ボレロ - 第二楽章 -
本館の賑わいも届かない、奥まった敷地に立てられた別邸の新年の宿泊客は、
毎年変わりばえがしない。
我が家と同じく 『吉祥』 で新年を迎える客ばかりだった。
毎年顔を合わせ、それなりに顔馴染みになるのに、とりたてて親しく接すること
はなかった。
ダイニングですれ違っても軽く頭を下げる程度で、互いにプライベートの領域に
踏み込ませない、踏み込まないといった暗黙の了解ができていた。
そんな雰囲気の中で、毎年親しげに挨拶をしてくれる女の子がいた。
出会った頃が幼い頃であったので今でもその感覚が抜けないが、会うたびに
女性らしく変化する様子に、少々の戸惑いが含まれるほど彼女のまとう空気は
年々変わってきた。
親たちは他家と距離を置き、節度を持った接し方をしていたが、子どもたちは
互いに牽制していても、ひとたび言葉を交わすとすぐに打ち解ける。
八木沢 葵 と出会ったのも、子どもたちが走り回る庭の一角だった。
当時中学一年生だった私は、もう鬼ごっこの歳でもなく、かといって手持ち
無沙汰で庭に出たところ、どこからか痛みを訴える泣き声が聞こえてきた。
声をたどり、木々の茂みに歩み寄ると、くぐり戸の脇にうずくまる小さな体が
見え駆け寄った。
足音に気づき振り向いた顔は血に染まり、流れ落ちる赤い雫に一瞬身がすくん
だ。
「どうしたの?」 と聞いたところで答えられるような状態ではなく、まずは止
血をとポケットをさぐったが、ハンカチなどという気の利いたものは入っておら
ず、手に当たったのはキャンディーの包みだった。
こんなもの役にもたたないじゃないかと思ったが、落ち着かせるにはいいのでは
ないかと、泣き続ける女の子の小さな手に握らせ、上着を脱いで血に染まった顔
に当てた。
服が傷口に当たったのか小さな叫び声が上がったが、痛みや不安を労わってや
る余裕はなく、その子を体ごと抱き上げ別邸の中へと駆け込んだ。
背ばかり伸び、筋肉などつく前の細い腕に抱えた5歳の女の子の体は、それなり
の持ち重りがしたが、重いと感じるより顔の手当てが先決との思いが強
かった。
「怪我をしています。手当てをお願いします」 と叫びながら入ってきた私の
姿に、血相を変えてフロントから飛び出してきた支配人に女の子を渡すと、
そのあと急激に襲ってきた脱力感で腕の痛みを感じたのだった。
すぐに女の子の親が呼ばれ、救急車を呼ぶより病院に走りましょうと提案した
支配人の意見に誰の異存もなく、「近衛君ありがとう。あとで礼に伺います」
と言ってくれた女の子の父親の冷静な言葉までも記憶している。
後日、八木沢家の長老格である男性が我が家を訪問し、中学生には過分とも思
える礼があったことなど、今でも鮮明の思い出すことができるのだから、私に
とっては忘れるに忘れられない出来事だった。
八木沢家は政治家の家系で、総理大臣こそ出ていないが大臣経験者が何人も
いる。
孫娘の礼のために我が家を訪れたのは、当時現職の内閣官房長官であった
八木沢敬三氏で、私事とはいえ現職の閣僚で多忙を極める官房長官が、礼を述
べるために足を運んだことに、父も祖父も大いに恐れ入ったものだ。
彼女の顔を覆うために包んだ上着は血染めがひどく、お返しできるものでは
なかったので……と、詫びの言葉とともに、まったく同じ真新しい上着が私の
手に渡された。
怪我はどうなりましたかと聞くと、額を何針か縫う傷だったが骨には異常もなく
本人も落ち着いている、お兄ちゃんからもらったキャンディーだから、包み紙は
大事な宝物なのだなどと、無邪気なことを言っていますと、このときばかりは
好々爺の顔が見られた。