ボレロ - 第二楽章 -
18. con brio コン ブリオ (生き生きと)
今年は春の到来を見過ごしたようだ。
次々と押し寄せる仕事をこなすうちにカレンダーは確実に日にちを刻み、桜の
盛りが終わったことにも気づかずにいた。
葉の生い茂った桜並木を見ながら 「夜桜を見損ねたな」 とつぶやいた私に、
今ごろ気がついたんですかと、平岡の呆れた声が運転席から届いた。
「もっとも、この忙しさでは、花見なんて優雅なことやってる暇は
ありませんでしたね。
明日の会合を終えたら、ひと息つけそうですよ」
「われわれも連休が取れるように、浜尾君が調整してくれるそうだ。
平岡にも休みもなく働いてもらった。感謝している」
「どうしたんですか」
「なにが」
「先輩から感謝するなんて言葉、気味が悪いですね」
「バカ、素直に受け取れ」
「そうそう、そうでなくちゃ」
「フンッ」
車という密室にいることで、平岡が遠慮のない笑い声をたてる。
上司と部下の関係が先輩と後輩へと変わるのはこんなときで、平岡のいつもな
がらの嫌味に応酬するのも悪くない気分だった。
今夜も遅くなりそうですね、と言った平岡の声も疲れがにじんでいたが、でも
連休と聞いて元気が出ましたと自分を奮い立たせている。
今日最後の予定をこなすため目的地へ向かい、彼は確かな運転で込み合う
駐車場へと車を滑り込ませた。
昨年から取り組んできた事業がようやく軌道に乗り、私は多忙を極めていた。
珠貴との深夜の電話だけはかろうじて続いていたが、最近の話題はもっぱら
仕事のことが中心だった。
彼女も私に似たり寄ったりの忙しさで、昨夜の電話は出張先のホテルからだと
言っていた。
『来月には時間に余裕ができそうだ。予定が決まったら連絡するよ』
『覚えてくれてたのね』
『君の誕生日だ。忘れるもんか』
『ふふっ』
『笑うなよ、今度は忘れない。絶対だ』
『お気持ちだけで充分よ。あなたが忙しい人だってこと、わかっていますから』
『いいや、必ず約束する』
『はいはい、わかりました。楽しみにしています』
そういいながらも電話の最後に 「でも無理はしないでね」 と私を気遣う言
葉を添えてくれた。
彼女の気遣いは嬉しかったが、私には無理をしなければならない理由が
あった。