ボレロ - 第二楽章 -
朝、父が固い表情を浮かべ 「霧島さんとの会合に代理で出席してくれ。
櫻井君にも同席してもらいたい」
そう言われた時点で なぜ? と問いただすべきだった。
はずせない打ち合わせが入ったからと、ありがちな理由を述べる父にわかりまし
たとだけ伝え、私は会社を出た。
あの時の父の顔は何事か重いものを背負っていたと、いまなら感じとれるのに、
どうして気がつかなかったのか。
入院の知らせに、そういえば今朝顔色が悪かったと、父の固い表情を体調不良
と結びつけてしまったのは私の判断ミスでもある。
言われたとおり迎えに来た車に乗り込み、強引についてきた櫻井さんに言われ
るまで、車の行き先に疑問も持たなかった。
「病院はどこですか? どこに向かっているんですか」
「もうすぐつきます」
「もうすぐって、緊急に入院したのに、こんなに長距離を走るなんて、
おかしいじゃないですか」
「もうすぐですから」
「おい君たち、本当に会社の人間なのか。顔を見せろ」
「お静かに願います……静かにしていただかなくては困ります」
ちらりと見せられた鈍色の金属が銃口に見え、私も櫻井さんも言葉をのみ
込んだ。
櫻井さんの手が私の肩を引き寄せ、「ここは彼らに従いましょう」 と冷静な声
がして、私は黙って頷いた。
”もしも、誰かに連れて行かれたら大騒ぎしちゃだめ。
じっと言われるままにしているのよ。
落ち着いて聞き分けのいい子なら、相手も無茶はしませんからね。
必ず助けてあげるから、お父さまを信じて待つのよ。わかったわね”
幼い頃、母から教えられた ”心得” がよみがえってきた。
そうだ、騒ぎたててはいけない。
じっと待つこと。
そうすれば、必ず誰かが助けてくれる。必ず……
そのとき頭の中に真っ先に浮かんだのは、父でも母でもなく、宗の顔だった。
彼が私を探し出してくれる、きっとそうに違いない。
説明はできないが、私には不思議な確信があった。
一時間ほど走った頃、車はビルの地下駐車場へと入り込んだ。
そこで車を降り、後部座席がカーテンで閉じられたワゴン車に乗せられた。
幾重にも用心が重ねられた手際に、相手の見えない不気味さが増した。
私の手をずっと握ってくれている櫻井さんは、思い出したように
「大丈夫ですよ」 と声をかけてくれた。
安心させるための言葉だとわかっていても、こうしてそばで守ってくれる人がい
るのは、なんと心強いものか。
櫻井さんが横にいてくれるから、先の見えない事態に陥りながらも落ち着いてい
られた。
握り返した指に彼も応じる。
絶対に守るから……指に込められた力強さが、そう告げていた。