炎獄の娘
28・闇のなか、夢のなか
闇の密度が濃く感じられるなかで甘い香りは徐々に強くなり、換気が効かず元々どんよりと溜まっていた黴臭さと入り交じり、胸が悪くなりそうだった。新鮮な空気を吸いたい……だが、手を伸ばした先に何があるのかさえ解らぬ闇の中では移動するのは無理なことだった。リッターとエクリティスはどうしたのか? 無事ならばどうにかしてエクリティスは傍に来る筈である。だが、二人の気配は絶えてしまった。まさか声を上げる間もなく二人は刺客の手にかかってしまったのだろうか? 確かめる術はない。腕に抱いているのが本当にスザナであるのかどうかすら判らないのだ。だが纏っている香りや着衣の感じから、そうに違いないと思い、アルフォンスは小声で、
「スザナ、スザナ、大丈夫か、しっかりしてくれ」
と呼びかけた。
「う……ん……」
呼びかけに応じて眠たげに呻いた声が確かにスザナのもので、特に苦しそうでもない様子なので、アルフォンスはほっと一息ついた。だが、スザナの意識は混濁しているようであった。次にスザナが口にした言葉は、
「……ロアン?」
ロアンとはスザナの亡夫である。スザナより十歳程年長で、二年前に落馬の負傷がもとで他界している。女公爵であるスザナをこのように抱きとめる男は夫しかいない、だから、朦朧とした中でそのように思い違えたのだろう、と考え、アルフォンスの胸は痛んだ。
「済まない、スザナ、ロアンじゃない。わたしだ、アルフォンスだ。今の状況を思い出してくれ。危険なんだ。やはりきみを連れてくるべきではなかった」
「……ロアン……」
スザナの耳にはアルフォンスの声は届いていないようだった。闇の中で彼女がどんな表情でいるのか判らなかったが、いつもの明るい彼女とは別人のようにその声はくぐもっていた。
「どうしてここはこんなに暗いの? わたくし、死んだのかしら……死んで、あなたのいるダルムの氷獄へ来てしまったのかしら……」
「スザナ、ここは王立図書館の地下だ。それにロアンが氷獄にいる訳がないだろう。彼はルルアの国で永遠の安らぎを得ている筈だよ」
こうしている間にも、闇の中から敵が現れるのでは、そうなった時にこの真闇の中で自分はスザナを護りきれるのか、とアルフォンスは焦ったが、スザナの意識はなかなか明晰に戻らない。むせるような甘い香のせいに違いないだろう。ただ、今のところは香の影響だけで敵の気配は感じられないのだけが救いと言えば救いだった。この香も何者かが侵入を拒む為に仕掛けておいたものに間違いはない筈だが……。
「ここは氷獄ではない……では、あなたは生き返ったというの……?」
「スザナ、残念だがそうじゃない、わたしはロアンじゃない」
「わたくしを責める為に蘇ったの?! わたくしのせいじゃないわ。あなたが死んだのはわたくしのせいじゃない!」
アルフォンスの腕の中でスザナは激しい動揺を示してその手から逃れようとする。
「危ない、スザナ、ランタンの欠片が散らばっている、怪我をするぞ! どうしたんだ一体! ロアンがきみを責める筈がないだろう」
ロアンはローズナー一族の者で、穏やかでいつも妻より半歩下がってにこにこと笑っているような男だった。夫婦仲は端から見て睦まじく、若く美しく闊達な妻を何より大事にし、愛妾も持たなかった。尤も、容姿はあまり優れていなかった。背は妻より低く、年齢よりかなり老けていて、スザナと並ぶと父親のようにも見えたものだ。スザナは言葉を継いだ。
