炎獄の娘

40・見舞客-3

「そういう訳で、こいつは私に尽くしてくれるのです。私もこいつには本当に心を許せるんですよ。兄たちからは、宮廷での出世に興味を持たない私は馬鹿にされていますから、実のところ、本当の兄弟よりもずっと安心して話す事が出来る」
「まぁ、素敵な絆なんですわね!」

 自慢げに話すティラールに対し、フィリアはうっとりした様子で言う。だがファルシスは、質問への答えを終えて一歩下がった従者の方をじっと観察していた。浅黒い肌の若者の顔には、何の感情も浮かんでいない。しかし確かに、彼は運が良かったのだろう。南部諸島から連れて来られた奴隷のうち、特に幼い子どもや老人は、消耗品のように扱われて死んでしまう者も多いと聞く。


 以前、その話を初めて聞いた時に、少年だったファルシスは心を痛め、父アルフォンスに、

『何故、この秩序正しくルルアに愛されるヴェルサリアで、そんな非道な行いがまかり通るのでしょうか? どうにかしてやれないのでしょうか、その哀れな者達を?』

 と尋ねてみた。アルフォンスは表情を曇らせ、

『わたしも幾度もヴェイヨン公に、いくら王国の臣民ではなくとも、人を売買するなどおかしいのではないか、ちゃんと賃金を払って働かせるようにすればよいのではないか、と意見してみたのだよ。しかし公は、昔からある制度で別に変える必要などない、余計な口出しは無用、の一点張りでね……他家の領内で行われている事について、それ以上何かする権限はわたしにはない。国王陛下も暗黙の承認をなさっている事であるし』
『陛下にどうにかして頂く訳にはいかないのですか?』
『残念ながら、陛下にもこの問題に関してはあまりご興味がないご様子だった。ご不興を覚悟で申し上げてみた事があるのだが、そんな事はヴェイヨンに任せておけ、知らぬ、としか』

 前王は政治にも意欲的な良き統治者ではあったが、その興味はやはり主には対外的な事や王家直轄地の整備に向けられていたので、大貴族の自治領内での事については、それが王家に影響を及ぼす事でない限り、あまり口出しをしなかった。これは前王に限った事ではなく、建国以来の流れでもある。元は同等に鎬を削り合った八公国であったが故に、他の七公家がいくらヴェルサリア家に膝を屈して忠誠を誓ったといえども、それは各家が自治を許される、という条件付きでの決着であったので、いかな王でも、小さな事にいちいち干渉はしない、というのは歴史的な不文律でもあったのだ。

『そうですか……では、こういうのはどうでしょうか? 全ての者を救うのは無理でも、幾人かだけでも、ルーン家で買い取って、普通の身分にしてやるというのは?』

 しかし、ファルシスにとっては名案と思えたこの意見に、アルフォンスは賛同しなかった。

『ファル。勿論それは可能だ。だがね、何百、何千という人間が不遇に喘いでいるのに、そのうちの数人、数十人を救い得たとしても、それは真に良き事だろうか? わたしにはそうは思えない。救われた者は恐らくずっと、共に来られなかった知己を思って苦しむだろうし、救われなかった多くの者たちにとっては、一層運命の過酷さを思い知らせる事にもなるだろう。そうではなく、根本を変えなくては駄目なのだ。ジョーレイの事は、これ以上わたしには手の出しようがないし、代替わりしていくうちにヴェイヨン家が解決してくれるのを祈るしかない。だが、不幸な人間はジョーレイの奴隷だけだと思うか? そうではない。このアルマヴィラにだって、やはり貧困に喘ぐ民もいるのだよ』
『アルマヴィラにですか?!』

 その頃のファルシスはまだ、アルマヴィラの表の顔しか知らなかった。聖都であり、母カレリンダの灯す聖炎に護られ、民は皆良い服装をして治安も他の地方に比べればずっとよくて……。

『そうだ。確かに、聖都という性質上、よそに比べれば安定しているし、無論奴隷などというものはいない。だが、全ての民が飢えも病も知らない訳ではない。裏通り、おまえの行った事のない下層の民が住む裏町に行けば、物乞いをして細々生きている孤児もいるし、金がない為に薬を買えずに、助かる命を病に奪われる者もいる。わたしはまず、そうした人々を救う事を考えている。全ての民がその能力に見合った仕事に就けるようにする事は勿論だが、そうした力もない、孤児や病人を等しく救済できるような制度……そんなものを整えられるよう、この数年、準備してきているんだよ』

 そうして、それから数ヶ月後に、王国初の救護院がアルマヴィラに誕生した。食べる手段、生きる手段のない者がそこへ行って申請すれば、子どもならば食べ物と教育を、病人ならば薬を、健康な大人ならば仕事を与えられるのである。
 こうした父のやり方を見て育ったファルシスには、奴隷の子どもをひとり救ったと言って自慢げなティラールも、それに感動する妹やフィリアも、愚かに思えてならなかった。救ったと言っても、子どもだったティラールが己の力で救った筈もなく、父バロック公におねだりでもしたのだろう。心映えは悪くはない。だが、それで満足していいのだろうか? ザハドという従者はティラールに感謝し、忠誠を誓っているのだろうが……。


