炎獄の娘
22・老公の諫め
シャサールとアルフォンスは暫し激しく睨み合っていた。この二人が昔から不仲である事は宮廷人皆の知る所ではあったが、これまではせいぜい、シャサールが嫌みを言い、アルフォンスがそれを受け流すか、つけられた言いがかりに対して正論で返して言い負かしてしまう程度の事だった。だが今、人々が喜びに沸く中で、最悪の形で二人の間に長年蓄積してきた鬱屈が爆発してしまった。無論、非はシャサールにある。あんな侮辱を受けては、如何に温厚で知られるルーン公とて黙って素通り出来る筈もない、と人々は思った。
一方、アルフォンスの心中は複雑である。もしもエーリクが健在であったなら、慶事を汚してまで剣を抜く事など考えもしなかっただろう。ただスザナとエーリクの、そして勿論自身の名誉はきっちりと回復させ、あとは軽蔑の意を表してさっさと立ち去っていた筈だ。だがこう大ごとになってしまっては、そう簡単には退けない。それに、シャサールは将来宰相となって公爵の束ねとなる人間なのだ。いつまでもこのように品位に欠けた考え無しの男であって貰っては困る。先程発言した通り、王妃の益、しいては国王の、国家の益にも障る事だ。この場をうまく収め、シャサールに少し心を入れ替えて貰うにはどうしたらよいものか……。
シャサールは、取り巻き達を見回した。誰も自分に積極的に同調しないのでそこにも腹を立てていた。すると、傍についていた初老の男がやや躊躇いがちに言った。
「シャサール様。ここは祝宴の席、シャサール殿下の懐の広さを皆に見せる為にも、ルーン公殿下にあっさりと謝罪なさってはいかがですか。さすれば、根に持たれるようなお方でもありませんから、座興としてこの場は収まりましょう」
この男は、銀狼騎士団――即ちバロック家の保持する騎士団の団長バルザック・ハウンドという者で、シャサールが幼い頃から教育係も務めてきており、取り巻きの中では最も分別もあり、意見もしやすい立場だった。だが、シャサールは苛立ち首を横に振った。
「私は王妃の父親だぞ。この目出度き日に貴族に頭など下げては、王妃の威厳を損ねるではないか!」
まるで自身も王族になりでもしたかのような言い草である。アルフォンスはこのやり取りを聞いて小さく溜息をついた。シャサールの思惑が見えたからだ。王妃の威厳を損ねる、と言えば王権に対して忠実過ぎる程の臣であるアルフォンスは退くだろうと思っている。しかし実際は、王妃の為を思えばこそ、アルフォンスはシャサールが謝罪するまで引き下がるまいと決意を固めた。ここで謝罪なくして退けば、彼は娘の権威を笠に着て今後益々増長するに決まっている。たとえこの事で王妃の不興を一層かうことになるとしても、ここでシャサールを牽制しておく方が重要な臣の務めと考えた。かれは普段の物静かな口調に戻って、
「ハウンド殿の仰る通り。わたしとエーリクとスザナに対して謝罪を要求します。堅苦しい事ではなく、ただ、酔いが過ぎてつい言い過ぎてしまったとだけ認めて下されば、わたしもそれ以上追求するような無粋な真似は致しません」
と告げた。
シャサールは黙っている。酔いで頭の回りが一層遅くなっている。どうやらアルフォンスは引き下がる気はないらしいが、自分が悪かったと認めるのは癪に障る。しかしいい加減この面倒なやり取りを終わらせたい気持ちも強い。娘が王と結ばれて皆が寿いでいるというのに、父親の自分が別の事で注目を集めているのも腹立たしい。父宰相が後でこの事を知ったら、大事な時に何故揉め事を起こしたのかと叱責されるだろう。父の気性では、息子贔屓から一緒になってアルフォンスを非難する事はないと思われる。人心を掴む為には常に自身に批判される隙を見せてはならぬと、いい歳の大人の自分にしょっちゅう小言を言ってくるくらいであるのだから。しかし……それでも、見るだけでも小憎らしい、今はもう冷静さを取り戻していつもの取り澄ました顔になっているアルフォンスに謝罪するのはご免だと思った。
「謝罪なんかしないぞ。私は王妃の父なんだ。アルフォンス、貴公は王妃の臣下じゃないか。王妃に恥をかかせる気か?」
アルフォンスは呆れて、
「わたしは貴族としてごく当然の要求をしているだけです。貴公が王妃陛下の父君であっても、今や貴公もまた王妃陛下の臣なのですよ」
