ホットケーキ
第二章 『切り傷』
『切り傷』
カーゴパンツの太ももで電話が鳴っていた。気付いていたけれど焼肉をつつきながら「そんで?そんで?」と大沢くんの恋の話の先を促した。笑ったり茶化したり時に真剣になって聞きながら、こいつ、白いご飯をおいしそうに食べる奴だなあ、こういう奴は割りと早く結婚する、と思う。
こんな風に友人達と食べたり飲んだりしながら自虐的に口にする事もあるけれど湖山は口で言うほど独りが厭なわけではない。食事は外食に頼ることが多いけれど掃除も洗濯も好きだし、寂しいと思うほど一人でいる時間は殆どない。でも、結婚したくないという訳でもなく、結婚したいと思ったことがなかった、という訳でもなくて、簡単に言えば振ったり振られたりしている間にこの年になってしまっただけだ。可愛いなと思う子がいればいつも「彼女なら、もしかして」って思うけれど、「やっぱり違う」と思う間もなく終わってしまう。
繁華街の飲食店のビルの中ほどの階は、いつもなかなかエレベーターに乗れない。話の続きをリノリウムの床に響かせながら階段の下り、エレベーターホールのサラリーマンとOLを除けながらビルの外へ出ると、機材を積んだ車を止めた駐車場へ向かう大沢くんに手を振って湖山は駅へと向かった。シャッターが下りた駅前のデパートの前へ差し掛かると、彼の想いはまた堂々巡りの中へ向かおうとしたが、それを振り切るように携帯電話を出すと着信履歴を確認して雑踏の中で聞き慣れた呼び出し音を鳴らした。
「もしもし?」
と眠そうな声が言った。
「ごめんごめん、寝てた?電話もらったよね?」
「したよ。仕事終わったかなって思ったから」
「終わってたけどご飯食べに行ってた」
「うん。そうだと思った・・・。」
「うん」
次の休みのデートの話、今日の出来事の話、取りとめもなく話を聞いて何台か電車を見送ってやっと帰りの電車に乗る。仕事帰りに聴きたくなる曲、見慣れた夜景が流れていく窓に額をつけて彼の想いはやはり堂々巡りの中へと吸い込まれていくのだった。
春浅い日溜りのベンチ。ペットボトルの蓋を開けた瞬間の手の感覚。大きなパラソルの下のアルミのテーブルに頬杖をついて微笑んでいる女性の髪が風に揺れる様。紺色のワンピースの丸い衿。膝にかけたコート。
「あの人だ」と気付くまでに時間がかかるくらい別人に見えた。あんなふうに穏やかに笑う人だったなんてちっとも知らなかった。知らなかったというよりも、その日デパートの屋上で彼女を見つけたその瞬間まで一度も彼女のことを気にしたことはなかった。どんなに一生懸命思い出してみても、パソコンを見てキーボードを叩いているか、計算機を片手に書類に目を落としているか、コピー機のボタンを押しているか、それ以外の彼女を思い描く事ができなかった。それが見た記憶なのか自分の脳内で作り出したイメージなのかも分からなかった。事務的に挨拶をすることはするけれど、お互いに愛想がなく、接点がないから話したこともない。
真っ暗な部屋に帰って来ると付けっぱなしにしている熱帯魚の水槽のLEDライトが青く光っている。昼間出て行った通りに、テーブルには水を飲んだグラスが置いてあって、ソファに座る時に投げたクッションがラグの上の窓際近くに転がっていた。電灯をつけて、郵便物をキッチンのカウンターの上に置くと、彼はクッションを拾いソファに戻して、テーブルのグラスをキッチンへ下げ、湯沸かし器のスイッチを押した。いつ出来たのか、右手の人差し指の第二関節に小さな切り傷が出来ていた。
カーゴパンツの太ももで電話が鳴っていた。気付いていたけれど焼肉をつつきながら「そんで?そんで?」と大沢くんの恋の話の先を促した。笑ったり茶化したり時に真剣になって聞きながら、こいつ、白いご飯をおいしそうに食べる奴だなあ、こういう奴は割りと早く結婚する、と思う。
こんな風に友人達と食べたり飲んだりしながら自虐的に口にする事もあるけれど湖山は口で言うほど独りが厭なわけではない。食事は外食に頼ることが多いけれど掃除も洗濯も好きだし、寂しいと思うほど一人でいる時間は殆どない。でも、結婚したくないという訳でもなく、結婚したいと思ったことがなかった、という訳でもなくて、簡単に言えば振ったり振られたりしている間にこの年になってしまっただけだ。可愛いなと思う子がいればいつも「彼女なら、もしかして」って思うけれど、「やっぱり違う」と思う間もなく終わってしまう。
繁華街の飲食店のビルの中ほどの階は、いつもなかなかエレベーターに乗れない。話の続きをリノリウムの床に響かせながら階段の下り、エレベーターホールのサラリーマンとOLを除けながらビルの外へ出ると、機材を積んだ車を止めた駐車場へ向かう大沢くんに手を振って湖山は駅へと向かった。シャッターが下りた駅前のデパートの前へ差し掛かると、彼の想いはまた堂々巡りの中へ向かおうとしたが、それを振り切るように携帯電話を出すと着信履歴を確認して雑踏の中で聞き慣れた呼び出し音を鳴らした。
「もしもし?」
と眠そうな声が言った。
「ごめんごめん、寝てた?電話もらったよね?」
「したよ。仕事終わったかなって思ったから」
「終わってたけどご飯食べに行ってた」
「うん。そうだと思った・・・。」
「うん」
次の休みのデートの話、今日の出来事の話、取りとめもなく話を聞いて何台か電車を見送ってやっと帰りの電車に乗る。仕事帰りに聴きたくなる曲、見慣れた夜景が流れていく窓に額をつけて彼の想いはやはり堂々巡りの中へと吸い込まれていくのだった。
春浅い日溜りのベンチ。ペットボトルの蓋を開けた瞬間の手の感覚。大きなパラソルの下のアルミのテーブルに頬杖をついて微笑んでいる女性の髪が風に揺れる様。紺色のワンピースの丸い衿。膝にかけたコート。
「あの人だ」と気付くまでに時間がかかるくらい別人に見えた。あんなふうに穏やかに笑う人だったなんてちっとも知らなかった。知らなかったというよりも、その日デパートの屋上で彼女を見つけたその瞬間まで一度も彼女のことを気にしたことはなかった。どんなに一生懸命思い出してみても、パソコンを見てキーボードを叩いているか、計算機を片手に書類に目を落としているか、コピー機のボタンを押しているか、それ以外の彼女を思い描く事ができなかった。それが見た記憶なのか自分の脳内で作り出したイメージなのかも分からなかった。事務的に挨拶をすることはするけれど、お互いに愛想がなく、接点がないから話したこともない。
真っ暗な部屋に帰って来ると付けっぱなしにしている熱帯魚の水槽のLEDライトが青く光っている。昼間出て行った通りに、テーブルには水を飲んだグラスが置いてあって、ソファに座る時に投げたクッションがラグの上の窓際近くに転がっていた。電灯をつけて、郵便物をキッチンのカウンターの上に置くと、彼はクッションを拾いソファに戻して、テーブルのグラスをキッチンへ下げ、湯沸かし器のスイッチを押した。いつ出来たのか、右手の人差し指の第二関節に小さな切り傷が出来ていた。