炎獄の娘

34・血の誓い

 驚きと不安の表情を浮かべたリッターの前で、アルフォンスは腕を天に向かって掲げ、流れる血を地に滴らせた。

「遠き父祖より受け継ぎし我が身体に流れるこの血にかけて、これから為す事は我ひとりの責により為す事である。その行為に咎あれば、その報いはどのような形となりても、ただ我ひとりが受ける事を母なるルルアに誓う」

 血を伴うその行為は、ヴェルサリアの騎士貴族にとって、簡単でも最も重い、誓いの儀であった。己の血は己だけのものではなく、先祖代々から受け継いできたもの、それを賭けた誓いに背くという事は、自分の先祖全てを汚す事と見なされるのである。
 誓いを終えたアルフォンスの黄金色の瞳は今は何の揺らぎもなく、王都へ派遣された者の長だという男の目を見据えた。

「まさか、これ程理を尽くしてご説明申し上げたにも関わらず、私を斬るおつもりですか? ルーン公殿下、あなた様にはそれがどういう事に繋がるか、もう、よくお解りの筈ですが?」

 男の脅しなど聞こえもしなかったという風で、ただアルフォンスは念の為に、

「そなたが己の罪を悔い、エーリクと門番の男への贖罪をしたいと申すのならば、わたしも考えを改めないでもないが、どうか」

 と問うたが、男は呆れたように、

「私の罪? 私に罪など、もとよりありません」

 と返しただけだった。

「そうか。残念だ」

 無論、男の答えは問う前からアルフォンスには解っていた。この者達は恐らく幼少の頃からひたすら、『闇』独自の善悪基準を植え付けられ、それを至上としか考えられないよう教育されてきたのだろう。それを思うと、哀れさを感じなくもなかったが、だからと言って、人を殺めておいて薄笑いを浮かべるような男を許す事は出来ない。アルフォンスは静かに剣を構えた。



「ちょっと待って下さい! 尋問もせずに殺してしまうおつもりですか!」

 リッターが驚きと不信の入り交じった声を上げる。

「尋問は無駄だと言っただろう。この者らは決して口を割らぬ。それに、この男の落ち着きよう、組織の中である程度の地位を持っている事からみて、この男は助けが来るのを待っているのだ。わたしがきみたちの安全と引き替えにこの者達を放すだろうという目論見が外れても、この者達には魔道がある。既に禁忌を破って攻撃に魔道を使用してきたような者達だ、逃げる為に使うのに躊躇はすまい」

 アルフォンスの言葉に初めて、男の顔に僅かな動揺が浮かんだ。

「私は他の小者たちとは違います。我らが何者かを知られた上で私をお斬りになる事は、我らを……ルルアを否定なさる事でございますぞ」
「何故貴様を斬る事がルルアの否定に繋がるのだ」

 リッターは呆れ顔で呟いたが、アルフォンスには男の言いたい事が理解出来た。男を斬る事は、『闇』――自分らでは『ルルアの子ら』、つまりルルアの代弁者を名乗っている――の理念、即ち彼らが『ルルアの意志』と信じているものを否定する事であり、『闇』を完全に敵に回す事になる、と警告しているのだ。代々のルーン公に受け継がれてきた『闇』への恐怖……昨日まではそれは、昔話に過ぎないと思っていたが、実在すると知れば、さすがのアルフォンスも躊躇いがない訳ではない。しかし、リッターの言う通り、エーリクを殺したものを放置してよい筈もなかった。自分の身に全てを引き受ける事で、もう恐れるものはなくなった。

「そなた達がしている事が真にルルアの意に適っているならば、そなた達が手を下さずともわたしにルルアの罰が下る筈」
「ルルアご自身が人の子の生死に関わる事はありませぬ。それ故に我々が代わってルルアのご意志を果たすのです。詭弁を振るわれても無駄でございますよ。殿下の重い咎は殿下の大事な方にも及びましょう。ご存じでしょう、過去にはそういう事も実際にあったと」
「そなたはいったい何様のつもりなのだ。そなたを殺せばルーン公爵ばかりか聖炎の神子までもそなた達の手にかけると脅しているつもりか」
「私の生命の問題ではありません。殿下がルルアに背かれる罪に対する罰の話です」
「わたしの咎は全てわたしひとりが受ける。咎はむしろ、リッターやスザナをここまで引き込んでしまった事にあると思っている。だが、わたしの家族や部下、リッターやスザナ、その他の誰にも、わたしの咎を共に背負わせたりはしない。そなた達にも手出しは出来ぬ筈……何故ならわたしは、ルーン公の血に懸けてルルアに誓いを立てたからだ。ルーン公の血は即ち、伝説の神子にしてルルアの娘の化身アルマ・ルーンから受け継いだ血。その血に懸けた誓いを破らせるという事は、そなたらもまた、ルルアに背く者になるという事だ」
「…………」

 男は下唇を噛んだ。アルフォンスの言葉が正しい事を認めぬ訳にはいかないと思ったようだった。エーリクに対してしたように、家族を質にとる、というやり方をさせぬよう、アルフォンスは手を打ったのである。

「しかし、殿下ご自身は罰を免れませぬぞ」
「罰を受ける謂われはないが、せいぜい足掻いてみるとするか。扉を開いた訳でもないのだから、出来れば勘弁願いたいものだがな」

