ホットケーキ
第十一章 『大きな、一歩』
顔色が変わったのが自分でも分かった。頭に血が上ったが早いか、体中の血液という血液が全部心臓に集まって彼の心臓をバクバクと動かした。湖山に気付いたスタッフ達が口々に挨拶の声を掛けてくれているのに、彼は声を失っている自分にも気付かないほどだった。
「湖山さん?どうしました?」
「・・・!・・・あぁ、いや。」
荷物をテーブルに放りだして急いでトイレに駆け込んだ。バレたんじゃないか、いま、自分が彼女を見て赤くなったこと、皆が見てたんじゃないか。なんでココに彼女がいるんだ?彼女、だったろうか?似た人?いや、間違える訳ない。間違える訳がない。
男子トイレの個室に入って心臓がおさまるのを待った。「具合が悪かった事にしよう」と、ちょっとずつ落ち着いてくると個室を出た。汗をかいた手を洗って打ち合わせの部屋に戻って行った。
「…という訳なので上山の代理、菅生(すごう)です。一年半の予定です。宜しくお願いします。菅生さん、こちらがカメラマンの湖山さんと、湖山さんの右腕で大沢さん。」
「宜しくお願いします」
初々しく丁寧に頭を下げる彼女はやっぱり可愛らしかった。
「宜しくお願いしまーす!」「よろしくお願いします」
大沢くんの元気な声にかき消されて聞こえなかったかもしれない。でも、「よろしくおねがいします。」というその一言を心を込めて声にした湖山は、そんなただの挨拶の一言でも彼女に向かって自分の心を伝えたと思えるその満足感で自然と笑みがこぼれてくるのを抑えられなかった。
準備台の前で確認作業をしている立ち姿、引継ぎの打ち合わせをメモしている横顔、果てはカメラを構えている自分の後ろを歩くスニーカーの音。浮き足立った気持ちで始まった撮影は珍しく行程表にズレが生じた出だしだったが、彼はファインダーを覗きながら次第にいつもの自分を取り戻して行った。仕事に集中し始めると何も気にならなくなる。行程表とのズレを見ながらもくもくと、淡々と写真を撮った。大沢くんがいつものようににこやかに冗談を言っている。それでも、湖山が思うレフ板の位置、湖山が思う照明の向き、ほんの少しの違いを湖山が発する何から感じ取るのか、それとも単純にともに過ごしてきた年月から分かる何かだろうか、湖山が仕事に集中し始めた事も察したように彼も熱心に行程表を追いかけていった。
大分遅れたが無事撮影を終えると、親睦会をかねて一緒に行かないかと飲みに誘われた。こんなチャンスを逃す訳にはいかない。どうせ大沢くんと夕飯を食べて帰ろうと思っていたのだ。親睦会というからには彼女だって少しは出るのだろう。屋上で見かけたあの日の彼女、それからはひと月に一度だけほんの数秒やほんの数分を惜しみながら眺めるだけだった一年と数ヶ月を思うと、彼女と同じテーブルを囲むだけでもまたとない十分大きな進歩だった。
薄黄色い電灯の下にテーブルを囲むみんなの好みが様々に並び楽しい。属している組織は違うけれど、あるひとつのものを作り上げるチームとしてこの仲間を大事に思う。かつてこのチームにいた人たちといまこのチームで活躍する人たちの逸話、チームの失敗や成功、年に2度あるかないかのこんな席で必ず誰かが語りだすくだらない伝説。「談笑」という言葉はこんな時間のためにあるんだろうといつも思う。
初めて聞く話の数々に耳を傾け、驚いたり笑ったりする菅生さんを、湖山は新鮮な気持ちで眺めた。さりげなく、さりげなく、できるだけさりげなく菅生さんを観察する。もう慣れたものだ。
教科書を読むようにメニューを眺める表情。
隣の人が見ているドリンクリストを覗き込む時の体の傾き加減。
箸を置く時に手を添える様や、何か訊ねられたときに右手を小さく挙げる仕草。
低くなり高くなる声。笑い方。少し仲が良い人と話すときの口調、他の人と話すときの口調。
