ボレロ - 第二楽章 -
「出張先で病気になられるなんて大変でございましたね。
ご不自由はございませんか。
どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」
支社長夫人の口は動き続け、次から次へと言葉が並べられる。
熱は下がり体も回復したので大丈夫だと伝えたのだが、「お熱の後は用心が
必要です、精のつくものを召し上がって充分に休養していただかなくては」
と、ドイツから持参した日本の食材を並べ、自分の手で料理するから安心して
欲しいと、まったく引き下がる様子がない。
「ちょうど日本から娘が来ておりまして、介護の勉強もしておりますので、
副社長のお役に立つのではないかと連れてまいりました。
どうぞ遠慮なく、何でもお申し付けくださいませ」
「お気遣いはありがたく頂戴いたします。
ご覧の通り、すっかり元気になりましたので、どうぞご心配なく」
「ですから先ほども申しましたでしょう。お熱の後が肝心ですのよ。
それに私、このまま何のお役にも立たず帰りましたら、
夫に叱られてしまいます。
副社長のお母さまも、さぞご心配でいらっしゃるだろうから、
おまえが奥様の代わりに看病するようにと、重々申し付かってまいりました」
それに、こちらの水はお口に合いませんでしょう。持参いたしました水は……
と支社長夫人のおしゃべりはとどまるところを知らないようだ。
ついには一緒に来た娘まで母親の加勢を始め 「母もこのように申しており
ます。どうぞお聞き届けください」 と懇願し始めた。
この母娘の言い分を誰が阻止できるのだろうか。
隣りで息をひそめ成り行きを見守っている珠貴も、出るに出られず困っている
ことだろう。
平岡も気の毒そうな顔で私を見ていたが、その平岡に火の粉が飛んだ。
「平岡さん、あなた、どういうおつもり?
副社長のお体を、もっと気遣って差し上げなくてはダメじゃないの。
いくらお熱が下がったからといって早々に起き上がるなんて、
もしお倒れにでもなったらどうするんです。
これだから男の人は役に立たないんです。あとは私に任せて。
そうね、お買い物をいくつかお願いできるかしら」
「えっ、えぇ……わかりました」
私の言葉などまったく無視した上に、平岡を自分の部下のように使いあしらって
いる。
困り果て、ふぅ……とため息をつくと、「お顔の色が優れないようですね。
やはりまだ本調子ではございませんね。
どうぞ横になってくださいませ」 と、手を取ってベッドへと連れて行きそうな
勢いだ。
大丈夫ですと手を振って否定するが、遠慮はいりませんからと強引な姿勢で押
してきた。
それでも、結構ですと断ると 「いいえ、このままでは帰れません」 と
続く。
こんな押し問答の最中、部屋の呼び鈴がなり、対応に出た平岡の
「どうしたんですか!」 と大きな声が聞こえてきて、私たちの会話も一時中断
した。
誰かを招き入れる様子があり、ほどなくあらわれたのは、現在スイスに在住中
の妹の静夏だった。