ボレロ - 第二楽章 -
17. delizioso デリツィオーゾ (甘美に)
ラウンジ入り口にあらわれた櫻井祐介さんは、私を見つけると片手を挙げて
合図を送ってくれた。
客の何人かが気づきヒソヒソと噂らしき会話が聞こえてきたが、それらを気に
留める様子もなく、テーブルの間を急ぎ足で抜けると、私の前の席へと腰を
下ろした。
「遅くなりました。ずいぶん待ったでしょう」
「いいえ、あの……みなさん、覚えていらっしゃるんですね」
「事件からまだそんなにたってませんからね。
僕も、近衛さんくらい有名になりました」
声を潜め顔を寄せるようにして、私に話しかける櫻井さんが気になるのだろう。
私たちのテーブルの横に座る婦人も、盗み見るような仕草を見せていた。
「テレビの威力ってすごいですね。ときどきいるんですよ。
記者会見見ましたよって、声をかけてくれる人が。
ちらちら見られるより、見ましたよと言われる方が気持ちがいいですね」
その言葉が聞こえたのか、こちらを見ていた婦人はすっと視線をはずした。
私の誘拐事件に巻き込まれた櫻井さんが、事件解決後、被害者側の立場で
記者会見に出席したため、一時は賑やかにマスコミに取り上げられたが、
まさか事件後もこんな風に好奇の目を向けられていたとは知らず、申し訳ない
思いがした。
「僕は大丈夫ですよ、気にしてませんから。
えっと、忘れないうちに先にお渡しします」
「櫻井さんには最後までお世話になりました。ありがとうございました」
「こちらこそ……終わってしまうのが残念です」
二人で手がけた仕事の最終確認をするために、ここでこうして会っている。
これが最後……今後、彼と仕事において直接関わることはない。
ふたたび、ありがとうございましたと礼を告げてから、私は用意してきた包み
を取り出した。
彼の前に箱を差し出すと 「もらってもいいの?」 と少し驚いた顔が聞き、
ゆっくりうなずいた私を見てから 「ありがとう……」 と遠慮がちな声と
手が箱を受け取った。
去年なら、もっと自信に満ちた態度で受け取ってくれたのに、彼を遠慮がちに
させてしまったのは私のせいだ。
「これは世話チョコかな?」
「あら、そんな言葉をご存知なんですね」
「知ってますよ。ウチの会社の女の子たちも、
最近は友チョコに力を入れるんだと言ってました。
おかげで義理チョコの予算が削られて、義理チョコしかもらえない男どもは
寂しそうでしたけどね。
だけど、僕には女の子たちが
『これは世話チョコですから』 って言いながら渡してくれるんです。
本命がいない身としては、貴重なチョコレートですから、
ありがたくもらいました」
「櫻井さん……」
「あっ、すみません。今年も珠貴さんからもらえると思ってなかったから……
これ、少なくとも義理チョコじゃないですね」
「違います。これは……両親に話してくださったお礼もお伝えしたくて……
ありがとうございました」
櫻井さんはとても優しい顔をして、開けてもいいですかと断ってから丁寧に
包みを開き箱を取り出した。