ボレロ - 第二楽章 -


甘い思い出のある踊り場に、今夜は苦い思いで立ち止まった。

見上げると天窓から差し込む灯りはほの暗く、沈んだ気持ちがより深く広がっ

ていく。

行きましょうか……宗をうながそうと振り向いたとたん、彼の腕に抱きしめら

れた。



「ここに立つと、マスカルポーネの味を思い出す」


「マスカルポーネ?」



慰めの言葉が降ってくるのだろうとの期待は見事に裏切られ、予想外の言葉に

首をかしげた。

彼はなにを思ってマスカルポーネのことを持ち出したのかわからず、甘えるよ

うに胸に預けていた頭をもたげ、宗の顔を見上げた。



「クレーム・ド・カシスって酒の名前を覚えたのもここだった」


「クレーム・ド・カシスって……あっ」



初めてカフェに来たとき、私が食べたケーキにマスカルポーネが添えられて

おり、彼のケーキのソースにクレーム・ド・カシスが入っていた。

宗が私の唇に初めて触れた夜を、何度思い出しただろう。

思い出すたびに体中がしびれ、甘い香りさえも蘇ってくる。

それらを鮮明に覚えているのは、私だけではなかったということ……



「思い出した?」


「えぇ、キスが甘かったってこともね」



私の返事にニヤリと笑うと、すばやく唇に触れてきた。 

涙が滲んでいた目はいつの間にか乾き、沈んだ気持ちも晴れていた。



「これからどうする。話をするならマンションがいいだろう」


「ねぇ、歩いてみない?」


「歩く? ここからマンションまで一時間近くかかるよ」


「あなたが嫌ならタクシーでもいいけど」


「いや、かまわないよ。たまには歩くか」



手をつなぎ、時には腕を組みながら夜の街へ歩き出した。

晩春の風が肌に心地よかった。

街中で行きかう人も多いが、誰も私たちの話など聞いてはいない。



「父の思惑がわからないわ。紗妃とあなたをどうにかしようだなんて」


「思惑というより、思いつきだったんじゃないかな」


「思いつきだとしても、とても熱心だったわ。

彼なら申し分ないだろうって、あの父が言ったのよ。

滅多に人を褒めない人なのに」



先ほどは感情が高ぶり気持ちを乱したが、落ち着いた今は冷静に物事を捉えら

れるようになっていた。

父が近衛宗一郎という人物に、並々ならぬ関心を持っている、それだけは間違

いなかった。



「須藤社長が、俺の何を評価してくれているのか、とても気になるところだね」


「霧島さんとの取引で、あなたのことを気に入ったみたい」


「ガーデンパーティーの奇襲作戦が功を奏したってわけだ。

一年がかりでここまできたか」


「パーティーであなたを見かけたとき、ものすごく驚いたのよ。

どうしてここにいるのってね。あれから一年なのね。 

そうだわ、北園さんが近衛の若によろしくつたえてくださいって。

ふふっ、いいわね。若って響き」    



我が家に昔から出入りしている庭師の北園さんは、宗を 「近衛の若」 と

呼び、この庭を守ってもらうのは 「近衛の若」 しかいないと言い、私たち

のことを応援してくれている。

近衛家の庭を見たいと願う北園さんを屋敷に招いたこともあるそうで、私の知

らないところで二人の交流は続いていたのだった。


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