ボレロ - 第二楽章 -


昼過ぎのラウンジにそれほど多くの客はおらず、静かで落ち着いた空間が保た

れていた。

その声がラウンジ入り口前のロビーから聞こえてきたのは、私たちが退席しよ

うとするときだった。

人をなじるような声に、客は一様に眉をひそめている。

「はい、はい」 とかしこまって答える声は女性のもので、ひたすら謝る姿勢

を示すのみで、それがまた相手の勘に触るのか、次第に罵倒する言葉へと変

わっていった。



「あれっ、彼女……浜尾さんじゃないか」



櫻井さんの声に、彼の目が示す方向を見ると、宗の会社の秘書である浜尾真琴

さんが、痩せぎすの神経質そうな男性に向かって、ひたすら頭を下げ続けていた。

次の瞬間、私も櫻井さんも駆け出し彼女の近くへと行ったが、そばにきた私

たちにも気がつかないほど、浜尾さんは必死に相手に向かっていた。

一歩前へ出ようとする私を押さえ、櫻井さんが歩み出た。



「なんだ、アンタ」


「静かにしていただけませんか。女性に大声を向けるのは感心しませんね」 


「アンタには関係ない」 


「関係あるなしではなく、マナーを守っていただけませんかと

お願いしているんです」


「マナーだぁ? 人に指図するつもりか!」



男性のイライラの矛先が浜尾さんから櫻井さんに代わった。

櫻井さんの注意も男性にはまったく通じず、それどころか、自分の怒りの原因

を彼に向かってしゃべりはじめた。


聞いていた話とは違う、こっちは大きな損害をこうむった、事業の行き詰まり

の原因はすべてそっちにあるんだとすごい剣幕でまくし立てた。

偶然ここで見かけた浜尾さんが、近衛本社の重役秘書だったと覚えていたこと

から、秘書なら役員の腹積もりもわかっていたはずだ、秘書も同罪だ、ウチの

損害の責任を取れと、詰め寄っていたのだと自分勝手な言い分だった。



「彼は」


「もうすぐこちらへ」



櫻井さんの短い問いかけに、すかさず浜尾さんが答え、彼女の返事を聞いた

櫻井さんから私へ ”彼をつれてきて” とアイコンタクトがあった。

同じように目で合図を返し、私はその場を急ぎ離れた。

背中では、また言葉の荒いやり取りが始まっていた。



携帯を取り出し宗へと発信した。

ワンコールで電話にでたのだから、勤務中電話などしてこない私からの着信に

驚いたようだ。



『どうした』


『浜尾さんがトラブルに巻き込まれているわ、ラウンジ前よ。早く来て』



短い電話から事態を把握したのだろう、『すぐ行く』 と緊迫した声があり

電話は切れた。

待つほどもなく姿を見せた彼に手早く事情を話し、浜尾さんと櫻井さんがいる

場所へと向かった。



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