彼岸桜


いつもよりも丹念に帯を締めて、帯揚げの淡い色を見つめていると、やはりあの時の楽屋での彼の様子が思い出されて、その思い出の紐の一端が次から次へと思い出を手繰り寄せてくる。

ダンスホールで動いた彼の唇がなんと言っていたのか、今なら分かる気がするのになぜあの時は音楽にかき消されてしまったのか?柿の葉が落ちる路地を歩きながら彼の語った昔話や、洋館の前を通ったとき憧れた未来。素敵なジャズが流れる喫茶店から見下ろした通りに行き交う人々と、すくったアイスクリームの甘さ。遠い国の絵葉書を飾った画材屋のウィンドーを覗いた時、自分を見つめている彼がガラス越しに見えた。

今なら分かる、そのどれもこれもが遠まわしに彼の自分への愛情を告げていたのに、若かった自分にはただロマンチックなだけの小説の中の言葉のように、あるいは、その物語の主人公は自分なのではなく、二人でまっすぐに映画を観ているかのように、こうして生きてきてしまえばほんとうに短い時が過ぎたのだった。

帯揚げをくれた会の後も何度か彼は踊りの会に足を運んでくれたっけ。今の夫とロビーで鉢合わせするまでの何回か。そして自分はその時の二人を見た訳でもないのに、なぜなのか、ロビーから劇場のドアの方へ向かう彼の後姿を、その背中をまざまざと脳裏に描く事が出来る。
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