と説いた。周囲から忍び笑いが洩れた。王妃に恥をかかせているとしたら、それはシャサールの方だろうに、というアルフォンスの言外の気持ちが伝わったのだ。
「うるさい! こんな時に細かい事でいちいち……貴公は本当は自分の娘が王妃になり損ねた事を妬んでいるんだろう。だから下らぬ事で祝い事に水を差すような口論を仕掛けてくるんだな!」
「仕掛けてきたのはそちらではないですか! 言いがかりはいい加減にして頂きたい! そんな気は全くないし、わたしだってこんな騒ぎは全く本意ではないんだ!」
「ふん、この偽善者め。いいだろう、あくまで謝罪を要求する気なら、私にも考えがある。どちらの言い分に理があるか、決闘で決めるのだ!」
二人の会話を聞いていた人々は、シャサールのこの言葉に騒然となった。
「シャサール様! なんという事を仰いますか!」
ハウンド騎士団長は青ざめて諫めたが、シャサールの勢いは止まらない。アルフォンスも意外な成り行きに呆気にとられた。正式な謝罪を要求するのが筋な所を、一言非を認めてくれればよいと譲歩したのに、ここまで強情だとは。
自分の言葉に段々興奮が高まってきた様子のシャサールは、何とか止め立てしようとするお付きの者たちの手を振り払い、立ち上がって今にも手袋を投げつけようとしていた。無謀すぎる、と誰もが思った。三十路になってからろくに鍛錬もしていないシャサールと、今でも王国で五本の指に数えられる使い手と言われるアルフォンスとでは、勝負にもならない事は火を見るより明らかである。
「シャサール様! お怪我でもなさったらどうします! 大事なお身体ですぞ!」
説き伏せようとするハウンドにシャサールはふんと笑って、
「私は代理人を立てる。そうだな……お前ではちと歳を取りすぎているか。王宮騎士団長か金獅子騎士団長、どちらかに依頼しよう」
と言い放ったので、皆は益々呆れたが、本人だけは、名案を思いついたと言わんばかりに得意げである。王宮騎士団も金獅子騎士団も王家直属であり、騎士団長にはシャサールからそんな依頼を受けるいわれもないのだが、シャサールはどちらも自分の権力でどうにでもなると考えている風である。
「大貴族同士で決闘など、穏やかじゃない。祝い事の席で何という事か」
静かな、だが威厳のある声が、どよめきを静まらせる力を持って放たれた。これまで騒ぎを見守っていたポール・ラングレイ公がゆっくりと、睨み合う二人に歩み寄った。
「老公、口出しはご無用に願いたい。これは私とアルフォンスの、長年のこじれた関係に決着をつける大事な事なんだ!」
年長者、上位者に対する礼儀も忘れ、普段、心中で老いぼれがと嘲っている気持ちがつい表に出てしまい、シャサールは興奮した口調で言った。対してアルフォンスは、父親程の年齢である同じ七公爵に対して、若年者として一歩下がり、
「申し訳ありません。わたしとしては、この慶事の時に揉め事など望む筈もないのですが、シャサールが、わたしだけでなく、スザナやエーリクの事まで侮辱したのでつい我を忘れてしまいました。一言、非を認めて頂ければ、わたしはそれで流すつもりでいるのですが、このような人目をひく騒ぎを起こしてしまったことは反省すべき所です」
と応えた。これだけでも両者の器の差が知れる所だが、それは言わずともこの場に居合わせた者には判っている筈と思ったラングレイ公は、敢えて両者に、
「いかな理由があれども、今宵の目出度き日に大貴族といずれ大貴族になる者が争ってどうするのだ。諸外国に知れれば、ヴェルサリアの七本柱はひとつに束ねられぬとの誤解を植え付けるではないか。そなた達にとっては、幼馴染み故の気安さの口喧嘩であろうが、場をわきまえられよ」
と説教した。
「まったくもって申し訳ない事を致しました。確かに、名誉に気を取られ、そのような当たり前の事を忘れかけた己の不明を恥じ入るばかりです」
とアルフォンスが頭を下げたのに対し、シャサールは勝ち誇ったように、
「そうだ、場をわきまえない貴公が悪いんだ。元はただの冗談ではないか」
と嘲るように言う。
(死者を侮辱する冗談でなければ、わたしも己を抑えられた筈)
