炎獄の娘
「シルヴィアに会わせてくれ。伏せっているというのも偽りだろう。アトラウスと同じように、監禁しているんだな?」
 子どもたちが執事に連れられて庭園に出て行くのを見届けてから、語気強くアルフォンスは弟に詰め寄った。
「まあな、出産で身体がおかしくなったというのは嘘さ。奴はぴんぴんしている。だけど、不貞を行った妻を、好きなようにさせておく訳にもいかないだろ?」
 やけくそになったようにカルシスは答えた。
「不貞不貞と言うが、証拠はあるのか?」
「証拠だと? あの黒髪のがきが何よりの証拠だろうが」
「ルーン家の始祖アルマの両親は普通の黒髪と黒目だった。だから、現在のルーン家にも、そういう者が生まれる可能性はあるかも知れない。実際、そういう者がいたと、子供の頃に聞いたような覚えがある」
 自分の言葉が弟にどのような効果を与えるか、考えながらアルフォンスはゆっくりと言った。だが、カルシスは皮肉っぽく笑って首を振った。
「ふん、いくら馬鹿な俺だって、それくらいは思いついたさ。可能性は低いと思ったが、大神官に世間話のついでに尋ねてみた。大神官は、そんな話は聞いたことがないと言った。大神官が言うのだから間違いないだろう?」
「それは……しかし、きちんと記録を調べた上でないなら……」
「そんなことが過去にあったなら、大神官が知らない訳はない。お偉いルーン公爵は、自分のがきの頃の曖昧な記憶の方が、ルルア大神官様より正しい、と仰るのかね?」
「そういうつもりはないが……」
 さすがにそう言われては、アルフォンスも言葉に詰まった。帰って自分で記録を調べてみない事には、これ以上ここで議論しても答えが出る筈もない。しかし、母子を放って帰る訳にもいかない。このままでは、アトラウスはまた監禁され、折檻されるだろう。
「とにかくシルヴィアに会わせてくれ。今更隠すこともないし、病でもないのなら問題ないだろう? 彼女と直に話をするまで、わたしはここを動かないからな」
 アルフォンスは凛と言い放った。カルシスは思わず舌打ちをした。理不尽と感じた事は正さずにはいられないこの兄がこう言い出せば、もうあとには引かない事は、これまでの経験から充分学んできたことだったからだ。
「……連れて来い」
 固唾をのんで成り行きを窺っていた執事に不機嫌な声でカルシスは命じた。

 やがて、侍女に支えられながら、シルヴィア・ルーンが応接室に姿を現した。
病身ではないが、滅多に自室から出る事がないので、体力が衰えて立ち居振る舞いが弱々しい。アルフォンスにとって約五年ぶりに会う彼女は、まだ二十代前半とは思えぬくらいやつれ果てていた。それでも、黄金の髪をきちんと結い上げ、型は流行遅れだが上質の絹の黄色いガウンを纏い、伯爵夫人としての矜恃を保ち、客人をもてなそうとしているように見えた。
「お久しぶりでございます、アルフォンスさま……」
 しかし、今は過去のものとなったとはいえ、少女の頃からの想いを寄せていた人、昔と変わらぬ凛々しく優雅な若者であるアルフォンスの貌を見た途端、彼女のなけなしの理性は崩折れた。
「アルフォンスさまっ!! わたくし……!!」
 シルヴィアの黄金の瞳に涙の粒が浮かび、弾けた。
「済まない、シルヴィア、貴女の苦境に気づかず、貴女をここまで追い詰めて……」
 アルフォンスの目にも思わず涙が滲んでいた。決して嫌って別れた訳ではない彼女。カレリンダと激しい恋に落ちるまでは、穏やかで優しいシルヴィアと幸福な家庭を営めると信じていたし、カレリンダと出会わなければ恐らく本当にそうなっていただろう。だが、カレリンダの愛は若きアルフォンスに、シルヴィアへの感情は恋愛ではなく、家族に対するような静かな友愛だと気づかせてしまった。
『シルヴィアに何の不足があるというのだ! 我が儘などそなたらしくもない。そなたの妻はシルヴィアと何年も前から決まっておる。いい加減に諦めろ、カレリンダは駄目だ!』
 父から何度も諭され、叱られ、時には殴られた。我が儘など、物心ついて以来言った事もなかった模範的な少年の思わぬ反抗に、父親は衝撃と戸惑いを隠せなかった。だが、苦悩していたのは本人も同じだった。カレリンダとの愛を貫けば、シルヴィアの名誉も心も手ひどく傷つける事になってしまう。それだけはしたくなかった。貴族の結婚に恋愛感情など必要ない。シルヴィアが嫌いな相手であるならともかく、好意も敬意も持てる相手であるのに、あえてカレリンダを選ぶのは間違いではないのか……そうした迷いに終止符をうってくれたのが、シルヴィアだった。非のうちどころのない許婚を心から愛し、彼との未来を夢見ていた少女が、彼の心中を見抜き、言ったのだ。