何のご褒美だろう。このひと時に惜しみなく与えられた、目の前で動き喋る彼女。どうしようもなく嬉しい。どうしようもなく楽しい。小学生の頃、キャンプファイヤーのフォークダンスで好きな子と手を繋げたときと同じ興奮を覚えた。
「湖山さん?どうしました?」
「・・・!・・・あぁ、いや。」
荷物をテーブルに放りだして急いでトイレに駆け込んだ。バレたんじゃないか、いま、自分が彼女を見て赤くなったこと、皆が見てたんじゃないか。なんでココに彼女がいるんだ?彼女、だったろうか?似た人?いや、間違える訳ない。間違える訳がない。
男子トイレの個室に入って心臓がおさまるのを待った。「具合が悪かった事にしよう」と、ちょっとずつ落ち着いてくると個室を出た。汗をかいた手を洗って打ち合わせの部屋に戻って行った。
「…という訳なので上山の代理、菅生(すごう)です。一年半の予定です。宜しくお願いします。菅生さん、こちらがカメラマンの湖山さんと、湖山さんの右腕で大沢さん。」
「宜しくお願いします」
初々しく丁寧に頭を下げる彼女はやっぱり可愛らしかった。
「宜しくお願いしまーす!」「よろしくお願いします」
大沢くんの元気な声にかき消されて聞こえなかったかもしれない。でも、「よろしくおねがいします。」というその一言を心を込めて声にした湖山は、そんなただの挨拶の一言でも彼女に向かって自分の心を伝えたと思えるその満足感で自然と笑みがこぼれてくるのを抑えられなかった。
準備台の前で確認作業をしている立ち姿、引継ぎの打ち合わせをメモしている横顔、果てはカメラを構えている自分の後ろを歩くスニーカーの音。浮き足立った気持ちで始まった撮影は珍しく行程表にズレが生じた出だしだったが、彼はファインダーを覗きながら次第にいつもの自分を取り戻して行った。仕事に集中し始めると何も気にならなくなる。行程表とのズレを見ながらもくもくと、淡々と写真を撮った。大沢くんがいつものようににこやかに冗談を言っている。それでも、湖山が思うレフ板の位置、湖山が思う照明の向き、ほんの少しの違いを湖山が発する何から感じ取るのか、それとも単純にともに過ごしてきた年月から分かる何かだろうか、湖山が仕事に集中し始めた事も察したように彼も熱心に行程表を追いかけていった。
大分遅れたが無事撮影を終えると、親睦会をかねて一緒に行かないかと飲みに誘われた。こんなチャンスを逃す訳にはいかない。どうせ大沢くんと夕飯を食べて帰ろうと思っていたのだ。親睦会というからには彼女だって少しは出るのだろう。屋上で見かけたあの日の彼女、それからはひと月に一度だけほんの数秒やほんの数分を惜しみながら眺めるだけだった一年と数ヶ月を思うと、彼女と同じテーブルを囲むだけでもまたとない十分大きな進歩だった。
薄黄色い電灯の下にテーブルを囲むみんなの好みが様々に並び楽しい。属している組織は違うけれど、あるひとつのものを作り上げるチームとしてこの仲間を大事に思う。かつてこのチームにいた人たちといまこのチームで活躍する人たちの逸話、チームの失敗や成功、年に2度あるかないかのこんな席で必ず誰かが語りだすくだらない伝説。「談笑」という言葉はこんな時間のためにあるんだろうといつも思う。
初めて聞く話の数々に耳を傾け、驚いたり笑ったりする菅生さんを、湖山は新鮮な気持ちで眺めた。さりげなく、さりげなく、できるだけさりげなく菅生さんを観察する。もう慣れたものだ。
教科書を読むようにメニューを眺める表情。
隣の人が見ているドリンクリストを覗き込む時の体の傾き加減。
箸を置く時に手を添える様や、何か訊ねられたときに右手を小さく挙げる仕草。
低くなり高くなる声。笑い方。少し仲が良い人と話すときの口調、他の人と話すときの口調。
何のご褒美だろう。このひと時に惜しみなく与えられた、目の前で動き喋る彼女。どうしようもなく嬉しい。どうしようもなく楽しい。小学生の頃、キャンプファイヤーのフォークダンスで好きな子と手を繋げたときと同じ興奮を覚えた。