と思うアルフォンスだが、これ以上口論を続けては、仲裁に入ったラングレイ公の顔が立てられなくなると思い、言い返す事は堪えた。その様子を見たシャサールは勝ったと思い、
「決闘と言われて臆したか。ふん、口先ばかりだな」
とまた挑発する。アルフォンスは怒りを抑えて、
「シャサール、老公の仰る通り、我々は共に手を携えてヴェルサリアを支えていかねばならぬ立場、争う事は臣としての本分を蔑ろにする事に繋がります。この辺で止めて頂けませんか。この場での謝罪がし難いと仰るならば後日でも構いませんから」
と更に譲歩しようとした。諸外国への見え方、というラングレイ公の言葉が胸に刺さったからだ。だがシャサールは、
「決闘しないのならば、貴公の方から謝罪して貰おう」
と言い放つ。いくら何でもこれは呑めない。筋違いな要求に、さすがに周囲からもひそひそとシャサールを批判する声が聞かれ始めた。だが気が大きくなっているシャサールにはそうした声は届かない。すると、ラングレイ公は声を張り上げて、
「いい加減にせぬか、シャサール!」
と怒鳴った。ラングレイ公は、シャサール達が少年の頃は、他家の子どもと言えども遠慮せずに、悪いと思えばこのように叱りつけていたものだ。公の日頃の人柄から、バロック公さえもむしろ有り難いと言って誰も言葉を返さなかった。だがシャサールはかっとなって、
「いくら老公でも、そのように言われる筋合いはありませんな! 私は子どもではない。今は爵位ではあなたに劣るが、王妃の父、いずれ国母となる女性の父親だ」
と言い返した。だが老公は全くそれに対して恐れ入る様子もなく、
「シャサール。そなたの娘御がどなたであろうが、そなたはそなたであろうが。また、高位であればある程、他人に対して侮辱した上に理不尽な要求をするなど許されぬ事ぞ。力というものは、振り回す為に持つものではない。皆の手本となる為のものだ。アルフォンスはきちんと理解し、抑えがたき屈辱を堪えて退こうとしているのに、年長のそなたがそう道理が解らぬとは何という事か。……宰相閣下もきっと同じ事を仰ると思い、ここにおられぬので私が言っているだけだ。いい大人のそなたに、子どもに言い聞かせるような事を言って恥をかかせたのは済まなかったな」
と諭した。シャサールは怒りのあまり言葉が出なかった。
「行こう、アルフォンス、スザナ」
そう言って老公は二人を伴って庭園の方へ歩き出した。周囲のくすくす笑いが止まらない。明らかに、恥をかいたのはシャサールばかりであった。
一方、アルフォンスの心中は複雑である。もしもエーリクが健在であったなら、慶事を汚してまで剣を抜く事など考えもしなかっただろう。ただスザナとエーリクの、そして勿論自身の名誉はきっちりと回復させ、あとは軽蔑の意を表してさっさと立ち去っていた筈だ。だがこう大ごとになってしまっては、そう簡単には退けない。それに、シャサールは将来宰相となって公爵の束ねとなる人間なのだ。いつまでもこのように品位に欠けた考え無しの男であって貰っては困る。先程発言した通り、王妃の益、しいては国王の、国家の益にも障る事だ。この場をうまく収め、シャサールに少し心を入れ替えて貰うにはどうしたらよいものか……。
シャサールは、取り巻き達を見回した。誰も自分に積極的に同調しないのでそこにも腹を立てていた。すると、傍についていた初老の男がやや躊躇いがちに言った。
「シャサール様。ここは祝宴の席、シャサール殿下の懐の広さを皆に見せる為にも、ルーン公殿下にあっさりと謝罪なさってはいかがですか。さすれば、根に持たれるようなお方でもありませんから、座興としてこの場は収まりましょう」
この男は、銀狼騎士団――即ちバロック家の保持する騎士団の団長バルザック・ハウンドという者で、シャサールが幼い頃から教育係も務めてきており、取り巻きの中では最も分別もあり、意見もしやすい立場だった。だが、シャサールは苛立ち首を横に振った。
「私は王妃の父親だぞ。この目出度き日に貴族に頭など下げては、王妃の威厳を損ねるではないか!」
