炎獄の娘
14・疑い
『私は毒を盛られているんだ……毎日、少しずつ』
『なぜ犯人を捕らえないのか?』
『私だって死にたくはない。色々と道を探ったが、どうしようもない現実、というやつにぶつかったのさ。まあそこを詳しく話す時間はないし、言いたくもない』
エーリクとの会話がアルフォンスの脳裏に甦った。ほんの数刻前の会話だ。だが今そのエーリクは冷たい屍となって目の前に横たわっている。
エーリクは毒を盛る人物が誰か判っているという事実を否定しなかった。その上で、犯人を捕らえる事は出来ない、と言ったのだ。エーリクはアルフォンスと同様に愛妻家として知られていた。以前に立った未亡人との噂は根も葉もないものだと、あの頃エーリクは酒席でそっと打ち明けてくれたものだ。だが、宮廷雀には単なる面白い噂話でも、愛妻との仲にひびを入れる材料になったのかも知れない。まさかその事が動機とは思えないが、イサーナの中で何かが壊れてしまったとすれば、愛情という歯止めの力が大きく薄れる結果になったとも考えられる。疑いが芽生えたのは、勿論、単にエーリクが犯人を捕らえようとしなかったから、というだけではない。毎日少しずつ毒を盛るには、いつもエーリクの身近にいた人間が怪しいと考えるのが自然だ。そして、何よりも、アルフォンスに秘密を打ち明けたと疑われた直後にエーリクが急変して死んだ事。エーリクが裏切ったと考えた何者かが、これ以上何も話せないようにすぐに彼の口を封じる必要があると思い、実行した、と考えられる死に様だった。宴の最中、大勢の人に囲まれていたエーリクに致死量の毒を飲ませられる可能性のある者は? あの時、ブルーブラン公と話していたエーリクに、イサーナはずっと寄り添っていた。彼の杯にそっと毒を入れられる位置にいたのだ。スザナと話しながら、アルフォンスは確かに己の目で見た。
勿論、その杯に毒が入っていたという証拠はどこにもない。何しろエーリクはただ気分不良で倒れただけだという事になっているのだから、今頃はその杯も片付けられてしまっているだろう。仮に残っていて毒が検出されたとしても、それをイサーナが入れたという証明は出来ない。大っぴらに彼女を取り調べれば、もっと毒を隠し持っているところが見つかるかも知れないが、『病で伏せっているグリンサム公を看護している公爵夫人』に対し、そんな事が出来よう筈もない。宰相は、エーリクが殺された事を承知の上で、『死んでなどいない』と国王から皆に言わせたのだ。大きな騒ぎになるような調べなど許可する筈もなかった。
だが、今の言葉、
『これ以上余計な事をお知りになれば、殿下もまた、夫と同じ運命を辿る羽目になりかねません事よ! さあ、出て行って下さい!』
こんな台詞が、最愛の夫を理由も判らずに亡くしたばかりの女性の口から飛び出すものだろうか? アルフォンスには到底信じられなかった。さっき夫の亡骸から鍵を取り出した時も、死した夫の事よりもその鍵の事の方が余程の大事に思っている様子が見えた。証拠はない、が、一度胸に芽生えた疑いを消す材料の方が見つからなかった。
しかし、いかに正義を貫く事を身上とするアルフォンスでも、その疑いをそのまま口に出す程馬鹿正直ではない。かれはただ、これまでの同情に満ちた温かい眼差しではなく、嫌悪感の入り交じった疑いの視線を黙ってイサーナに向けただけだった。だが、たったそれだけの事でも、イサーナは容易く動揺した。アルフォンスの黄金色の目で非難がましく見られると、イサーナのような心の弱い女性は特に、まるでルルア神に責められているような心持ちになってしまうようであった。彼女は先程の威勢もどこへやら、縋るようにダルシオンを振り返った。
ダルシオンは、アルフォンスの表情から、かれの考えをある程度読み取ったように見えた。だがそれでも、イサーナを問い糾すような素振りはない。ダルシオンの考えはアルフォンスには全く測り知れなかった。ルルア大神官、ヴェルサリアで最も位の高い宗教的権威者である彼ならば、宰相の思惑がどうあろうとも、暗殺を見逃すなどあり得ない筈だ。だがダルシオンはイサーナの視線を受け止めて、
「イサーナどのはもうそなたに用はないと仰っている。宴に戻った方がいいのではないか」