「大貴族の婚姻には愛情なんかいらない……あたしはそう言って、ロアン、あなたはその言葉を受け入れた。でも結局、あなたは添って二十年近くもの間、ずっと不満を持っていた。あたしが幼い頃の夢の通りに、アルフォンスの妃になれなかった事で幸福ではないと……あなたを愛さず、アルフォンスを愛していると……。でも仕方がないじゃないの。あたしの四人の兄が死んでローズナー家を継ぐ事になったのも、その為にルーン家に嫁ぐ話がなくなってしまったのも、あたしのせいじゃない。全部ルルアのご意志だわ。あたしは全てを諦め、あなたが求めれば応じ、ちゃんと跡継ぎももうけた。ローズナー家の跡取りとして全ての義務を果たしたわ。だからせめて心の中だけでは、誰を愛するかはあたしの自由にさせて欲しかった。なのにあなたは、いつもその優しげな表情の裏であたしを責めていた。夫を愛さずに他のひとを愛していると……! だけどね、あなたがいなくなってしまえばいいと思った事はあっても、あなたを殺そうとなんてしていないわ。あの日、新米の馬具係がついたのはあたしが計らった事じゃないのよ、偶然だわ。だからそんなに責めないでよ!!」
「スザナ……!!」
「あなたがあんな死に方をして、あたしの邪な想いがあなたを死に追いやったのかと……そして満たされないままに死んだあなたは氷獄を彷徨っているのではないかと……ずっと恐れていた。今でもあなたは優しく責める眼差しで夢の中で黙ってあたしを見つめてくるのだもの。でも仕方がない。あたしは何人もの男を同時に愛せるような器用な女じゃないの。あなたの事は子ども達の父親として尊敬していたわ。あたし達はずっとうまくやっていける筈だった。互いに愛し合えなくても、決して手に入らないものを求める想いを胸に秘めた同士だったんだから……」
腕の中でスザナは泣きじゃくっていた。アルフォンスは、普段から男装で凛々しく明るいスザナがこんな感情を隠していたとは思いもせず、ただ驚くばかりだった。聞いてはいけない事を聞いてしまった……そんな思いでいっぱいだった。
「他の男だったら、あたしはあなたを裏切ってでもきっと手に入れていた。でもかれはあたしの手には入らない。だからあたしはあなたの貞淑な妻でいたわ。なのに、どうして責めるの……」
「スザナ、誰もきみを責めてなんかいない」
言葉が伝わるか判らなかったが、アルフォンスはそう言って、力なく暴れるスザナを抱きしめた。この真闇の中では、この甘い香のもとでは、少しくらいの事はルルアもその神子も大目に見てくれると思った。或いは自分も香に酔っているのかも知れない。こんな気持ちをひた隠しにしていたスザナを、カレリンダに対する真摯の愛とは別に、愛おしいと感じた。スザナがロアンに対して罪の意識に苛まれているならば、それから解き放ってやりたい。彼女が自分をロアンだと思っているのなら、それに乗ってやろうと思った。
「スザナ、苦しむな、わたしはきみの幸福を願っている」
そう囁くと、闇の中、相手の顔も全く見えないところで、ただ苦しげな息遣いと腕の中のしっかりした手応えを頼りにかれはスザナに口づけた。温かい口腔の感触は妻とは違ったが、別の甘い味がした。
「ん……」
うっとりとスザナはアルフォンスに身を任せる。ほんの一瞬、危険も正しき事も忘れ、真闇の中で二人は互いの舌をむさぼり合った。
「……もっと……もっと、きつく抱いて。あたしをあなたのものにして。この闇の中にはルルアの目も届かないわ……」
スザナが囁き、火照った身体をすり寄せてくる。だがさすがにアルフォンスはこれ以上の事はしてはいけないという分別を保っていた。
「スザナ、これは夢だよ。夢を伝って逢いに来たんだ。きみを恨んでなんかいないと伝える為にね。幸福に過ごしておくれ」
ロアンのつもりで囁くと、アルフォンスは彼女に当て身を食らわせた。惜しいという気持ちが皆無な訳ではないが、この状況でこれ以上こうしている訳にもいかない。スザナはぐったりと崩れ落ちたが、その呼吸は規則正しい。
アルフォンスはスザナをそっと床に寝かせた。もしも敵がどこかに潜んでいて、殺意を持っているのならば、とっくに手出しをしてきている筈。冷静になってもう一度気配を探ると、闇の中に呼吸音が微かに聞こえた。リッターとエクリティスのものだろう。二人とも、香にあてられて意識を失ってしまったらしい。二人を瞬時に眠らせ、スザナを惑わせた香が、何故、自分には効かないのだろう? いや、スザナに対してあんな事をしてしまうなんて、自分もどこかおかしくなっているのかも知れないが……。
