彼岸桜
ただただお稽古が好きだった。一つ一つの手をなぞりながら踊る時、嫌なことも楽しいことも忘れて時間が過ぎていき、あ!と気付くと長い夢から覚めたような思いで、日常に戻っていく。勉強もそこそこ、仕事も一生懸命はやるけど、彼女にとっての踊りは人生の別腹で、踊りに人生の半分を預けて、そうやってこの60年を生きてきたのだ。
二十・・・一、二?そう、22歳だった。あの時は何を踊ったんだったかしら?楽屋の鏡に彼の姿が映った時のことを良く覚えている。楽屋の浴衣の抜いた衿を急いで正して、その時彼がふと目をそらしたその瞬間の表情。遠くから聞こえる三味線と鳴り物をかき消すようにざわつく楽屋の忙しさや、鬢付け油の匂い。
何となくまっすぐに彼を見ることが出来なくて、うつむいてお辞儀をしたとき、「おめでとうございます」(注1)と低い声で彼が言って、その声の少し掠れた感じとか、良く知っている銀座の小物屋さんの包装紙に包まれた薄い箱を差し出した彼の指や爪の形や、まるで昨日のことのように思い出すことが出来る。
注1:伝統芸能の世界で特に舞台に立つ人に向かって「(無事に幕が開きまして)おめでとうございます」という挨拶。