たちは我に返って、特に明るい曲調のものを選んで奏で始めた。
「やっぱりね。流石、宰相閣下」
とスザナが呟いた。今の国王の台詞は宰相が言わせたものである事は、四人の公爵にとっては明白である。若い王の表情は暗く硬く、その言葉を額面通りに受け取るのは、何も思考していない事と同義と言ってよかった。今日の晴れの日に死人など出ていない、この日の為に特に注がれたルルアの恵みで重病のグリンサム公は一旦持ち直したが、数日後には元々定められていた通りに病によってルルアの国に召される、という筋書きだ。国王の一歩後ろに立った宰相は無表情で、その考えを読む事は多くの人には困難であったが、四人の公爵には宰相がこの不祥事に苛立っている事が感じられた。仮に宰相にエーリクを疎ましく思う気持ちがあったとしても、孫娘が王妃として披露目られる門出の時に事が起きる事を望む筈もない。国王の合図と共に舞踏会は再開されたが、宰相は暫く直立したまま、まるで眺めただけで犯人を見抜けるとでも思っているかのように会場を鋭い目で見渡していた。と、すっと宰相の傍に一人の従僕が寄って行き、何事かを囁きかけた。宰相の眉間に皺が寄り、その視線が動く。それは、集まっている四人の公爵達に向けられた。それぞれに思う所はあるものの、かれらも目を逸らすつもりはなかったので、そのまま気付かぬ風を装って会話を続けようとする。だが、やがて感じた。宰相は四人を見ているのではない……アルフォンスを見ているのだと。音楽の流れる賑々しさが戻ってきた中で、ゆっくりと宰相は、四人の方へ歩み寄って来た。
「これは宰相閣下、王妃陛下のご気分はいかがですかな」
四人を代表してラングレイ老公が尋ねた。青ざめた表情で奥へ入っていった王妃はまだ姿を見せない。
「大丈夫です。今はお召し替えをなさっています……御衣装に、血がついてしまったものでね」
最後の部分は、周囲を憚った小声だった。確かに、縁起のよい事とは決して言えない。
「エーリクが意識を取り戻したとのお話でほっとしましたわ。ゆっくり養生しなければいけませんわね」
とスザナ。白々しくはあったが宰相は満足げに頷いて、
「さよう、彼は元々体力に溢れた方ではなかったから、このところの多忙で疲労が溜まったのだろう。無理を押しても王妃陛下のお相手をお務めしようという忠誠は臣下として皆手本とせねばならぬものだが、このように宴に水を差す前に退出すべきところは計り損ねたと見ゆる。大層恐縮していたようなので、王妃陛下はご幼少の頃より格別にお心の広い女性であり、衣装より臣の身体を心配される方であるので、気にせずとも良いと話しておいた」
と、これははっきりした声で言った。周囲から、ほう、と感嘆の声が洩れる。あの素晴らしい衣装を駄目にされても不快とせずに、逆に相手を気遣われるとは御流石なお心映え、という囁きがそこここで聞こえた。エーリクが運び出される時に、既に息がないのに気付いていた者たちでさえ、宰相の言葉をそのままに受け止めている。宰相の言葉を疑う素振りを見せるのは、この宮廷にあって間違いなく己の立場を危うくする事である。意識してか無意識にか、人々は、グリンサム公は手当がうまくなされて蘇生したのであろう、と思うようにしているらしかった。
だが、このような茶番は言うまでもなくアルフォンスにとって愉快である筈もなかった。エーリクの死すら、孫娘の株を上げる為のちょっとした小道具として使おうという宰相の魂胆は、友人の死を悼む気持ちをひどく害した。宰相アロール・バロックの、謹直で忠心篤く政治手腕に優れたところは常に感服し尊敬の念を持っているが、こういう小狡さはまったくアルフォンスとは相容れない。エーリクの死を隠すのは当然の措置であると思うが、死んだエーリクを批判して王妃を高めようとする物言いには我慢がならなかった。だが、息を吸い込んだところでスザナがそっと袖をひく。幼馴染みの彼女には、アルフォンスの心情が手に取るように判り、しかし宰相の言葉に言い返したところで益はひとつもない、と知らせようとしての事である。アルフォンスもすぐにそうと察して頭を冷やした。このような衆目の前で口論など、それこそ、忠臣のする事ではない。そこで、大きく息を吐いてちらりとスザナを見やり、感謝の意を素早く視線で伝えた。その様子を見ていた宰相は、次にこんな事を言った。
「ところでアルフォンス、少し時間を頂けないかね。エーリクがそなたに話をしたいそうだ。ついてきてもらいたい」
宰相の表情は、冷やりとする程そこから何も読み取れなかった。