炎獄の娘

37・無邪気な目覚め

 晴天に恵まれた朝、ルーン公邸で最も爽やかな目覚めを迎えたのは、ユーリンダだった。

「うぅん……よく眠ったわ……」
「姫さま、お目覚めでございますか。どこもどうもございませんか」

 傍の椅子でうとうとと微睡んでいた乳母のマルタが、ユーリンダの目覚めた気配にぱっと目を開け、にっこりして声をかけた。

「あらマルタ、そんな所で寝ていたの? どうしたの、いったい?」

 マルタが窓に近づいて上質の黄色い絹織物のカーテンを開き、朝の空気を室内に入れようと窓を開けると、ふわりと朝日の香りを漂わせるような風が入ってきて、白いレースのカーテンを揺らし、朝の光は純白の夜着をまとったユーリンダを柔らかく包んだ。

「まぁ姫さま、昨夜のこと、覚えていらっしゃらないんですか? 舞踏会の途中でお倒れになったんですから、そりゃあ心配致しますよ。でも、お元気そうでお顔の色もとても良くなられたようでございますね」
「そうね、たくさん寝たから元気が出たわ。これからまだいくらでも踊れそうなくらい。……なのに、ああ、舞踏会の途中で帰って来ちゃったのね、私。アトラともっと踊りたかった……」

 ユーリンダの言葉に乳母は、そうでございますね、と微妙な笑顔で応える。生まれた時から傍について見守ってきた少女の、従兄への純真な想いは、はっきりと言葉にされずとも、彼女が子どもの頃から気づいていた。だが、ユーリンダの想いが叶うのかどうか、それが幸せな結末を迎えるのかは乳母には判らない。アトラウスは常に優しく紳士的にユーリンダに接しているが、中年女のマルタから見ると、ユーリンダとは対極的に、どうも十代の初な若者が恋の喜びに溺れている、といった感じはしない。

(賢明な若君だから勿論、姫さまみたいに誰が見ても解るような態度はおとりにはならないだろうけど……)

 昨夜は、体調を崩したユーリンダを、アトラウスとマルタで介抱しながら馬車に乗せ、護衛の騎士達に護られて帰途についた。マルタには、アトラウスがきちんと計算した距離をとりながらユーリンダを案じ、優しい言葉をかけているように見えた。

(もし、おかしな素振りがあるとか、あたしが殿さまに言いつけるかもと考えてらっしゃっての事なら心外だわ。あたしはいつだって第一に姫さまの幸せを祈っているんだから)

 アトラウスは不幸な生い立ちの故か、常に控えめな態度をとり続けてきた。いくらアルフォンスが嫡男のファルシスの兄弟のように扱い続けてきても、全くそれで増長する事もなく、むしろ自分は影の存在でありたいと願っているようにも見えた。マルタは今でも、アルフォンスが、がりがりに痩せこけて鞭のあとのある幼子を連れて帰って来た日の事をはっきりと覚えている。最初は、ルーン公の実の甥だとは思いもしなかったが、それでも、態度も言葉遣いも立派な貴族の子弟であるのに、双子と笑い合いながらもふと怯えた表情を習慣のように浮かべる子どもが哀れでならず、この館で預かるのならば腕によりをかけておいしいものを食べさせて、年相応の子どものように屈託なく過ごせるように接しよう、と心に決めたものだった。その後で、アトラウスの生母シルヴィアの惨死とその経緯を知り、暫くアルマヴィラのルーン公私邸に滞在した彼を、その期間は他の何よりも優先して扱い、心の傷がそう簡単には癒えずとも少しでも力になれたらと努めた。色んな事があった時だったから、アトラウスはそんな事は気にもとめずにいてすっかり忘れているかも知れないが。

「マルタ、どうしたの、さっきから黙って、悲しそうになったり怒ったようになったり?」

 寝台から下りながらユーリンダが怪訝そうに声をかける。

「あらいやだ、怒ってなんかおりません。ちょっと昔の事を思い出していただけですよ」

 マルタは笑顔を作ってみせる。ユーリンダは安心する。彼女は何よりもひとの笑顔が好きなのだ。たとえ表面上のものであっても、笑顔は幸福を運んでくるのだ、というのが彼女の主張である。それに、近しい人たちは彼女に偽物の笑顔を向けたりはしない、と信じ込んでいた。

「昨晩、アトラは私を送ってくれたわね。あれからずっとお部屋にいるのかしら?」

 王宮に近い一等地のアリア大通りの区画に建てられた広大なルーン公邸には、アルフォンスとその家族だけでなく、カルシスとその家族など近親の為の部屋も設えられている。王都へ来る事自体が今回初めてだったユーリンダは、恋しいアトラウスと同じ屋根の下で眠るというだけで胸をときめかせていた。勿論、父の目を盗んで夜に逢いにゆこうとか、来て欲しいなどという考えは微塵もない。彼女の恋の知識は、お伽噺に出てくる王子と王女のように、抱き締め合って口づけを交わすところまでであり、それでさえも、結婚を約束した男女がする事であると思っているのだから。

 アトラウスがいつも優しく、他の女性よりも丁寧に扱ってくれるから、ユーリンダは自分が好かれていないとは微塵も思っていない。彼女はいつも他人の幸福を願い、この世に大きな悪意が存在する事を知識としてしか知らない程に父公爵に護られて育ってきた箱入り娘である。その分、自分の幸福もまた、信じて疑わない。自分がアトラウスを大好きな分だけアトラウスも自分を大好きで、やがては結婚を申し込んでくれるものと夢見ている。貴族の娘の結婚を決めるのは父親だという常識は持っているが、今まで本当に大事なお願いは必ず叶えてくれた父が反対するとは全く思っていない。そして、恋する乙女に必ずついて回る、相手の気持ちを疑い不安になる心は、言い交わした訳でもないのにろくに持ち合わせていないという、大変幸福な娘でもあった。だから乳母が、