とアルフォンスに言った。
ヴィーン家のダルシオンとルーン公アルフォンスは、血筋も年齢も近く、共にアルマヴィラで育ったのだが、規律を何より重んじるダルシオンと、規律は大前提ではあるが状況によっては柔軟に対処すべきと考えるアルフォンスは昔から所謂『そりが合わない』仲である。真意を問うた所で、本心を明かしてくれるとは到底思えなかった。しかし、政治的権力は表向き持たずとも、国王とは別の位置で王国において最も人心を集める存在である大神官の言葉に対しても、アルフォンスは納得がいかなければ言葉を返す。
「その鍵をわたしに渡す事がエーリクの遺志だったのであれば、それをお預かりしたいのですが」
アルフォンスの申し出にイサーナは飛び上がりそうな驚きを見せ、
「とんでもありません、絶対に駄目ですわ!」
と叫ぶ。だが、その反応は予想通りのものでしかない。
「アルフォンス! これはグリンサム家の問題だと申したであろう。そなたにそのような権限はない。これはグリンサム公の持ち物で、今はその遺児と未亡人が継承者だ」
ダルシオンの言葉はまったく正論であったが、アルフォンスはここで手がかりを失う訳にはいかぬと食い下がり、
「エーリクはわたしに頼み事があると言い遺しました。そしてイサーナどのは、彼がわたしにそれを渡したと思い込んでおられ、暴言を吐かれました。無論、今し方夫君を亡くされたばかりの女性に対して、それをお咎めする気はありませんが、せめてそれが何なのか、わたしにも知る権利が……そして故人に対しては責任があるように思いますが、いかがでしょうか」
「それは詭弁だ。グリンサム公がそなたにこれを渡すつもりがあったかどうかは、今はもう誰にも判らぬこと。イサーナどのが否と言われるなら、それ以上要求する権利は誰にもない」
これもまた正論であるし、アルフォンス自身、自分の言っている事が正しいと確信できている訳でもなかった。だが、ここで引き下がれば、エーリクを殺したものは誰なのか、何なのかを知る機会は永遠に失われる。その罪を曝きたい訳ではない。エーリク自身があくまで犯人を庇い立てする気であったのなら、例え己の正義に背いても、彼の遺志を尊重しなければと思うアルフォンスである。しかし、エーリクを助けられなかったという無念は、真実を知らねばならないという責任感に置き換えられてアルフォンスを突き動かす。大貴族を暗殺するような邪悪な企てを放置して、万が一若き国王の身辺にまで災いが及ぶような事にでもなれば、後からどれ程悔やんでも取り返しがつかない。エーリクが頑として何も答えなかったのは、アルフォンスの身にも同じ危険が及ぶのを慮ったからだ。しかし、例え、その真実を知る事がどんなに危険なものであるとしても、知っておかねばならない、と強く感じた。
「わたしは何も、その鍵を貰い受けたいと申している訳ではありません。猊下の仰る事は尤もだと思いますし。では、今夜一晩で構いませんから、お借りする事は出来ませんか。明朝にはお返しします。まだ宴は続きますし、複製を作らせる時間はありません。ただ、エーリクとの友情を偲ぶ為です。わたしにはその鍵が何なのかさえ判らないのですから、使いようもありません」
そうして、一呼吸おいて、イサーナの目を見つめながら付け足した。
「エーリクは心からイサーナどのを愛していました。自らの死期を悟りながらも、それを運命と受け入れ、何も手を打とうとはしなかった。恐らく、わたしに頼みたかった事とは、自らの死後のイサーナどのの行く末についてではなかったろうか、と思います」
イサーナは、この言葉にいよいよ血の気を失ったが、思い渦巻く様子の震え声で言い返した。
「だとしたら、それは贖罪の為ですわ! この人はわたくしを一度裏切りました! 生涯、わたくし以外側女も持たず、誰も愛さないと約束したのに、わたくしに偽りを言ってミュール伯爵夫人と……」
「あれはただの噂です。エーリク本人もそう言っていたし、ミュール伯爵夫人と親しいご婦人方が口を揃えて同じ事を話しているのを、わたしはこの耳で聞きました」
「嘘、うそよ! わたくしはあの女から直接、それを匂わされたのです! わたくしの夫と、前の晩を共に過ごしたと……!」