まるで自身も王族になりでもしたかのような言い草である。アルフォンスはこのやり取りを聞いて小さく溜息をついた。シャサールの思惑が見えたからだ。王妃の威厳を損ねる、と言えば王権に対して忠実過ぎる程の臣であるアルフォンスは退くだろうと思っている。しかし実際は、王妃の為を思えばこそ、アルフォンスはシャサールが謝罪するまで引き下がるまいと決意を固めた。ここで謝罪なくして退けば、彼は娘の権威を笠に着て今後益々増長するに決まっている。たとえこの事で王妃の不興を一層かうことになるとしても、ここでシャサールを牽制しておく方が重要な臣の務めと考えた。かれは普段の物静かな口調に戻って、
「ハウンド殿の仰る通り。わたしとエーリクとスザナに対して謝罪を要求します。堅苦しい事ではなく、ただ、酔いが過ぎてつい言い過ぎてしまったとだけ認めて下されば、わたしもそれ以上追求するような無粋な真似は致しません」
と告げた。
シャサールは黙っている。酔いで頭の回りが一層遅くなっている。どうやらアルフォンスは引き下がる気はないらしいが、自分が悪かったと認めるのは癪に障る。しかしいい加減この面倒なやり取りを終わらせたい気持ちも強い。娘が王と結ばれて皆が寿いでいるというのに、父親の自分が別の事で注目を集めているのも腹立たしい。父宰相が後でこの事を知ったら、大事な時に何故揉め事を起こしたのかと叱責されるだろう。父の気性では、息子贔屓から一緒になってアルフォンスを非難する事はないと思われる。人心を掴む為には常に自身に批判される隙を見せてはならぬと、いい歳の大人の自分にしょっちゅう小言を言ってくるくらいであるのだから。しかし……それでも、見るだけでも小憎らしい、今はもう冷静さを取り戻していつもの取り澄ました顔になっているアルフォンスに謝罪するのはご免だと思った。
「謝罪なんかしないぞ。私は王妃の父なんだ。アルフォンス、貴公は王妃の臣下じゃないか。王妃に恥をかかせる気か?」
アルフォンスは呆れて、
「わたしは貴族としてごく当然の要求をしているだけです。貴公が王妃陛下の父君であっても、今や貴公もまた王妃陛下の臣なのですよ」
と説いた。周囲から忍び笑いが洩れた。王妃に恥をかかせているとしたら、それはシャサールの方だろうに、というアルフォンスの言外の気持ちが伝わったのだ。
「うるさい! こんな時に細かい事でいちいち……貴公は本当は自分の娘が王妃になり損ねた事を妬んでいるんだろう。だから下らぬ事で祝い事に水を差すような口論を仕掛けてくるんだな!」
「仕掛けてきたのはそちらではないですか! 言いがかりはいい加減にして頂きたい! そんな気は全くないし、わたしだってこんな騒ぎは全く本意ではないんだ!」
「ふん、この偽善者め。いいだろう、あくまで謝罪を要求する気なら、私にも考えがある。どちらの言い分に理があるか、決闘で決めるのだ!」
二人の会話を聞いていた人々は、シャサールのこの言葉に騒然となった。
「シャサール様! なんという事を仰いますか!」
ハウンド騎士団長は青ざめて諫めたが、シャサールの勢いは止まらない。アルフォンスも意外な成り行きに呆気にとられた。正式な謝罪を要求するのが筋な所を、一言非を認めてくれればよいと譲歩したのに、ここまで強情だとは。
自分の言葉に段々興奮が高まってきた様子のシャサールは、何とか止め立てしようとするお付きの者たちの手を振り払い、立ち上がって今にも手袋を投げつけようとしていた。無謀すぎる、と誰もが思った。三十路になってからろくに鍛錬もしていないシャサールと、今でも王国で五本の指に数えられる使い手と言われるアルフォンスとでは、勝負にもならない事は火を見るより明らかである。
「シャサール様! お怪我でもなさったらどうします! 大事なお身体ですぞ!」
説き伏せようとするハウンドにシャサールはふんと笑って、
「私は代理人を立てる。そうだな……お前ではちと歳を取りすぎているか。王宮騎士団長か金獅子騎士団長、どちらかに依頼しよう」
と言い放ったので、皆は益々呆れたが、本人だけは、名案を思いついたと言わんばかりに得意げである。王宮騎士団も金獅子騎士団も王家直属であり、騎士団長にはシャサールからそんな依頼を受けるいわれもないのだが、シャサールはどちらも自分の権力でどうにでもなると考えている風である。
「大貴族同士で決闘など、穏やかじゃない。祝い事の席で何という事か」
静かな、だが威厳のある声が、どよめきを静まらせる力を持って放たれた。これまで騒ぎを見守っていたポール・ラングレイ公がゆっくりと、睨み合う二人に歩み寄った。
