ホットケーキ
第十二章 『小さな川』
ひと月に2度、会えるようになった。同じチームで仕事をするようになった気安さからか、事務所にROMを届けに行った時に交わす短い挨拶にも少しだけだが親しみがこもっているように感じる。
けして華やかではない。むしろ撮影の現場に入るときの彼女は動きやすい格好をしているせいでデスクワークをしている時よりももっと地味に見える。でも湖山は彼女がスタジオのどこにいても彼女を感じることが出来た。真面目に丁寧に仕事をしている彼女の姿が目に入ると、自然と優しい気持ちになって、カメラから、行程表から一瞬だけ目を離してしまうのだった。
そうかと思うと、不意に屋上にいた彼女を思い出したりする。彼女が男性スタッフと話しているときの身長差は仕事場ではないところにいる彼女を急に際立たせて湖山を不穏な気持ちにさせ、彼女は仕事場ではあんな風に笑わないけど、どこかで、そして誰かの前で、あんな風に笑うんだろうかと思うと自然と眉間に皺が寄った。
そんな風にして、ひと月に一度見ていただけでは想像することすらなかった湖山にも嬉しさや楽しさだけではない何かが訪れ始めた。チームに菅生さんを迎えるようになってから間もなくのことだった。
多分、ひと月に一度ちらりと彼女を見る位なら忘れた振りをすることもできた。彼女を一目見る事の嬉しさだけをことさらに思えばそれで良かったのだ。菅生さんは左手の薬指に指輪をしていない。先日の懇親会のときもそれとなく聞き耳を立てていたけれど、彼女の「プライベート」に関する話題には残念ながらならなかった。そして湖山が「もしかしたら」と少し淡い期待を抱いたとしてもそれは致し方ないことだった。
でも同時に胸のどこかで「忘れるな!」という声が聞こえる。それは、自分を守る声なのにどうしても従いたくない。でも聞こえないふりもできない。そうやって綯い交ぜになった想いが吹き零れてしまわぬ前にどうにかしなければいけない、できるだけ早めに。
冬将軍が訪れ始めた頃だったろうか。いや、クリスマスが近かった気がする。湖山はいつもの通り30分前、もしかしたらもう少し前ににスタジオに入った。少しでも長く同じ場所にいたいと思う。なんて健気な自分だろう。でもその日、彼女の姿が見えなかった。打ち合わせの部屋にも、撮影の準備をしているグループにもいない。今日はまだ入っていないのかな、と軽い気持ちでいたが彼女は打ち合わせが始まるギリギリに息せき切って現れて自分の席についたのだった。その様子が明らかに何か私用で突然に遅刻してきたらしいのを見たとき、彼は急に胸にざわざわとしたものを感じた。
菅生さんに何か都合があって遅れて現れたからといって行程に遅れが出そうだった訳ではない。準備が整っていなかった訳でもないし、とくに迷惑している訳ではないのに、なんでこんな些細な事に苛立ちを覚えているのか。それはちょうど細い川の流れの向こう岸に彼女がいて、もう少しで渡れそうなのに渡れない、でも橋や飛び石も無い、そんな苛立ちだった。彼自身がこの一年半に作り上げた「菅生さん」と本物の菅生さんに間に流れる川なのかもしれなかった。
そうか、こうやって何かが食い違いながらこの恋も終わっていくのかもしれない。ほんの一瞬ではあったが、ふとそんなことを思った。湖山はどうしたって渡れない川を前にいつまでも地団太を踏んでいるような男ではないし、そこでロマンチックに佇み続けるほどほど若くもなかった。
それなのになぜ、その一言を聞いたとき、彼はそんなにも傷ついたのだろう。心のどこかで覚悟していた事、きっとそうだ、と思い続けてきたことが現実だと分かった瞬間。
「・・・ちゃん、大丈夫ですか?」
菅生さんに話しかけた声が聞こえた。小さい声だったけれど、確かに菅生さんが受け答えをしていた。振り向きたかったけれど、振り向けなかった。彼はその時スタジオへ向かう廊下以外、何も目に入らなかった。違う、廊下すらも目に入っていなかったかもしれない。
やっぱり・・・
やっぱりそうだったんだ・・・
あの日、屋上で彼女の愛情を一身に受けいていた少女。彼女によく似た笑い方。彼女によく似た黒く真っ直ぐな髪。幼い手で菅生さんの頬を挟んでいた少女。
こんな時は、仕事をするに限る。湖山はいつになく険しい表情を浮かべて行程表を睨んだ。それはもちろん苛立ちではなく、悲しみでもない。ただ、しくしくと痛む彼の心臓が、縮こまって絞られるように痛む彼の胃が、胸の中で彼の体の中で暴れている何かが、湖山が仕事に集中しようとすればするほど、彼を苛むからだった。仕事をしながらこんなに集中できなかった事はなかったのではないか、と思う。シャッターを切る一瞬に集中する、そのシャッターと次のシャッターまでの、ほんの小さな隙間を縫って、彼を集中力の鎖からプツリプツリと解いていくものがその日ずっと彼を苛んでいた。
「湖山さん、焼き肉、食いたいですね」
と、大沢くんが言った。機材をしまう手が休まる事無く動いている。
「焼肉か。いいな。そうしよう。」
一人になりたいような、なりたくないような複雑な想いを抱えた湖山の気持ちを大沢くんは察しているのだろうか。時折手を止めてスタッフに挨拶を返す大沢くんの手元を見ていた。つい、溜息が漏れた。