 自嘲と皮肉を込めてアルフォンスは苦笑した。覚悟は決まったとはいえ、ルーン家とヴィーン家の歴史上、『闇』に狙われて命長らえた者はいないという言い伝えを思うと、今からする事に、己の命を投げ出す程の価値があるのかと自問してみたくもなる。だが、正義を貫き、エーリクの敵を討ち、リッターの納得を得る為には、この方法しか思い浮かばない。

「金獅子騎士が来る前にこの男はこちらに向かっている仲間の手を借りて逃亡するつもりだった。だからあんなに余裕を見せていたのだ。庭園で襲って来た男は潔く自害したというのに、この男は大物を気取っている割にはそういう覚悟もないのだ」

 アルフォンスはリッターに言った。リッターは考え詰めた表情で、

「アルフォンス、あなたは敵の正体を知り、我々を巻き込まずにひとりで闘うつもりなんですか? さっきから話しているのは、そういう事なんですね? 最初は我々に危険が及ばないように闘いは避ける気だったけれど、私が疑ったから……?」

 アルフォンスはリッターに微笑を返した。

「気にしないでくれたまえ。これはもとより、アルマヴィラの問題なんだ。きみたちを巻き込んだわたしだけが立ち向かうべき事なんだ」

 折角忠告に来てくれたダルシオンの行為も無駄にしてしまう。彼は恐らく呆れ果てるだろう。だが、『闇』の目がアルフォンスに向けば、ダルシオンはより安全になる筈である。

「話は終わりだ。リッター、離れていてくれ。服が汚れる」
「ルーン公殿下! 後悔なさいますぞ。今ならまだ間に合う」

 後ろ手に縛られている男は焦り気味な様子で立ち上がろうとする。

「動くな!!」

 アルフォンスは叫んだ。有無を言わさぬ力が込められていた。

「動くと無用な苦痛を味わうかも知れぬ。それはわたしの望むところではない」
「で……殿……」

 自らの血のついたロングソードをアルフォンスが構えたのは刹那。かれの気がきんと辺りの空気を凍り付かせる。もう一人の捕虜が猿轡の下で呻き声を上げたがアルフォンスの耳には届かない。
 一閃。ブンッとロングソードが空気を薙ぐと、男の首は宙を飛び、若い捕虜の膝元に落ちた。



「ア……アル……」

 リッターは声を発したが、返り血を浴びたアルフォンスが振り向くとそれ以上言葉にならなかった。黄金色の髪には大量の赤い液体がこびりつき、その端正な白い顔をも汚している。が、そのなかでも特に、いつも人を惹きつけるあの不思議な色彩の黄金色の瞳に浮かんだなにかがリッターを黙らせた。憐れみではない。そんな温かなものではない。人を斬る事に対する苦痛……? いや違う、それは確かに先程までは浮かんでいたが……。

(まさか……いや、私の思い違いだ。ある訳がない)

 リッターが息を呑んで見つめるうちに、ふうっとアルフォンスの瞳からそれは消え、元のかれの静かな眼差しの力が戻って来た。かれの身体を包んでいた、煌めきながら凍てつかんばかりの気も薄らいでいった。

(なんという膂力だ、あの太くもない腕で。そして、なんという剣技だ……)

 腕利きの首切り役人でも、台の上で動かない囚人の首を振りかざした刃で一撃で斬り落とすのに失敗し、罪人を苦しめる事が珍しくないという。なのに、半立ちの相手と向かい合い、正確な狙いで首を刎ね飛ばした。

「すまない、リッター、血が飛ばなかったか」
「い、いいえ……あなたこそ、血まみれです……その、どうやってお帰りになるんですか」

 視線を向けられたリッターは、己でも歯痒い位に当たり障りのない答えしか返せなかった。温厚なアルフォンスの余りにも意外な一面を見て混乱していた。人を殺めておいて動揺の欠片も見せない姿。ただひとつ、これは決して最初からアルフォンスがしようとした事ではなかったと、自分やスザナを敵から護る為に敢えて矢面に立ったのだという事はやっと、理解せざるを得なかった。



「エクリティスが着替えを持って戻ってくる筈だ」

 何でもない事のようにアルフォンスは言う。

「騎士団長は、あの時点であなたがこうする事を解っていたんですか」
「ああ、たぶんね……」

 アルフォンスは溜息をつき、マントを脱いで血にまみれたロングソードを拭った。鞘に収めると、地に転がった男の首を見て、

「少しでも改悛を見せれば、自裁させてもよかったのだが……」

 と呟いた。



「…………!!」

 目の前に仲間の首が転がり、激しく藻掻いている若い男の猿轡をアルフォンスは外してやった。

「なんという事を……この方は、我らがあるじの甥御であったのですぞ!」

 若い男は震えながら喚いたが、アルフォンスの心には何一つ響かなかった。

「誰の血縁だろうと、斬ってしまえば同じだ。『己の罪を知らずとも罪は罪。死をもって償わせねばルルアの御心に添わぬ』……この男自身がそう言ったのだ。そなたは直接手を下した訳ではないようなので、情けをやろう。即ち、金獅子の拷問にかかるか、自裁するか、自身で選ぶがいい……」

 それを聞くと、男は俯いた。この若者はさっきの男と違い、仲間の助けを期待していない。現に、囚われた途端にあの男から自害を唆す目線を送られていた。魔道で助けるにしても、危険を冒した上で一人が精一杯、というところなのだろう。
 アルフォンスはもう一度、こびりついて取れぬ手についた血をマントで拭った。エーリクともう一人を殺した犯人を処刑した、それだけの事なのに、心が寒々としていた。動揺はない。あるのは、虚しさだけだった。
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