炎獄の娘

36・昏い夜明け

 館の者を起こさぬように、アルフォンスとエクリティスは静かに使用人の使う通用口から邸内に入った。二人とも、くたくたに疲れていたが、エクリティスは、

「湯浴みの支度を調えさせていますがいかがなさいますか」

 と問うた。マントを脱いだアルフォンスの、着替えた服は清潔だが、髪や手にはまだ血糊がこびりついている。

「そのまま浴槽に沈んで眠ってしまいそうだな。だが確かにこのままでは……」
「お傍についていますから大丈夫ですよ」

 エクリティスが軽く笑って言うので、アルフォンスは大きく欠伸をして、

「そうか、騎士団長にそんな事を頼むのは気がひけるが、他の者にあまりこの姿を見られたくないしな」
「残り湯は頂きますから、お気兼ねなく」

 ようやく自分たちの領域に帰って来た事で、二人はほっと緊張の解けた心持ちだった。



 が、その時、

「父上!」

 とまだ薄暗い廊下の向こうから大きな声が響いたので、二人は思わず、らしくもなくびくりとしてしまった。ファルシスとアトラウスがホールの方から早足で歩み寄って来た。

「どうした、何かあったのか」

 思わず不安に身を固めたアルフォンスだったが、ファルシスの方も強ばった表情で、

「よかった、まだお帰りになっていないという事で、心配していたんです」

 と言う。

「なんだ、女子どもじゃあるまいし、一晩帰らなかったからと言って心配するような事じゃないだろう。ユーリンダはあれから大丈夫なのか?」

 ファルシスの表情の原因が判って安堵したアルフォンスだが、疲れ果てている為につい口調はきつくなってしまった。

「まだ寝ています。乳母がついて部屋の外には騎士も立たせてますから心配ないと思います。それより、とっくに先にお帰りになられた筈の父上が、深夜に帰宅してみると、全くお姿を見なかったと皆が言うものだから心配になったんです」
「わたしだって忍び遊びに出かけたくなる時だってあるさ。しかしアトラにまで、そんなに心配をかけたなら済まなかったな」

 くだらない、まだ息子から心配されるような歳ではない、さっさと休みたい……そんな思いを胸によぎらせながら、会話を打ち切ろうとすると、アトラウスが幾分ほっとした顔で、

「いえ、ご無事で何よりでした。何しろ、グリンサム公殿下の事やユーリンダの事がありましたから、お出かけになられるとは思わず、お帰りの道中に、なにかしら不吉な事によもや巻き込まれておいでではないかと二人で案じていたのです」

 と応えたので、あっと思い、アルフォンスは息子達の考えに気が回らなかった己を恥じた。確かに、幼馴染みが亡くなった夜に自分が夜遊びに出かける筈もないし、ユーリンダの不吉な預言もあった。誰にも何も言わずに行方が分からなくなれば、不可解な死を遂げたエーリクと同じように危険な何かに遭遇したのではと案じるのも当然だった。

 詫びようと口を開きかけた時、ファルシスがはっと気づいた。

「父上、その血はいったい?!」

 黄金色の髪を一見泥跳ねのように点々と汚しているものが、人の血である事が、ファルシスとアトラウスには薄暗い廊下でもはっきりと見分けられた。

「まさかお怪我を?」
「やはり危険な事があったのですか?」

 顔色を変えて問いただしてくる息子と甥をどう誤魔化すか……自分の身より大事な二人を絶対に危険に近づける訳にはいかないと思うアルフォンスは答えに詰まる。

「大丈夫です、私がついていましたから。アルフォンス様が、グリンサム公殿下を偲んで、少年時代の思い出の場所に行ってみたい、と仰せでしたので、馬車を先に返し、徒歩で町に出たのですが、祭りには必ずろくでもない考えを持つごろつきが潜んでいるものです。金目当ての輩に襲われまして、しかし難なく斬り伏せました」

 エクリティスが助け船を出した。

「そうなんだ。大した危険じゃない。しかし、心配をかけて済まなかった」

 アルフォンスは心中有り難く思いながら話を合わせ、

「エーリクは表向き、死んでいない事になっている。わたしが今エクリティスが言ったような行動をとったというのは不自然なので、この事は伏せておいて欲しい」

 と言った。ファルシスとアトラウスは顔を見合わせた。

「グリンサム公殿下の事については、後でお聞かせ頂けると思っていましたが?」

 と言ったファルシスは、『ごろつきに襲われた』とはあまり信じていないらしい。だが、先程エクリティスに言った通り、アルフォンスは、誰にどこまで話をしていいのか、正しい判断を下すには今は疲れすぎていた。

「ファル、それにアトラも、もうじき、時にはわたしの代理に立って表に出てもらうような事も必要になってくるような年頃だ。知っておくべき事は話す。だが今わたしはくたくたなんだ。心配をかけた事は謝る。考えが足りなかった」
「……」

 また結局子ども扱いされてはぐらかされるのではないか、という懸念がファルシスの面にはありありと浮かんでいたが、そう言われるとそれ以上食い下がる訳にもいかない。不承不承、わかりました、と引こうとしたが、アトラウスの方が珍しく、素直に伯父を通さなかった。

