ホットケーキ
第六章 『別れ』
会って直ぐ言うつもりはなかった。散歩をしていたらいつ言い出そうかそればかり考えてしまうだろう。自分でもズルイと思ったけれど何気なく水族館へ向かって歩いて行った。何も知らない可愛い恋人の腕が、パーカーのポケットに手を突っ込んだ湖山の腕に絡んだ。
チケット売り場で「大人2枚」のボタンを押すと、薄いピンクのマニキュアを塗った指が彼の指をそうっと押さえた。
「どうしたの?」
首をかしげた時、髪の一束が肩に乗ってゆるやかに反った。
「あぁ、それ・・・」
(分からない、いつの間にかできてた。)
でも、彼はもう上の空だった。その言葉は声になったのだろうか。ならなかったのだろうか?
自分の指を掴んだ恋人の手を取り、じっと見つめた。
あの人の手は、この手よりも小さいのだろうか。肩も、あの人の肩もこんな風にふっくらしているのだろうか。それとももっと華奢なのだろうか。髪はこんな風に柔らかいのだろうか、あの時揺れていた髪も。何度も触れた手も、肩も、髪も、今はまるで初めてのような気がした。
もう、だめだ。
不思議そうに、でも嬉しそうに笑う幼い恋人を傷つける覚悟を決めなければいけなかった。
「ごめん・・・。ちがう。もう、だめだ」
あんなに言葉を選んで悩んでいたのが馬鹿らしい位彼の思いは簡単に口をついて出た。でも彼はもう、それ以上の言葉を見つけることが出来なくて、ただ深々と頭を下げた。
何が起きたのか分からない彼の恋人だった女性は呆然と彼を見詰めていた。何がごめんなのか、何が違うのか、何がだめなのか、彼にも説明ができない。こんな風に君を傷つけてごめんなさい、こんな風に終わりたかったわけじゃない、こうやって続けていくことはもうできない、そう聞こえてくれたらいい。
ごめん(君じゃない)
ちがう(君じゃない)
もうだめだ(君じゃない)
ヒドイ男だ。
自分でもいつできたのかわからないような小さな傷をどうしたのか、と気遣ってくれる人をどうして傷つけなければならないんだろう?初めて電話した日のこと、初めてデートをした日のこと、些細な事で喧嘩になった日のこと、初めて唇を重ねた日、そして、たわいもなく過ぎた月日、こんな風に傷つけてしまってもチャラになるくらい彼女をちゃんと大事にしていただろうか?
その夜、湖山は久々に眠れない夜を過ごした。自分が傷つけた人の泣く姿を何度も何度も思い出した。これまでにも女性にさよならを切り出したことはあったのに、こんなにひどく辛くはなかった。泣いている彼女の震える肩を思い出し、精一杯何かを問う瞳を思い出した。思い出になった色々なことが何度も何度もループして彼の脳裏を巡っていた。そして、何度目のループだったのか、彼女の震える肩をまた思い出した時、彼女の耳に揺れていたピアスがいつだったか自分がプレゼントしたものだったことを思い出した。夜が白々と明けていった。墨を撒いたようだった部屋が次第に青く薄らいで、影でしかなかった家具の面(おもて)が形を成し始めた。彼はむくりと起き上がり足を床に下ろした。床が素足にやけに冷たかった。