ホットケーキ
第五章 『片付けなくてはいけないこと』
こんなに見てるんだから一度くらい振り向いたらいいのに、と思うけど、経験からいってそんな時は大体都合よくいかないものだ。振り向いたからって何がどうなる訳でもないけど。いつもどおりカウンターに封筒を出し書類にサインして、相手の事務処理を待つ間、彼女がデスクに座っている姿を目に焼き付けていた。マウスを動かしている地味なジャケットの袖の皺、右手の薬指に金の指輪をしている。左手の薬指は見えない。銀縁の眼鏡。色気なく低めに束ねた髪。つとめて何気なく、幾度か目をそらしながらも彼は一瞬も惜しい気持ちで彼女を見つめた。
結局彼女は一度もこちらを振り向く事はなく、湖山はそれでも少し満足して帰途についた。片を付けなければいけないことがある、と強く思った。雨が降り出した所だった。
昔から電話が苦手だ。着信履歴を確認して掛け直すなら、最近やっとやるようになった。掛け直すということも億劫で終わった恋もひとつやふたつあった。ここ二年程、携帯電話の時代になったから続いているんだろうな、という恋をしている。携帯電話がなかったら多分こんなに続かなかった。
飽きっぽい訳ではない。大切に思っていない訳でもない。ただ、自分が今やるべきだと思う事を一生懸命やっていたら、たった一人しかいない自分が他に出来ること、作れる時間に限りがあるだけだ。それは、恋人をないがしろにする、ということになるのだろうか。
いつも満足している訳ではないけれど、ある程度の充実感や達成感を味わう仕事が出来て、自分なりに色んなバランスの取り方を覚えてきて、だからこそ、彼にしては小まめに連絡をとって彼にしては長く続いた恋だった。それを思うとなんだか「もったいなくて」何も早まらないでも・・・と思わないこともない。でも、今彼の中で燻っているものは明らかに煙を出し始めている。このぐずぐずと胸の奥で燻っているものが何なのかその正体を突き止めるまで、と先延ばしにしてきたもの。本当は何なのか分かっているくせにこのままで良いわけがなかった。いつまで燻り続けるのか分からないとしても、そしてそれがはっきりと恋だと言えないまでも、心の奥で別の誰かを想いながら続ける恋愛なんてあっていいわけがなかった。
最寄の駅に着いた時には本降りになった雨の中を駆けて自分のマンションにたどり着くとドアの鍵を開けたところでちょうど電話が鳴った。
「もしもし?」
雨に濡れたショルダーバッグを放り出して洗面所でタオルを取り、頭を肩を拭きながらほっとしたのは、雨の中やっと家に帰り着いたからなのではなく、電話が掛かってきたこと、それをタイミングよく取れたことに対する安堵感だった。大きな決意をした自分の声はいつもと変わらないだろうか。明日の約束をして「じゃぁ」と、電話を切る時、思わず名前を呼んだ。
「ん?」
いつもと変わりない彼女の受け答え、声。
「うん、なんでもない。明日・・・」
彼は電話を切った。
デートの約束の日、大きな水族館の隣接した公園のある駅前で待ち合わせた。デートし始めた頃に一度行ったことのある場所だった。なんて言おう。ただ素直にシンプルに「別れよう」って言えばいいだろうか。「どうして?」って訊かれたらどうやって答えよう。好きな人ができた?好きな人、だろうか?好き?何もしらないのに?好き、って何だろう?気になる、ってこと?じゃあ、気になる人がいるからって言えばいいのか?
少し年の離れた恋人。相応しくないと思ったことはなかったけれど、こうなってみると何か彼女に満足できないものがあったみたいな気がした。そしてそれは彼が気付かぬうちに失い、今彼女が持っている「若さ」の中にあるのだろうか?分からない。分からないけれど、でも、今、彼の胸が懐かしい鼓動を打つとき(そうだ、こんな風に心臓がどきどきすることを彼は長い間忘れていた)湖山が想うのは、少女の頭を撫でる手、少女を抱きしめる腕、屋上で目を細めていたその人だった。
結局彼女は一度もこちらを振り向く事はなく、湖山はそれでも少し満足して帰途についた。片を付けなければいけないことがある、と強く思った。雨が降り出した所だった。
昔から電話が苦手だ。着信履歴を確認して掛け直すなら、最近やっとやるようになった。掛け直すということも億劫で終わった恋もひとつやふたつあった。ここ二年程、携帯電話の時代になったから続いているんだろうな、という恋をしている。携帯電話がなかったら多分こんなに続かなかった。
飽きっぽい訳ではない。大切に思っていない訳でもない。ただ、自分が今やるべきだと思う事を一生懸命やっていたら、たった一人しかいない自分が他に出来ること、作れる時間に限りがあるだけだ。それは、恋人をないがしろにする、ということになるのだろうか。
いつも満足している訳ではないけれど、ある程度の充実感や達成感を味わう仕事が出来て、自分なりに色んなバランスの取り方を覚えてきて、だからこそ、彼にしては小まめに連絡をとって彼にしては長く続いた恋だった。それを思うとなんだか「もったいなくて」何も早まらないでも・・・と思わないこともない。でも、今彼の中で燻っているものは明らかに煙を出し始めている。このぐずぐずと胸の奥で燻っているものが何なのかその正体を突き止めるまで、と先延ばしにしてきたもの。本当は何なのか分かっているくせにこのままで良いわけがなかった。いつまで燻り続けるのか分からないとしても、そしてそれがはっきりと恋だと言えないまでも、心の奥で別の誰かを想いながら続ける恋愛なんてあっていいわけがなかった。
最寄の駅に着いた時には本降りになった雨の中を駆けて自分のマンションにたどり着くとドアの鍵を開けたところでちょうど電話が鳴った。
「もしもし?」
雨に濡れたショルダーバッグを放り出して洗面所でタオルを取り、頭を肩を拭きながらほっとしたのは、雨の中やっと家に帰り着いたからなのではなく、電話が掛かってきたこと、それをタイミングよく取れたことに対する安堵感だった。大きな決意をした自分の声はいつもと変わらないだろうか。明日の約束をして「じゃぁ」と、電話を切る時、思わず名前を呼んだ。
「ん?」
いつもと変わりない彼女の受け答え、声。
「うん、なんでもない。明日・・・」
彼は電話を切った。
デートの約束の日、大きな水族館の隣接した公園のある駅前で待ち合わせた。デートし始めた頃に一度行ったことのある場所だった。なんて言おう。ただ素直にシンプルに「別れよう」って言えばいいだろうか。「どうして?」って訊かれたらどうやって答えよう。好きな人ができた?好きな人、だろうか?好き?何もしらないのに?好き、って何だろう?気になる、ってこと?じゃあ、気になる人がいるからって言えばいいのか?
少し年の離れた恋人。相応しくないと思ったことはなかったけれど、こうなってみると何か彼女に満足できないものがあったみたいな気がした。そしてそれは彼が気付かぬうちに失い、今彼女が持っている「若さ」の中にあるのだろうか?分からない。分からないけれど、でも、今、彼の胸が懐かしい鼓動を打つとき(そうだ、こんな風に心臓がどきどきすることを彼は長い間忘れていた)湖山が想うのは、少女の頭を撫でる手、少女を抱きしめる腕、屋上で目を細めていたその人だった。