ボレロ - 第二楽章 -
マンションに帰り着くと珠貴が待っていた。
この夜、彼女と会う約束をしていたが、昼間の出来事を語って聞かせることは
できない。
何事もなかった顔で彼女に接することができるのか、私にはいまひとつ自信が
なかった。
それでも 「内密に」 との約束を守らねばならない。
おかえりなさいと満面の笑みの珠貴を前に、大げさに彼女を抱きしめたのは、
昼間の出来事を隠すための私の演技に他ならなかった。
「熱烈な歓迎ぶりね」
「たまにはいいだろう?」
「あら、なんだか怪しいわ。どうしたの?」
「どうもしないよ。いい香りだね、腹に響くよ」
そうは言ったものの、伊豆で会長夫人の手料理を腹いっぱい食べた胃袋は、
空腹どころか夕食を入れる隙間もないほど、まだ膨らんでいた。
それでも、珠貴が用意してくれた食事を胃袋にせっせと収めていく。
何かの修行かと思えるほど、その作業は困難を極めた。
食べ過ぎた腹を抱えソファに寝転がると、胃の調子を整えるのよと言いながら、
珠貴がデミタスカップを運んできた。
少量の濃厚なコーヒーは、食べ過ぎの胃袋に効き目があるようだ。
苦しい胃がだいぶ楽になってきた。
膝枕でくつろぐ私の頭を抱えながら、会えなかった間の出来事を珠貴が語って
聞かせてくれた。
うん、うん、とうなづいていたが、彼女の声が子守唄にも聞こえ、次第に眠気
が襲ってくる。
半分うつらうつらと睡眠へ入りかけた耳に、意外な報告があった。
「静夏ちゃんが帰国されたのはご存知?」
「いや、聞いてない。このまえ向こうに帰ったばかりじゃないか。
何かあったのかな」
「そうみたい……」
「そうみたいって、誰に聞いたんだ?」
「あなたのお母さまよ。お電話を頂いて……お目にかかったの」
珠貴を紹介してからと言うもの、お袋は私の知らないところで彼女に会うこと
が多くなっていた。
今の話しぶりから何か込み入った話だったのだろうとは思われたが、女同士の
話にはあまり興味のない私はまた眠りへと誘われていく。
「静夏ちゃんのこと、心配なさっているみたい。
お父さまは、まだご存知ないようだけど」
「うん……」
「聞いてる?」
「聞いてるよ。だけど眠い」
「大事なお話なのに。ねぇ、起きて」
「うん……」
生返事のあと、とうとう瞼がおりてきた。
「起きて」 と揺さぶられながらも、意識が途切れかかっている。
そんな私の耳に、珠貴は容赦なく話しかけてきた。
「静夏ちゃん、あちらを引き上げて帰国されるらしいの」
「そうか、お袋も親父も喜ぶだろう。いいことだ」
「そうね、いいことかもしれないわね……
私の勘ですけれどと、お母さまがおっしゃったことだけど」
また勘か……と眠りかけた頭で昼の話題を思い出した。
「女の第六感は侮れないらしいね」 と言おうとしたが、眠気が強くなり口が
動かない。
「静夏ちゃん、好きな方がいらして、その方のあとを追うために
帰国を決めたんじゃないかって」
誰を追ってきたって?
なぜだか、静夏と知弘さんの顔が重なった。
それはありえないだろう……
歳がいくつ違うと思う、バカな……
自分の冴えない勘に呆れながら、それにしてもと思う。
女というのは勘で物事をとらえるようだ。
女性にしては現実的な考え方をする珠貴さえ、母の話に真剣に加わっている。
母が静夏のことを父より先に珠貴に話したのは、よほど気が合うからだろう。
女が先に秘密を知るのはいいことだそうだ……
会長夫人の言葉を珠貴に教えようとしたが、もうどうにもならないほどの眠気
が襲ってくる。
耐えきれずに目を閉じた。
このとき、見えない何かが加速するように進み始めていたのだが、そんなこと
など思いもせず、柔らかな膝に頭を預け、ひとときの心地よさに甘んじていた。
頭の上では、まだ珠貴のおしゃべりが続いていた。