ホットケーキ
第三章 『朝』
「わぁ~!おーいしそ~!」

いつもの彼の声よりもワントーンは高い、子どもみたいにはしゃいだ声だった。こんな風に喜ぶ事が出来たなんて忘れてた、と湖山は思った。フライパンの上のホットケーキは料理の本とかメニューの写真とかで見るみたいなキツネ色の焼き色が均一についているのとは違う、虎の皮みたいな焼き加減で、バターがゆっくりと溶けていくけれど滑り落ちないのがまたリアルだった。フライパンから立ち上る湯気が消えるあたりで彼女が振り向いて笑った。屋上で見た紺色のワンピースの上にエプロンをつけていた。ワンピースの衿から鎖骨が少し見える。エプロンの紐が捩れていた。彼は、彼女をぎゅうっとしてもいいのだ、と思った。このホットケーキは俺のものだもの。そう思って彼女をぎゅっとしたかしないか、という瞬間に目が覚めた。

腕の力が抜けて、ああ、夢だったんだと分かった。こんな風に力を込めて抱きしめようとしていた自分に気付いた。彼女の髪が頬にふわっと、そして毛先がちくちくとしたような気がしたのだけど、全部、嘘みたいに夢だった。でも心臓がドキンドキンと打っているのは夢ではなかった。こんな風に誰かを想ってドキドキするなんて、本当にもう何年ぶりなんだろう。というか十数年ぶりとか?それは、彼女を屋上で見つけた日から一週間くらい経った頃のことだった。

そんな夢を見てしまったせいで、小学生とか中学生とかみたいに誰かを急に好きだと思ってしまうなんてどうかしていると自分でも思うのだけど、どうしてもどうしても、彼女を屋上で見つけたあの瞬間から自分の中で始まった何かを止めることができずにいて、夢にまで彼女を見て駄目押しされて、そうしてこうしてもう一ヶ月にもなろうとしていた。

本当にどうなっちゃってるんだろうと思う。

枕元の携帯電話が何度かスヌーズを繰り返した。彼はやっと起き上がって窓の外を見た。雨が降りそうだった。今日の予定を頭の中で確認する。出かけるまでに少し時間があった。朝ごはんを食べたら掃除しよう。キッチンのカウンターの上の昨晩置いた郵便物の束があった。一葉の往復葉書、いつものように「欠席」に丸する。ゆるゆるのスエット、体にピッタリとしたTシャツ姿の湖山は学生の頃と殆ど変わらないように見える。みんなはどうしているのだろうか。

いつものように起きしなの水を飲む。朝ごはんと言ったって、抜くと体に悪いからと思って食べるだけでごく簡単なものだ。マーガリンをぬった食パン、トーストにする時もある。牛乳。玉子があれば卵料理くらい作ったり、ソーセージを焼いたりするくらいなら出来る。

春だ。でも朝晩少し肌寒い。トーストを齧りながら、キッチンからリビングを覗く。どこかに羽織るもんないかなあ。牛乳のマグとトーストを持ってひたひたとキッチンを出る。テーブルの上にマグカップを置きその上にトーストを置いて、湖山は昨日ソファーで脱いだままのパーカーを羽織った。テレビをつけると多チャンネル放送の音楽チャンネルで、彼の知らないアーティストのミュージッククリップが流れていた。特に好きな音ではなかったので、チャンネルをニュースに回し、天気予報を見て、トーストの最後の一口を頬張った。牛乳を飲み干してまたヒタヒタとキッチンに戻った。マグに少し水を入れて流しに置き、一度物入れのある玄関の方へ向かいかけて、湖山はまたキッチンに戻り、マグカップを洗ってトレーの上に伏せた。キッチンカウンターの上の「欠席」に丸をした往復はがきにポトリとひとつ、水滴が落ちた。
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