ボレロ - 第二楽章 -
ふたりとも落ち着いてくださいと、知弘さんのいさめる声に櫻井は踏み出した足
を元に戻し、その顔に潤一郎が穏やかに語りかけた。
「私は確かに捜査機関の人間ですが、現在は休暇中です。
何の権限もありません。
それでも、もしも私の関与が公になれば、非常に不利な立場になってしまう。
失職もありえるでしょう。
それでも協力したい。私は妻の友人を救いたい、その思いだけです。
珠貴さんを救い出すには、どうしても櫻井さんの力が必要です。
あなたが見聞きしたことを、私たちに教えていただけないでしょうか」
「しかし」
「櫻井さん、あなたが今回の事件の鍵を握っています。
犯人側の要求を託され、今度はこちら側の意向を相手の要求どおりに
収めなければならない。
大変な役割りを背負っているわけだ。もしもそれができなければ、
そう考えるのもわかります。ですが……」
潤一郎は一気に話していたが、ふいに言葉を止め櫻井の顔を見つめた。
ですが……ともう一度繰り返し、大きく息を吸った。
「珠貴さんに何かあってからでは、取り返しのつかないことになります」
「何かって、何が起こるんですか。
こちらの要求が通れば返してもらえるんですよ」
「交渉が長引けば、その約束は反故となります。
言われたはずです、もしそうでなかったらと……どうですか」
「……確かに、もしものときはと……ですが、まさか」
「まさかが起こってからでは遅いのです。
そのために先手を打たなければ、それもできるだけ早く、相手に気づかれず、
息をひそめて、慎重に……相手が動く前に手を打って、動き出す。
そして、取り返すのです」
「……できますか」
「できます。あなたさえ協力してくださるのなら、必ず」
潤一郎の説得は、追い詰めるのではなく相手に考える余裕を与えながら、徐々
に核心に迫っていった。
気持ちが揺れ、迷い始めたところで一気に言葉を続け、相手の気持ちをつ
かむ。
固唾をのんで見守る私たちの目の前で、櫻井の気持ちが面白いようにこちらに
傾いていく。
私ではなく、この弟を捜査機関へとつかわした祖父の目の正しさに、いまさらな
かがら驚くのだった。
「わかりました、協力しましょう。よろしくお願いします」
神妙に頭を下げた櫻井に、紫子が駆け寄って手を差し伸べ礼を告げていた。
さっそくですが、と櫻井が話を切り出した。
珠貴さんがいるのは、どこかのホテルの一角に建てられた別棟のようですとの
声に、狩野と佐保さんが身を乗り出し、首都圏まで想定範囲を広げた候補地が
並べられていく。
潤一郎の目がチラッと私を見る。
口角がほんの少し上がり、言葉より強い自信がうかがえる。
ともに生まれて一緒に育ってきた弟への信頼が、より増した瞬間だった。