『アルフォンスさま、我慢してわたくしを娶って頂かなくて結構ですわ。ひとの言いなりで道を決めるような方の妻になど、わたくし、なりたくありません』
 細い肩は震え、泣かないように、懸命に歯を食いしばっていた。本当は、「我慢などしていない、きみを愛している」と言って欲しい……そんな想いを持ちながらもこの言葉を告げるのに、どれ程の覚悟が要っただろう。
『済まない……ありがとう、シルヴィア……』
 そうとしか言えないアルフォンスは、こんなにこのひとを苦しめた罰がいつか自分に下るだろう、と思っていた。

 娘の名誉を傷つけられたシルヴィアの親は、代わりに弟の方へ縁づけさせるよう求めてきた。次期領主の妃の座を約束されていたのに、出来が悪いと評判の次男の方になってしまうのだから、シルヴィアの親としては大いに不服であるし、最大限の譲歩であった。アルフォンスの父はこれを断る訳にはいかない。
 弟にシルヴィアを幸福にできるのか、アルフォンスは不安に思った。だが、本人同士も了承、となれば口を挟む筋合いもない。
『ぼくが言える事ではないけど、どうかシルヴィアを大事にしてあげて欲しい』
 アルフォンスの言葉に、カルシスはにやりとした。兄が頭を下げてきたのが嬉しかったのだ。
『わかっているさ。あんたのお下がりをもらってやるんだから、これは貸しだぜ、兄さん』
『……! お下がりなどと言うな! 彼女を侮辱するようなことは……』
『怒るなよ。おれの妻になってよかったと思わせるように、大事に扱うよ。あいつは分家の筆頭の血筋だからな。おれにはもっと格下の女だろうと思っていたのに、幸運さ。兄さんの子どもより出来のいい子どもを産んでくれるかも知れないぞ』
 愉快そうにカルシスは言ったものだった。彼は、僻みっぽい性格から偽悪的な物言いが多い。それはアルフォンスを不快に、不安にさせ、その事がまたカルシスを喜ばせる。歪んだ兄弟仲だった。
 だが、幸運だ、と言ったのは本心だった。理由はシルヴィアの血筋だけではない。誰一人気づきもしなかった事だが、以前から彼は密かにシルヴィアに淡い好意を抱いていたのだ。
 こうした事があって、アルフォンスを不安にさせたふたりの結婚は、意外にもうまくいった。ひねくれ屋のカルシスは当初、どうせおまえは兄さんの妻になりたかったのだろう、と言ってシルヴィアに当たりもしたが、シルヴィアは優しく微笑んで、カルシスさまの妻にして頂けて幸福です、と言い続けたのだ。生真面目なシルヴィアは、アルフォンスが幸福になったのだから自分も幸福だ、と自分に言い聞かせ続ける事でかつての許婚への想いを克服し、そしてかれによく似た笑顔をごくたまに見せてくれる夫の傍にいられる事を幸福だと思えるようになっていたのだ。
 シルヴィアは、何を言っても従順に受けて、笑顔を見せてくれる。夫として敬愛する気持ちを隠さない、真っ直ぐな瞳で見つめてくれる。カルシスは今まで、そんな相手に出会った事がなかった。いつも優秀な兄と比較され、陰で嘲笑されるばかり。親にも、不出来と思い込まれている。そんな境遇で初めて得た、自分だけを崇めてくれるひとが、いつも傍にいてくれる。その毎日の繰り返しは、遂に、頑なに閉ざされていたカルシスの心の扉を開けて光を灯すことに成功した。
 新婚家庭の晩餐に招かれたアルフォンスは、それまで見た事もない朗らかな弟の笑顔と、柔らかく微笑んで寄り添うシルヴィアの姿に、ルルアのお導きとはいかに偉大かと、深く感謝したものだった。
 数ヶ月後、愛妻の懐妊にますますカルシスは舞い上がっていた。周囲の人々にも愛想良く接し、一層妻の尊敬を得ようと、様々な事に努力を重ねるようになった彼の評価は、元々はアルフォンスによく似た容姿である事も手伝って、良い弟君、と褒められるまでになってきた。何もかもが順調だった。
「今夜には産まれそうなんだ、兄さん。無事に産まれたら使いを出すから、赤ん坊の顔を見に来てやってくれよな!」
 快活にそう言って帰宅したカルシス。それが、彼の笑顔を見た最後だった。翌日も翌々日も、待てども使いが来ることはなかった。
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