「老公、口出しはご無用に願いたい。これは私とアルフォンスの、長年のこじれた関係に決着をつける大事な事なんだ!」
年長者、上位者に対する礼儀も忘れ、普段、心中で老いぼれがと嘲っている気持ちがつい表に出てしまい、シャサールは興奮した口調で言った。対してアルフォンスは、父親程の年齢である同じ七公爵に対して、若年者として一歩下がり、
「申し訳ありません。わたしとしては、この慶事の時に揉め事など望む筈もないのですが、シャサールが、わたしだけでなく、スザナやエーリクの事まで侮辱したのでつい我を忘れてしまいました。一言、非を認めて頂ければ、わたしはそれで流すつもりでいるのですが、このような人目をひく騒ぎを起こしてしまったことは反省すべき所です」
と応えた。これだけでも両者の器の差が知れる所だが、それは言わずともこの場に居合わせた者には判っている筈と思ったラングレイ公は、敢えて両者に、
「いかな理由があれども、今宵の目出度き日に大貴族といずれ大貴族になる者が争ってどうするのだ。諸外国に知れれば、ヴェルサリアの七本柱はひとつに束ねられぬとの誤解を植え付けるではないか。そなた達にとっては、幼馴染み故の気安さの口喧嘩であろうが、場をわきまえられよ」
と説教した。
「まったくもって申し訳ない事を致しました。確かに、名誉に気を取られ、そのような当たり前の事を忘れかけた己の不明を恥じ入るばかりです」
とアルフォンスが頭を下げたのに対し、シャサールは勝ち誇ったように、
「そうだ、場をわきまえない貴公が悪いんだ。元はただの冗談ではないか」
と嘲るように言う。
(死者を侮辱する冗談でなければ、わたしも己を抑えられた筈)
と思うアルフォンスだが、これ以上口論を続けては、仲裁に入ったラングレイ公の顔が立てられなくなると思い、言い返す事は堪えた。その様子を見たシャサールは勝ったと思い、
「決闘と言われて臆したか。ふん、口先ばかりだな」
とまた挑発する。アルフォンスは怒りを抑えて、
「シャサール、老公の仰る通り、我々は共に手を携えてヴェルサリアを支えていかねばならぬ立場、争う事は臣としての本分を蔑ろにする事に繋がります。この辺で止めて頂けませんか。この場での謝罪がし難いと仰るならば後日でも構いませんから」
と更に譲歩しようとした。諸外国への見え方、というラングレイ公の言葉が胸に刺さったからだ。だがシャサールは、
「決闘しないのならば、貴公の方から謝罪して貰おう」
と言い放つ。いくら何でもこれは呑めない。筋違いな要求に、さすがに周囲からもひそひそとシャサールを批判する声が聞かれ始めた。だが気が大きくなっているシャサールにはそうした声は届かない。すると、ラングレイ公は声を張り上げて、
「いい加減にせぬか、シャサール!」
と怒鳴った。ラングレイ公は、シャサール達が少年の頃は、他家の子どもと言えども遠慮せずに、悪いと思えばこのように叱りつけていたものだ。公の日頃の人柄から、バロック公さえもむしろ有り難いと言って誰も言葉を返さなかった。だがシャサールはかっとなって、
「いくら老公でも、そのように言われる筋合いはありませんな! 私は子どもではない。今は爵位ではあなたに劣るが、王妃の父、いずれ国母となる女性の父親だ」
と言い返した。だが老公は全くそれに対して恐れ入る様子もなく、
「シャサール。そなたの娘御がどなたであろうが、そなたはそなたであろうが。また、高位であればある程、他人に対して侮辱した上に理不尽な要求をするなど許されぬ事ぞ。力というものは、振り回す為に持つものではない。皆の手本となる為のものだ。アルフォンスはきちんと理解し、抑えがたき屈辱を堪えて退こうとしているのに、年長のそなたがそう道理が解らぬとは何という事か。……宰相閣下もきっと同じ事を仰ると思い、ここにおられぬので私が言っているだけだ。いい大人のそなたに、子どもに言い聞かせるような事を言って恥をかかせたのは済まなかったな」
と諭した。シャサールは怒りのあまり言葉が出なかった。
「行こう、アルフォンス、スザナ」
そう言って老公は二人を伴って庭園の方へ歩き出した。周囲のくすくす笑いが止まらない。明らかに、恥をかいたのはシャサールばかりであった。