(夢だ。全てはスザナの夢の中。彼女の苦しみが解き放たれるよう、ロアンの想いがわたしに乗り移ったのに違いない)
かれにしては珍しく、自分に都合の良い解釈をした。子どもの頃のスザナの愛らしい姿は今もはっきりと覚えている。婚約の話があった事も当時知っていた。それを聞いて嬉しく思った事も思い出した。思えば、スザナは幼い頃の淡い初恋のひとであった。二人の立場、身分がやがて二人を遠ざけて、アルフォンスはシルヴィアと婚約し、カレリンダを得て、それは遙かな幻のような思い出に過ぎなくなっていたのだが。
(いかん、こんな事を考えている場合じゃない。とにかく何としても、皆が無事にここを出られるようにしなければ)
ランタンを落としてしまった事が最大の失敗だった。このままでは先に進むどころか、元来た方へ戻るのも難しい。この地下では、朝になっても大して明るくはならないだろう。
「リッター、エクリティス、目を覚ましてくれ。誰かがランタンを取りに戻らねば……」
そう呼びかけた時、ふと、この香りには覚えがあると気づいた。空気が淀んで黴臭さと入り交じっているので今まで判らなかったのだが……
(なんだ、これはカリィの焚く眠りの香じゃないか!)
『これは特別な香なのよ。ルルア大神殿からしか手に入らない。よく眠れて、その人の心を大きく占めるものが夢になって現れるの。でももしも罪の意識に苛まれているような者が使えば、悪夢を見る事になるらしいわ』
時折カレリンダは寝室でこの香を焚いた。抱き合って眠る二人が見る夢は勿論いつも互いの夢……。
だが今ここに漂っているのは、カレリンダが普段使うものをずっと濃縮させたもののようだった。そうでなければいくら何でも一瞬で眠ったりおかしくなったりする筈がない。アルフォンスが眠らないでいられるのは、他の三人と違ってこの香に慣れているからだろう。何度も使ううちに、最初はすぐに眠れていたところが、近頃では誘眠の効果は殆ど感じられなくなっていた。だが、濃縮された今の香りは、確かに幾分かの眠気を運んでくる。
(駄目だ、わたしまで眠ってしまう訳には……)
そう思った時、眠気を吹き飛ばす事が起きた。
何者かが、表の扉を開ける音が、ここまで聞こえてきたのだ。かつり、かつりと響く足音は、まっすぐにこちらへ向かってくるようだった。
「スザナ、スザナ、大丈夫か、しっかりしてくれ」
と呼びかけた。
「う……ん……」
呼びかけに応じて眠たげに呻いた声が確かにスザナのもので、特に苦しそうでもない様子なので、アルフォンスはほっと一息ついた。だが、スザナの意識は混濁しているようであった。次にスザナが口にした言葉は、
「……ロアン?」
ロアンとはスザナの亡夫である。スザナより十歳程年長で、二年前に落馬の負傷がもとで他界している。女公爵であるスザナをこのように抱きとめる男は夫しかいない、だから、朦朧とした中でそのように思い違えたのだろう、と考え、アルフォンスの胸は痛んだ。
「済まない、スザナ、ロアンじゃない。わたしだ、アルフォンスだ。今の状況を思い出してくれ。危険なんだ。やはりきみを連れてくるべきではなかった」
「……ロアン……」
スザナの耳にはアルフォンスの声は届いていないようだった。闇の中で彼女がどんな表情でいるのか判らなかったが、いつもの明るい彼女とは別人のようにその声はくぐもっていた。
「どうしてここはこんなに暗いの? わたくし、死んだのかしら……死んで、あなたのいるダルムの氷獄へ来てしまったのかしら……」
「スザナ、ここは王立図書館の地下だ。それにロアンが氷獄にいる訳がないだろう。彼はルルアの国で永遠の安らぎを得ている筈だよ」
こうしている間にも、闇の中から敵が現れるのでは、そうなった時にこの真闇の中で自分はスザナを護りきれるのか、とアルフォンスは焦ったが、スザナの意識はなかなか明晰に戻らない。むせるような甘い香のせいに違いないだろう。ただ、今のところは香の影響だけで敵の気配は感じられないのだけが救いと言えば救いだった。この香も何者かが侵入を拒む為に仕掛けておいたものに間違いはない筈だが……。
