ボレロ - 第二楽章 -


上階につづく螺旋階段を、宗の手に引かれてのぼっていく。

足元を気遣って 「気をつけて」 などの言葉をかけられたことはなく、階段

をのぼり始めるとさりげなく手が差し

出され、私は当然のようにその手を取るのだった。


夜だけ営業しているイタリアンカフェは、私たちにとって特別な場所だ。

これまで、些細な誤解や意地の張り合いで、気持ちがすれ違うこともあった。

けれど、カフェのテーブルに向かい合い、イタリア菓子とエスプレッソや紅茶

の香りに包まれるうちに、絡み合った感情はほぐれ、離れた気持ちが歩み寄り、

いつしか心が重なり合っていた。

沈んだ思いを抱えながらのぼった階段も、カフェで過ごしたあと下る頃には、

心地よい気分が胸に広がっている。

甘い思い出も苦い思い出も、すべてこの場所に繋がっていた。

  

カンカンと靴音を響かせながら、昨夜の出来事を宗に話した。

時を同じくして三人の方から 「お会いしたい」 と申し込みがあったと言

うと、それはどこの誰かと聞かれ彼らの名前を教えたところ、白州さん以外の

二人については 「心配は要らない」 と告げられた。

自信に満ちた顔に 「どうして?」 と聞いてみたが、宗は意味ありげな笑み

を浮かべるばかりで、理由を教えてはくれなかった。

白洲さんの話になると眉をひそめたが、紗妃が名づけた白洲さんのニックネー

ムには笑い出した。

今夜の私たちは、窓からこぼれる灯りで甘い気分になることはなさそうだ。



「シロナガスクジラか。すぐ彼の顔を思い出したよ。実に特徴をつかんでるね」


「白洲さんには失礼だけど、つい笑ってしまうの」


「すらっと胴が長いとは言ってくれるじゃないか。

白洲氏、も紗妃ちゃんにかかったら形無しだな」


「でもね、あの子ったら、あなたのことは褒めるのよ。

将来性は抜群だし、近衛さんならいいかなぁ、ですって」

 

あはは……と、また宗の笑い声が踊り場に響いた。

最後の一段をのぼり終えると、決まったように私の手を引き寄せ胸元に抱きか

かえる。

そこに誰もいなければ、彼の唇が私の頬にすばやく触れるのもいつものこと

だった。





店内は半分ほどの席が埋まっていた。

満席であったこともないが、ほとんど客がいないということもない。

夜のカフェは、ほどよいざわめきに包まれ、静かすぎず、うるさすぎず、いつ

訪れても落ち着いた大人の空間が保たれている。


白洲さんとの会食のため、来週の予定を変更して欲しいと伝えると、了解の返

事と新たな予定を提案してくれた。

来週末は、宗とふたりだけで休日をすごす予定になっていた。

誰にも邪魔されずに君の誕生日を祝いたいと、彼が言いだしたことだった。



「再来週はパーティだったな。その次の週では遅すぎる。

思い切って今週はどうだろう。日曜日しか休めないが」


「いいわ、でも宗は大丈夫なの? 今週は忙しいって言ってたでしょう」


「何とかなる。いや、なんとかするよ」 



再来週は、私も宗も沢渡さんと美那子さんの結婚披露パーティーに呼ばれて

いた。

ごく親しい友人だけの会で、週末の二日間を沢渡さんの別荘で過ごそうという

楽しい催しで、主だった顔ぶれは私たちもよく知る人ばかりだった。



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