「あのご婦人方は賭をしていたそうですよ。エーリクが彼女の色香に惑わされるか否か。恐らく、彼女は思惑通りに事が運ばなかったので、悔し紛れに貴女にそんな態度をとったのでしょう」
「…………」
溜息混じりのアルフォンスの言葉に、イサーナは苦しげに自らの喉元を掴んだ。その指の間から件の鍵がことりと床に落ちたが、彼女はそれにも気付かぬ様子だった。ダルシオンは、二人の会話を苦々しげな表情で聞いていたが、「下らぬ……」と小さく呟きながらイサーナの落とした鍵を拾い上げた。
「ああ……わたくし……わたくしは……」
「イサーナどの、その先は生涯胸にしまっておいて下さい。それがエーリクの望みなのですから」
「ルーン公殿下……わたくしはもう、何をどう考えたらいいのかわかりません。ただ……夫へのお気持ちを、わたくしは、嬉しく思います……」
イサーナの双眸から、とめどなく涙が溢れ出る。それは、先程までの空涙とはちがうものだとアルフォンスには思われた。イサーナはダルシオンの手から鍵をとった。
「イサーナどの!」
「失礼します、猊下。ルーン公殿下のお望みのままに、今は、したいのです……。勿論、明朝には返して頂きますわ。それなら、大丈夫でございましょう?」
「しかし……」
明らかに苛立った様子でダルシオンはイサーナとアルフォンスを交互に睨み付けたが、鍵をどうするかについての権利はイサーナにある、と先程自身で言った事を覆す訳にもいかない。お好きなようになさるがよかろう、と吐き捨てるように言うと、もうアルフォンスの顔も見たくない、という様子で壁の方を向いてしまった。ここまで大神官が感情を露わにするのは大変に珍しい事だった。だが、アルフォンスはダルシオンの怒りには頓着せずに、イサーナに礼を言って鍵を受け取った。
それからようやく、寝台に横たわるエーリクに近づくと、膝をつき、死者への祈りを捧げた。
「エーリク……ルルアの国で、とこしえの安らぎを得られるよう……」
青ざめたエーリクの死に顔には、今は苦悶のあとはない。イサーナは再び声を上げて泣き出した。
『なぜ犯人を捕らえないのか?』
『私だって死にたくはない。色々と道を探ったが、どうしようもない現実、というやつにぶつかったのさ。まあそこを詳しく話す時間はないし、言いたくもない』
エーリクとの会話がアルフォンスの脳裏に甦った。ほんの数刻前の会話だ。だが今そのエーリクは冷たい屍となって目の前に横たわっている。
エーリクは毒を盛る人物が誰か判っているという事実を否定しなかった。その上で、犯人を捕らえる事は出来ない、と言ったのだ。エーリクはアルフォンスと同様に愛妻家として知られていた。以前に立った未亡人との噂は根も葉もないものだと、あの頃エーリクは酒席でそっと打ち明けてくれたものだ。だが、宮廷雀には単なる面白い噂話でも、愛妻との仲にひびを入れる材料になったのかも知れない。まさかその事が動機とは思えないが、イサーナの中で何かが壊れてしまったとすれば、愛情という歯止めの力が大きく薄れる結果になったとも考えられる。疑いが芽生えたのは、勿論、単にエーリクが犯人を捕らえようとしなかったから、というだけではない。毎日少しずつ毒を盛るには、いつもエーリクの身近にいた人間が怪しいと考えるのが自然だ。そして、何よりも、アルフォンスに秘密を打ち明けたと疑われた直後にエーリクが急変して死んだ事。エーリクが裏切ったと考えた何者かが、これ以上何も話せないようにすぐに彼の口を封じる必要があると思い、実行した、と考えられる死に様だった。宴の最中、大勢の人に囲まれていたエーリクに致死量の毒を飲ませられる可能性のある者は? あの時、ブルーブラン公と話していたエーリクに、イサーナはずっと寄り添っていた。彼の杯にそっと毒を入れられる位置にいたのだ。スザナと話しながら、アルフォンスは確かに己の目で見た。