「ここは氷獄ではない……では、あなたは生き返ったというの……?」
「スザナ、残念だがそうじゃない、わたしはロアンじゃない」
「わたくしを責める為に蘇ったの?! わたくしのせいじゃないわ。あなたが死んだのはわたくしのせいじゃない!」
アルフォンスの腕の中でスザナは激しい動揺を示してその手から逃れようとする。
「危ない、スザナ、ランタンの欠片が散らばっている、怪我をするぞ! どうしたんだ一体! ロアンがきみを責める筈がないだろう」
ロアンはローズナー一族の者で、穏やかでいつも妻より半歩下がってにこにこと笑っているような男だった。夫婦仲は端から見て睦まじく、若く美しく闊達な妻を何より大事にし、愛妾も持たなかった。尤も、容姿はあまり優れていなかった。背は妻より低く、年齢よりかなり老けていて、スザナと並ぶと父親のようにも見えたものだ。スザナは言葉を継いだ。
「大貴族の婚姻には愛情なんかいらない……あたしはそう言って、ロアン、あなたはその言葉を受け入れた。でも結局、あなたは添って二十年近くもの間、ずっと不満を持っていた。あたしが幼い頃の夢の通りに、アルフォンスの妃になれなかった事で幸福ではないと……あなたを愛さず、アルフォンスを愛していると……。でも仕方がないじゃないの。あたしの四人の兄が死んでローズナー家を継ぐ事になったのも、その為にルーン家に嫁ぐ話がなくなってしまったのも、あたしのせいじゃない。全部ルルアのご意志だわ。あたしは全てを諦め、あなたが求めれば応じ、ちゃんと跡継ぎももうけた。ローズナー家の跡取りとして全ての義務を果たしたわ。だからせめて心の中だけでは、誰を愛するかはあたしの自由にさせて欲しかった。なのにあなたは、いつもその優しげな表情の裏であたしを責めていた。夫を愛さずに他のひとを愛していると……! だけどね、あなたがいなくなってしまえばいいと思った事はあっても、あなたを殺そうとなんてしていないわ。あの日、新米の馬具係がついたのはあたしが計らった事じゃないのよ、偶然だわ。だからそんなに責めないでよ!!」
「スザナ……!!」
「あなたがあんな死に方をして、あたしの邪な想いがあなたを死に追いやったのかと……そして満たされないままに死んだあなたは氷獄を彷徨っているのではないかと……ずっと恐れていた。今でもあなたは優しく責める眼差しで夢の中で黙ってあたしを見つめてくるのだもの。でも仕方がない。あたしは何人もの男を同時に愛せるような器用な女じゃないの。あなたの事は子ども達の父親として尊敬していたわ。あたし達はずっとうまくやっていける筈だった。互いに愛し合えなくても、決して手に入らないものを求める想いを胸に秘めた同士だったんだから……」
腕の中でスザナは泣きじゃくっていた。アルフォンスは、普段から男装で凛々しく明るいスザナがこんな感情を隠していたとは思いもせず、ただ驚くばかりだった。聞いてはいけない事を聞いてしまった……そんな思いでいっぱいだった。
「他の男だったら、あたしはあなたを裏切ってでもきっと手に入れていた。でもかれはあたしの手には入らない。だからあたしはあなたの貞淑な妻でいたわ。なのに、どうして責めるの……」
「スザナ、誰もきみを責めてなんかいない」
言葉が伝わるか判らなかったが、アルフォンスはそう言って、力なく暴れるスザナを抱きしめた。この真闇の中では、この甘い香のもとでは、少しくらいの事はルルアもその神子も大目に見てくれると思った。或いは自分も香に酔っているのかも知れない。こんな気持ちをひた隠しにしていたスザナを、カレリンダに対する真摯の愛とは別に、愛おしいと感じた。スザナがロアンに対して罪の意識に苛まれているならば、それから解き放ってやりたい。彼女が自分をロアンだと思っているのなら、それに乗ってやろうと思った。
