ボレロ - 第二楽章 -

エレベーターの扉が、静かな機械音とともに閉まっていく。

ゆるやかな動きをじれったく思うこともあるが、今夜は息を整えるのにちょうど良い間合いだった。



「静夏ちゃん速いわね。私も走るの得意なほうだけど、ふぅ……息が切れちゃった」


「脚には自信があります。逃げるときは、特に……」


「私も」



顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。

小さな笑いが互いの緊張を解いた。



「珠貴さんが追いかけてくるなんて思わなかった」  


「宗も知弘さんも呆然として動けなかったのよ。宗なんて石みたいになってたわ」


「残されたふたり、何を話してるんでしょうね」


「さぁ、わけもわからずうろたえてるんじゃないかしら。自分のせいだと嘆いてるかも」


「嘆いても、なにも始まらないのに……男って、どうして……」


「面倒な生き物だわ」



私の返事が意外だったのか驚いた顔をしたが 「本当ですね」 と静夏ちゃんからも同意の言葉が聞こえてきた。

一階に到着したエレベーターの扉が音も静かに開き、並んで歩きながら、どこへ行くんですかと彼女が聞いてきた。



「ホテルにお部屋をとりましょうか」


「えっ?」



突然の提案に静夏ちゃんが、また意外そうな顔をした。

ホテルですか? と確認するように聞き返し、泊まるんですかと重ねて質問した。



「そう、うんと贅沢な部屋があればいいけれど……

今日みたいな日は、家に帰りたくないでしょう。それとも、知弘さんのお部屋に戻る?」



彼女は大きくかぶりをふり、それだけは嫌だと激しく否定した。

宗のお部屋も嫌でしょう……と聞くと 「はい」 と小さく返事があった。



「了解、ちょっと待ってね。お部屋、聞いてみるから」


「聞くって? 狩野さん……ですか」


「狩野さんに違いないけれど、お聞きするのは狩野さんの奥さま」



奥さまですか? とまた鸚鵡返しのように静夏ちゃんが聞き返す。

今夜の私の口からは、彼女にとって予想もしない言葉が飛び出しているのか、大きく見開いた目が何度も瞬きをした。



『佐保さん、こんばんは。いまお話できます?』



えぇ、大丈夫ですよと穏やかな返事があり、佐保さんのお力をかしてほしいと告げると 「まぁ 私でお役に立つかしら」 と謙遜しながらも嬉しそうな声だった。



『女性向けのスイートのあるホテルをご存知ありません? 

できたら……狩野さんのところではなく、ほかを紹介していただきたいの。

勝手なお願いでごめんなさい。宗一郎さんには内緒にしておきたいので』


『うふふ、秘密ですね。はい、わかりました。では、狩野にも内緒にしておきますね。今夜のご宿泊ですか?』


『えぇ、私ともうひとり……』


『友人が勤めるホテルに、夏休み前の企画として女性向けのプランがあったはずです。すぐ確認して折り返しお電話します』



ほどなく佐保さんから電話があり、都内のホテルを紹介された。

そこはスパは充実しており、女性客に大変な人気だという。



『珠貴さんのお名前で予約させていただきました。友人がお二人の担当になるはずです。 

どうぞなんでもおっしゃってね。エステが特にオススメだそうですよ』


『わぁ、楽しみだわ』


『ゆっくりなさってくださいね。私もいつか体験したいと思っていたんですよ。 

でも、妊婦はうつぶせにはなれませんもの。本当に残念』



来月末に出産をひかえている佐保さんは 「いまはエステどころじゃありませんものね。それに、狩野から頼むからおとなしくしているようにといわれているので、静かにしてます」 と電話の向こうで笑っている。

「ほうっておくと、この人は無茶をするから」 と狩野さんが言うのも無理からぬことで、私が誘拐された事件では妊娠を隠して事件解決のために大役を引き受けた経緯があった。

優しげなお顔立ちに似合わぬ、と言っては失礼かもしれないが、彼女はこんな大胆さも持ち合わせていて、お会いするたびに新しい魅力を発見する、とても頼もしい方だった。

「いつかご一緒しましょうね」 と約束をして佐保さんとの電話を終えた。



「さぁ、いきましょうか。とってもステキなホテルみたい」


「スパリゾートって聞こえましたけれど、エステも?」


「かなり充実しているそうよ。楽しみね。そのまえに……彼らに連絡しておきましょうか、心配しているでしょうから」



嫌だと言われるのではと思ったが、静夏ちゃんは黙ってうなずいた。

宗の携帯に電話をして、静夏ちゃんと一緒だと伝えると 「良かった……」 と安堵のため息が聞こえてきた。

そちらには戻らない、今夜は彼女と過ごすので、私は知弘さんの部屋に泊まったことにして、静夏ちゃんは宗と一緒ということにして欲しいと、今夜のアリバイの手助けを頼むと、驚くほどすんなりと私の提案は受け入れられた。



「珠貴、彼女を頼む……」 



電話を代わった知弘さんの悲痛な声が、いつまでも耳の奥に残った。



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