勿論、その杯に毒が入っていたという証拠はどこにもない。何しろエーリクはただ気分不良で倒れただけだという事になっているのだから、今頃はその杯も片付けられてしまっているだろう。仮に残っていて毒が検出されたとしても、それをイサーナが入れたという証明は出来ない。大っぴらに彼女を取り調べれば、もっと毒を隠し持っているところが見つかるかも知れないが、『病で伏せっているグリンサム公を看護している公爵夫人』に対し、そんな事が出来よう筈もない。宰相は、エーリクが殺された事を承知の上で、『死んでなどいない』と国王から皆に言わせたのだ。大きな騒ぎになるような調べなど許可する筈もなかった。
だが、今の言葉、
『これ以上余計な事をお知りになれば、殿下もまた、夫と同じ運命を辿る羽目になりかねません事よ! さあ、出て行って下さい!』
こんな台詞が、最愛の夫を理由も判らずに亡くしたばかりの女性の口から飛び出すものだろうか? アルフォンスには到底信じられなかった。さっき夫の亡骸から鍵を取り出した時も、死した夫の事よりもその鍵の事の方が余程の大事に思っている様子が見えた。証拠はない、が、一度胸に芽生えた疑いを消す材料の方が見つからなかった。
しかし、いかに正義を貫く事を身上とするアルフォンスでも、その疑いをそのまま口に出す程馬鹿正直ではない。かれはただ、これまでの同情に満ちた温かい眼差しではなく、嫌悪感の入り交じった疑いの視線を黙ってイサーナに向けただけだった。だが、たったそれだけの事でも、イサーナは容易く動揺した。アルフォンスの黄金色の目で非難がましく見られると、イサーナのような心の弱い女性は特に、まるでルルア神に責められているような心持ちになってしまうようであった。彼女は先程の威勢もどこへやら、縋るようにダルシオンを振り返った。
ダルシオンは、アルフォンスの表情から、かれの考えをある程度読み取ったように見えた。だがそれでも、イサーナを問い糾すような素振りはない。ダルシオンの考えはアルフォンスには全く測り知れなかった。ルルア大神官、ヴェルサリアで最も位の高い宗教的権威者である彼ならば、宰相の思惑がどうあろうとも、暗殺を見逃すなどあり得ない筈だ。だがダルシオンはイサーナの視線を受け止めて、
「イサーナどのはもうそなたに用はないと仰っている。宴に戻った方がいいのではないか」
とアルフォンスに言った。
ヴィーン家のダルシオンとルーン公アルフォンスは、血筋も年齢も近く、共にアルマヴィラで育ったのだが、規律を何より重んじるダルシオンと、規律は大前提ではあるが状況によっては柔軟に対処すべきと考えるアルフォンスは昔から所謂『そりが合わない』仲である。真意を問うた所で、本心を明かしてくれるとは到底思えなかった。しかし、政治的権力は表向き持たずとも、国王とは別の位置で王国において最も人心を集める存在である大神官の言葉に対しても、アルフォンスは納得がいかなければ言葉を返す。
「その鍵をわたしに渡す事がエーリクの遺志だったのであれば、それをお預かりしたいのですが」
アルフォンスの申し出にイサーナは飛び上がりそうな驚きを見せ、
「とんでもありません、絶対に駄目ですわ!」
と叫ぶ。だが、その反応は予想通りのものでしかない。
「アルフォンス! これはグリンサム家の問題だと申したであろう。そなたにそのような権限はない。これはグリンサム公の持ち物で、今はその遺児と未亡人が継承者だ」
ダルシオンの言葉はまったく正論であったが、アルフォンスはここで手がかりを失う訳にはいかぬと食い下がり、
「エーリクはわたしに頼み事があると言い遺しました。そしてイサーナどのは、彼がわたしにそれを渡したと思い込んでおられ、暴言を吐かれました。無論、今し方夫君を亡くされたばかりの女性に対して、それをお咎めする気はありませんが、せめてそれが何なのか、わたしにも知る権利が……そして故人に対しては責任があるように思いますが、いかがでしょうか」
「それは詭弁だ。グリンサム公がそなたにこれを渡すつもりがあったかどうかは、今はもう誰にも判らぬこと。イサーナどのが否と言われるなら、それ以上要求する権利は誰にもない」