「いいえ、姫さまがお眠りになられた後はまた舞踏会にお戻りになられましたよ。勿論、夜半過ぎにはファルシスさまと一緒にお戻りでしたが」

 と告げると、心外そうな顔になり、

「まあ……じゃあ、私が眠っている間に、他の令嬢と踊っていたというの……」

 と呟く。同じ年頃の貴族の令嬢なら誰しも、あのような一生に一度あるかないかの盛大な会ならば、想いびとが出世に繋がるように社交をこなす事を望むのが当たり前であるのに、ユーリンダには、そんな社交などどうでもいいように思われた。自分はいずれ母の跡を継いで聖炎の神子となり、アトラウスは叔父の領地を継いで、自分の夫としてルーン公となる兄ファルシスを補佐する……その完璧な未来に、王都での社交なんてさして必要なものとは思えなかった。そんなものを、具合の悪い自分より優先した事にがっかりし、そして自分が踊れなかった分、他の令嬢と踊ったであろうという想像に、彼女としては珍しく少しばかり気分を害していた。

 一方、乳母は、ユーリンダの表情から、その思考がほぼ読める。恋人同士でもないのに気持ちの上でそこまで束縛されるアトラウスに少々の同情を覚えたが、基本的にユーリンダ贔屓なので、

「まぁまぁ、踊るばかりでなく色々とお偉い方とお付き合いなさるのが、ルーン公爵殿下のお身内としてのお務めだとお考えになられたのだと思いますよ。戻って来てファルシスさまと同じようになさるよう、殿さまからのお言葉があったのかも知れませんし」

 と、貴族の娘としての心得を説くよりもむしろ、駄々っ子を宥めるような物言いで取りなした。だがこの台詞は乳母の思惑から外れ、逆効果となる。

「ファルと一緒なんて! ファルは、女の子を『取っ替え引っ替え』するじゃあないの。私はファルの事大好きだけれど、それだけはおかしいと思うのよ」

 その若さに似合わず、ファルシスの女性の扱いの巧さ、後に引かない女遊びの達人として、故郷アルマヴィラでも王都でも一定の評判を得ている。これだけが父親とは正反対と言われる部分でもある。流石に世事に疎いユーリンダの耳にもこんな噂は否応なしに周りの貴族令嬢の口から入ってくる。『女遊び』という言葉が具体的に何を指すのか解っている訳ではないが、ファルシスの恋人、と言われる女性が数月おきに替わっていく事くらいは見ていれば判る。一度、そんな事よくないわ、と意見した事があったが、その時兄が常にない程冷ややかに、おまえには関係ないだろ、と言って不機嫌そうな様子になったので、幼い子どもの頃のような気安い口喧嘩には出来ない話題なのだと感じられ、そのまま過ぎている。だが、アトラウスがそんな兄と同じようになるなんて冗談じゃあないわ、と思った。

「あらまぁ、そんな意味での一緒ではありませんよ。アトラウスさまが女性に対してとても……殿さまと同じように真面目でいらっしゃるのは誰もが知っている事でございますよ。そういう所だけは、ファルシスさまはカルシスさまに、アトラウスさまは殿さまに似られたのかしら……っなんて、余計な事でございますね」

 ユーリンダの思わぬ憤りに乳母は笑いながら返した。軽い気持ちで口を滑らせた彼女の言葉をファルシスが聞いたなら、憤慨しただろう。カルシスは、正妃が「私に構わないでいて下さるなら、どうぞあなたの好きなようになさって下さい」という言葉を残して引きこもっているのをいい事に、愛妾を幾人か侍らせていい気になっているが、その愛妾達は皆、見目が少々良いばかりの、元々大した知性も身分もない金目当ての女ばかりであり、ファルシスの洗練された好みや遊び方とはまるで異なるものだからだ。

「そう……? そうよね、アトラのそんな噂なんか聞いた事ないもの。そうか、アトラはお父さまをお手本にしているのね、きっと。お父さまは生まれてから一生涯、お母さま以外の女の方には目をくれる事もなさらないようなお方だもの。ファルも少しは見習えばいいのに」

 ……もしアルフォンスが愛娘のこの言葉を聞いたら、昨夜のスザナとの事を思い出して耳の痛い気分になったかも知れない。それに、アルフォンスは類を見ない愛妻家で、カレリンダと恋に落ちて以来、ひとたびも他の女性と関係をもった事はないのは事実ではあるが、シルヴィアと婚約するまでの間に誰とも何もなかった訳ではない。だが幸いアルフォンスはここにはおらず、自室で泥のような眠りにおちている最中であったので、おかしな返答をしたりして娘の尊敬を失うような事態は避けられた。



 ユーリンダは微笑んで窓辺へ寄った。昨日の悪夢の事を忘れた訳ではないが、それがルルアの預言であるとは彼女自身は知らないので、夢は単なる夢であり、現実には何ひとつ悪い事などないように思われた。朝日が彼女の黄金色の髪をきらきらと輝かせ、芸術的に整った細面を縁取った。マルタは自分が手塩にかけた公女の美しさに、見慣れたものではあるが思わず目を細めた。
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