ボレロ - 第二楽章 -
弾かれたように知弘さんが顔を上げた。
自分に向けられた微笑に、どう対応していいのかわからないといった顔をして
いる。
「あの……」
「静夏は何も申しません。この子は、寂しいくらい母親を頼りにしませんの。
なにもかも自分で決めてしまって……
それでもね、母親にはわかるんですよ。娘の変化は敏感に感じ取るものです。
その代わり、息子の考えることはわかりませんけれどね」
ふふっと口元に手を当てて、ちらっと宗の顔をご覧になる仕草が愛らしく、
緊張していた知弘さんの口の端が少しだけほころんだ。
「何か思いつめているようだと、思っておりましたけれど……」
「静夏さんにはすまないと思っています」
「まぁ、それでは娘の一方的な想いでしたのね」
「いえ、そうではありません」
うつむいていた知弘さんが、このときばかりは毅然とした口調で否定したも
のの、私も静夏さんを……と言った言葉の先が続かない。
知弘さんのために、なんとか言葉を添えたいと思ったが言葉が見つからず、
もどかしい思いだけがこみ上げてくる。
それでも、一歩前へ出ようとして足を踏み出したところ、宗の腕につかまった。
首を横に振りながら、強い力で私を引き戻す。
この場に踏み込んではいけないと諭すように、宗の厳しい目が私を見つめた。
「……静夏さんと、感情の行き違いがありました。
彼女に負担をかけたくないと思ってのことでしたが、
かえって不安にさせてしまったようです」
「そうでしたか……わかりました。では、ふたりでよく話をなさってね。
あぁ、お話できて良かったわ」
それだけおっしゃると 「宗さん」 と呼びかけ 「阿部さんからお電話を
頂いたのよ」 と険しい顔になり、話題を切り替えた。
阿部さんとは、私たちが宿泊していたホテルの社長だった。
初期の対応は、当日の当直責任者である副支配人が窓口となっていたが、ホテ
ルの大事な常連客が起こした不祥事を、なんとか表に出さず力で押さえ込もう
とする態度が、あまりにもあからさまだったと宗から聞いていた。
近衛静夏が何者かを知らない副支配人は、事件の処理を急ぐあまり金銭でかた
をつけようとし、拒んだ静夏ちゃんを 「素直に聞いたほうが身のためだ」
と罵った。
事の次第を宗から聞いた狩野さんが、すぐに阿部社長へと直接連絡をし、驚い
た社長から近衛家に謝罪の一報があったのだという。
初めて利用した若い女性客より、大物の常連客の言い分を通そうとした副支配
人の失態だった。
「こちら側に大変な失礼があったそうですね」 と、宗のおかあさまのいつも
の穏やかな顔はなく、私が初めて目にする厳しいお顔だった。
「狩野さんが間に立ってくださるそうね」
「彼の奥さんが紹介したホテルですから、狩野も責任を感じているんでしょう」
「狩野さんのお力をお借りして、お話を進めてちょうだいね。
おとうさまがお留守のときに、あなたも大変でしょうけれど」
「いや、留守でよかったかもしれないよ」
「まぁ、宗さんったら」
立ち尽くしている知弘さんに二人の顔が向けられ、知弘さんの顔がさらに恐縮
した表情になっていた。