これもまた正論であるし、アルフォンス自身、自分の言っている事が正しいと確信できている訳でもなかった。だが、ここで引き下がれば、エーリクを殺したものは誰なのか、何なのかを知る機会は永遠に失われる。その罪を曝きたい訳ではない。エーリク自身があくまで犯人を庇い立てする気であったのなら、例え己の正義に背いても、彼の遺志を尊重しなければと思うアルフォンスである。しかし、エーリクを助けられなかったという無念は、真実を知らねばならないという責任感に置き換えられてアルフォンスを突き動かす。大貴族を暗殺するような邪悪な企てを放置して、万が一若き国王の身辺にまで災いが及ぶような事にでもなれば、後からどれ程悔やんでも取り返しがつかない。エーリクが頑として何も答えなかったのは、アルフォンスの身にも同じ危険が及ぶのを慮ったからだ。しかし、例え、その真実を知る事がどんなに危険なものであるとしても、知っておかねばならない、と強く感じた。
「わたしは何も、その鍵を貰い受けたいと申している訳ではありません。猊下の仰る事は尤もだと思いますし。では、今夜一晩で構いませんから、お借りする事は出来ませんか。明朝にはお返しします。まだ宴は続きますし、複製を作らせる時間はありません。ただ、エーリクとの友情を偲ぶ為です。わたしにはその鍵が何なのかさえ判らないのですから、使いようもありません」
そうして、一呼吸おいて、イサーナの目を見つめながら付け足した。
「エーリクは心からイサーナどのを愛していました。自らの死期を悟りながらも、それを運命と受け入れ、何も手を打とうとはしなかった。恐らく、わたしに頼みたかった事とは、自らの死後のイサーナどのの行く末についてではなかったろうか、と思います」
イサーナは、この言葉にいよいよ血の気を失ったが、思い渦巻く様子の震え声で言い返した。
「だとしたら、それは贖罪の為ですわ! この人はわたくしを一度裏切りました! 生涯、わたくし以外側女も持たず、誰も愛さないと約束したのに、わたくしに偽りを言ってミュール伯爵夫人と……」
「あれはただの噂です。エーリク本人もそう言っていたし、ミュール伯爵夫人と親しいご婦人方が口を揃えて同じ事を話しているのを、わたしはこの耳で聞きました」
「嘘、うそよ! わたくしはあの女から直接、それを匂わされたのです! わたくしの夫と、前の晩を共に過ごしたと……!」
「あのご婦人方は賭をしていたそうですよ。エーリクが彼女の色香に惑わされるか否か。恐らく、彼女は思惑通りに事が運ばなかったので、悔し紛れに貴女にそんな態度をとったのでしょう」
「…………」
溜息混じりのアルフォンスの言葉に、イサーナは苦しげに自らの喉元を掴んだ。その指の間から件の鍵がことりと床に落ちたが、彼女はそれにも気付かぬ様子だった。ダルシオンは、二人の会話を苦々しげな表情で聞いていたが、「下らぬ……」と小さく呟きながらイサーナの落とした鍵を拾い上げた。
「ああ……わたくし……わたくしは……」
「イサーナどの、その先は生涯胸にしまっておいて下さい。それがエーリクの望みなのですから」
「ルーン公殿下……わたくしはもう、何をどう考えたらいいのかわかりません。ただ……夫へのお気持ちを、わたくしは、嬉しく思います……」
イサーナの双眸から、とめどなく涙が溢れ出る。それは、先程までの空涙とはちがうものだとアルフォンスには思われた。イサーナはダルシオンの手から鍵をとった。
「イサーナどの!」
「失礼します、猊下。ルーン公殿下のお望みのままに、今は、したいのです……。勿論、明朝には返して頂きますわ。それなら、大丈夫でございましょう?」
「しかし……」
明らかに苛立った様子でダルシオンはイサーナとアルフォンスを交互に睨み付けたが、鍵をどうするかについての権利はイサーナにある、と先程自身で言った事を覆す訳にもいかない。お好きなようになさるがよかろう、と吐き捨てるように言うと、もうアルフォンスの顔も見たくない、という様子で壁の方を向いてしまった。ここまで大神官が感情を露わにするのは大変に珍しい事だった。だが、アルフォンスはダルシオンの怒りには頓着せずに、イサーナに礼を言って鍵を受け取った。
それからようやく、寝台に横たわるエーリクに近づくと、膝をつき、死者への祈りを捧げた。
「エーリク……ルルアの国で、とこしえの安らぎを得られるよう……」
青ざめたエーリクの死に顔には、今は苦悶のあとはない。イサーナは再び声を上げて泣き出した。