「良いお話を聞かせて頂きました。それで、ザハド殿のご家族はどうしていらっしゃるのですか?」

 意地悪くファルシスはティラールに問うてみた。そこまで考えているのか確かめてみたかったのだ。だがティラールはただ、何故そんな事に興味を持つのだろうかというような意外そうな表情を浮かべて、

「ザハドの家族ですか? いや、それは、以前に一度、こいつが探したいと言うので探しに行かせましたが、結局消息はわからなかったのですよ」

 と答える。背後に立つザハドの表情は微塵も動かなかった。

「きっと、同じように誰かに救われている筈よ。ルルアのお導きがあればいつか再会できるわ」

 ユーリンダが能天気な事を言う。ユーリンダに微笑みかけられて、ザハドは、ありがとうございます、と頭を下げた。このやり取りにファルシスはまた苛立つ。バロック家に仕える者として探しに行ったのに見つからなかったのならば、その時点でザハドは家族の生存を諦めた事だろうに……。だがフィリアも横から同調して、その通りよ、などと言っている。急にファルシスは、こんな質問をしてザハドに悪かった、という気分になった。同時に、思慮の浅い妹の夫が、同じように視野の狭いティラールでは、ルーン家の為にならないだろうとも思った。


「ところで、フィリア姫とティラール殿が並んでいらっしゃると、美男美女でとても目の保養になりますよ」

 取りあえずティラールは善良な人間であるようには見える。だったら、幼馴染みのフィリアが彼に焦がれているのなら、その想いが叶えば何もかもうまくいくのではないかと思って、ファルシスはそんな言葉を口にした。フィリアは真っ赤になってそわそわし、

「何を仰るの、ファルシスったら!! 私なんか、ティラールさまと並んだら、ただの小娘にしか見えません」

 と謙遜する。

「そんな事ないわ、とてもお似合いよ」 

 と、フィリアの心を知ってか知らずか、ユーリンダも口添えする。フィリアはこれ以上なさそうな位嬉しそうな様子になった。ところがティラールは、

「何を仰いますか、フィリア姫は私などより、ファルシス殿との方が余程お似合いですぞ。美男美女、幼馴染みで気心も知れてらっしゃる間柄」

 と、やや憮然として切り返し、ついで、ユーリンダに向き直り、

「そしてユーリンダ姫と私ではいかがでしょうか?」

 と遂にはっきりと想いを口にした。


「まぁ……」

 喜んだのも一転、フィリアは泣きそうな顔になる。美しさではユーリンダには敵わないと昔から何度も自分で言っているし、客観的に見ても余程好みが偏っていない限り、事実である。ティラールのユーリンダに対する気持ちに今初めて気付いたらしく、みるみる青ざめていった。これにはファルシスも可哀相に思って、何か取りなしをと思ったが、それより先にユーリンダが口を切った。

「私は世間知らずの田舎者。宮廷で作法を身につけたフィリアの方が、お洒落なティラールさまには余程お似合いですわ」

 言葉は柔らかかったが、口調からは、親友を傷つけたティラールに対する怒りが滲み出ていた。フィリアの嘆きようとティラールの言葉で、ようやく彼女も状況を呑み込んだのだ。

「お怒りにならないで下さい。それにフィリア姫を傷つけてしまったのならば大変申し訳ありませんでした。フィリア姫は大変チャーミングで、今回王都へ来るまでに出会ったどんな女性よりも魅力的です。だから、光り輝くようなファルシス公子とお似合いでは、と申し上げたまでです」

 数々の女性との間に浮き名を流した男であるので、ティラールはこれしきの事では動じない。歯の浮くような台詞で堂々とフィリアを慰める。フィリアの顔に希望の光が走った。だがすぐにティラールは言った。

「ユーリンダ姫と出会わなければ、私はきっとあなたの虜になり、ファルシス殿に渡そうなどとは思わなかったでしょう。しかし、こういう事ははっきりしておかなければ、お互いの為にならない、と私は思うのです。どうかお許し下さい、フィリア姫。私をぶって下さっても構いません。しかし、ユーリンダ姫に出会った瞬間から、私の目には他の全ての女性は、フィリア姫程に魅力的な方であってさえ、霞んでしまったのです。ユーリンダ姫、あなたこそ私の女神……私の思いを受け入れて頂けませんか?」

 フィリアはわなわなと震えたが、

「何故私がティラール様をぶつなどと……? まぁ、勿論、ティラール様とユーリンダならばとても……とてもお似合いですわ」

 と涙声ながらしっかりと言った。ファルシスはフィリアを見直した。確かに、如何に誰が見てもティラールを慕っているのは明らかであっても、それを言葉にした訳ではないので、見苦しく泣いたりせずに今の言葉を放った事で、充分に彼女の矜持は保たれた。流石に宮廷で様々な事を見聞きしてきただけの事はあり、事実をすぐに受け入れ、頭を上げて涙が零れぬよう努力していた。
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