「伯父上、その腕のお怪我は? それは誰かに傷つけられたものではありませんね?」
「……」

 誓いを立てた時の小さな傷をアトラウスは見逃さなかった。

「それは血の誓いを立てられた傷ではないのですか?」
「……まぁそうだ。よく気がついたな」
「父上、いったい何が」
「大した事じゃないんだ!」

 この一夜のうちに受けた精神的ダメージと疲労から、さすがのアルフォンスも疲れ果てて苛立っていた。誓いの事を指摘されると、未だそれが最善だったのか自分でも確信できない事であるだけに、尚更その苛立ちは募った。息子達が相手だと、リッターなどとは違い、そのうち解ってくれるだろう、という無意識の甘えもあった。

「後でと言ったら後でだ。休ませてくれ」

 そう言うと、二人の間を通ってさっさと湯浴みの支度が整えられている部屋の方へ歩き出した。

「大丈夫です。ご心配なさらずお休み下さい。お二人とも、寝ずにいらっしゃったのでしょう?」

 エクリティスが柔らかくとりなす。

「ええ、まぁ……」

 この日の午前は何の式典も予定もなかった。夜通しの宴の後は皆ゆっくり休もうという日程が組まれていたのだ。エクリティスは二人をその場に残してアルフォンスの後を追った。



「……珍しいな、父上があんな……。まぁ仕方がない、お休みになられてから話して下さるようまたお願いするしかないな」

 ファルシスは、すぐに真実を教えてもらえなかった事に失望の吐息を漏らしつつ呟いた。

「とにかく、ご無事でよかったじゃないか」

 アトラウスはそんな従弟を励ますような口ぶりで軽く肩を叩いた。が、アルフォンスが去った方をちらと見やったその視線は、口調とは裏腹に、無感情に探るようないろが含まれていた。



「子ども達も色々考えるようになったな。だが、まだまだ頼りない」
「着実に成長されていますよ。いずれは追いつかれてしまうでしょう」

 湯浴みの支度を手伝いながら、エクリティスは笑いを交えて言った。

「追いつき、追い越して欲しいと願うのが親心というものだ。だが、危険な方に向かうのはわたしに任せておいてもらいたいものだな。秀でた王の臣、優れた領主になって欲しいが、同時に、安寧に穏やかに生きて欲しい、というのは矛盾した願いだろうか?」
「矛盾はしていませんが、なかなかにそれが叶うのが難しいのが人の世でございますよ」

 アルフォンスの脱いだ衣服をまとめながら、苦笑してエクリティスは応える。

「そうか……」

 天幕に囲まれた湯船に浸かると、血も穢れも落とそうとアルフォンスは頭のてっぺんまで湯に潜った。温かな湯が、強ばった身体を芯からほぐしてくれるようだ。黄金色の髪が、光の華のようにふわりと湯の上に広がった。

「そのままお眠りにならないで下さいね」

 と、室の脇に控えたエクリティスが声をかけた。





「イルムは、首をちょーんって飛ばされちゃいましたよ?」

 同刻。王都から遠く離れたアルマヴィラの某所にて、一人の青年が言った。距離のある王都で起こった出来事も、配下の一人一人に埋め込んだ禁呪の鎖のおかげで、全てを知る事は出来ずとも、配下が最期に見たものや生死については、鎖を手繰って見る事が出来る。ふざけた物言いでアルフォンスが首を刎ねた男の末路を語った青年の容貌は整い、黄金色の髪と瞳を持っている。ルーン家とヴィーン家の直系に近い者だけが持つ色。傍系にも現れる事はあるが、直系から遠くなるにつれ、それが発現する確率は低くなってゆく。同じ時期に生きる者としては、百人足らずというところか。

「奴め、調子に乗りすぎたのだ。まぁ仕方がない。あの程度の者はいくらも替えがきく」

 青年の言葉に答えたのは、薄いカーテンの向こうに微動だにせず座している人物である。その声はくぐもり、男女の別もつきがたい。

「あれも一応、私の義理の甥だったんですけどね。まぁ甥なのに年上で、偉そうにしてる割には使えない奴だったけど。で、どうします~? 警告を無視して敵対したルーン公、『取り替え』ちゃいますか~?」

 笑いを含んだ声音で青年が問う。対して、カーテンの向こうの人物は不機嫌そうに、

「下らぬことを。あれはこれまでのルーン公とは違う。アルフォンス・ルーンは、ずっとずっと、我が待ち望んだ器なのだ。灸は据えねばならぬが、消すなどもってのほか。知っておる癖に」
「ファルシスでもいいじゃないですか~?」
「……あれについてはよく判らぬ。思わぬ要素が入り過ぎて」
「聖炎の神子の血が入ったこと、双子で生まれたこと?」
「そうだ。あの存在は我にもしかとは読めぬ。今のうちに妹共々消した方がよいのか、生かして取り込んだ方がよいのか、まだはっきりせぬ……」
「貴方様にもわからない事があるんですか~」
「当たり前だ、こんな不自由な存在になって……力の千分の一も出せぬ」

 苛立たしげにカーテンの向こうの声は呻いた。

「強運を持った前国王がいなくなり、ようやく、宿願を果たす時が来た。ぬるま湯に浸かったような時代は終わりだ。アルフォンスが如何に足掻こうと無駄なこと」
「せいぜい華麗に足掻いて目を楽しませて欲しいものですね」

 くすりと笑って青年は呟いた。『ルルアの子ら』と名乗る組織の中枢……慈悲深き光の神の代行者を自認する者達の会話には、他者を思う気持ちは欠片も入っていなかった。
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