「スザナ、苦しむな、わたしはきみの幸福を願っている」
そう囁くと、闇の中、相手の顔も全く見えないところで、ただ苦しげな息遣いと腕の中のしっかりした手応えを頼りにかれはスザナに口づけた。温かい口腔の感触は妻とは違ったが、別の甘い味がした。
「ん……」
うっとりとスザナはアルフォンスに身を任せる。ほんの一瞬、危険も正しき事も忘れ、真闇の中で二人は互いの舌をむさぼり合った。
「……もっと……もっと、きつく抱いて。あたしをあなたのものにして。この闇の中にはルルアの目も届かないわ……」
スザナが囁き、火照った身体をすり寄せてくる。だがさすがにアルフォンスはこれ以上の事はしてはいけないという分別を保っていた。
「スザナ、これは夢だよ。夢を伝って逢いに来たんだ。きみを恨んでなんかいないと伝える為にね。幸福に過ごしておくれ」
ロアンのつもりで囁くと、アルフォンスは彼女に当て身を食らわせた。惜しいという気持ちが皆無な訳ではないが、この状況でこれ以上こうしている訳にもいかない。スザナはぐったりと崩れ落ちたが、その呼吸は規則正しい。
アルフォンスはスザナをそっと床に寝かせた。もしも敵がどこかに潜んでいて、殺意を持っているのならば、とっくに手出しをしてきている筈。冷静になってもう一度気配を探ると、闇の中に呼吸音が微かに聞こえた。リッターとエクリティスのものだろう。二人とも、香にあてられて意識を失ってしまったらしい。二人を瞬時に眠らせ、スザナを惑わせた香が、何故、自分には効かないのだろう? いや、スザナに対してあんな事をしてしまうなんて、自分もどこかおかしくなっているのかも知れないが……。
(夢だ。全てはスザナの夢の中。彼女の苦しみが解き放たれるよう、ロアンの想いがわたしに乗り移ったのに違いない)
かれにしては珍しく、自分に都合の良い解釈をした。子どもの頃のスザナの愛らしい姿は今もはっきりと覚えている。婚約の話があった事も当時知っていた。それを聞いて嬉しく思った事も思い出した。思えば、スザナは幼い頃の淡い初恋のひとであった。二人の立場、身分がやがて二人を遠ざけて、アルフォンスはシルヴィアと婚約し、カレリンダを得て、それは遙かな幻のような思い出に過ぎなくなっていたのだが。
(いかん、こんな事を考えている場合じゃない。とにかく何としても、皆が無事にここを出られるようにしなければ)
ランタンを落としてしまった事が最大の失敗だった。このままでは先に進むどころか、元来た方へ戻るのも難しい。この地下では、朝になっても大して明るくはならないだろう。
「リッター、エクリティス、目を覚ましてくれ。誰かがランタンを取りに戻らねば……」
そう呼びかけた時、ふと、この香りには覚えがあると気づいた。空気が淀んで黴臭さと入り交じっているので今まで判らなかったのだが……
(なんだ、これはカリィの焚く眠りの香じゃないか!)
『これは特別な香なのよ。ルルア大神殿からしか手に入らない。よく眠れて、その人の心を大きく占めるものが夢になって現れるの。でももしも罪の意識に苛まれているような者が使えば、悪夢を見る事になるらしいわ』
時折カレリンダは寝室でこの香を焚いた。抱き合って眠る二人が見る夢は勿論いつも互いの夢……。
だが今ここに漂っているのは、カレリンダが普段使うものをずっと濃縮させたもののようだった。そうでなければいくら何でも一瞬で眠ったりおかしくなったりする筈がない。アルフォンスが眠らないでいられるのは、他の三人と違ってこの香に慣れているからだろう。何度も使ううちに、最初はすぐに眠れていたところが、近頃では誘眠の効果は殆ど感じられなくなっていた。だが、濃縮された今の香りは、確かに幾分かの眠気を運んでくる。
(駄目だ、わたしまで眠ってしまう訳には……)
そう思った時、眠気を吹き飛ばす事が起きた。
何者かが、表の扉を開ける音が、ここまで聞こえてきたのだ。かつり、かつりと響く足音は、まっすぐにこちらへ向かってくるようだった。