ボレロ - 第二楽章 -
23. fgiocoso ジョコーゾ (おどけて)
南に面した窓を開けると、すべるように新鮮な空気が流れ込んできた。
夏の朝の空気は清々しく、体を浄化してくれる爽やかさがある。
寝苦しかった夜と心の重さを払拭するように大きく背伸びをし、胸にたまった
よどんだ空気を思いっきり吐き出した。
”蝉時雨の中で 朝食をどうだろう”
森のレストランで、夏の朝を一緒に過ごそうという宗の提案で、今日は朝早く
出かけることになっている。
その森は、彼にとって苦い思い出が重なる蝉の声を、私たちの楽しい記憶に書
き換えた場所だった。
そんな大事な場所で、宗に暗い顔を見せたくなかった。
爽やかな空気をもう一度胸に吸い込み、深呼吸をして気持ちを整えた。
この頃の母は、何かにとりつかれたように、私の縁談に力を傾けている。
昨夜も、あれこれと言い含めるように言葉を並べる母に 「わかっています。
自分のことは自分で決めます」 と声を荒げてしまった。
少々度を越した指図が我慢ならず、つい言い返してしまったのだ。
母に反抗的な態度を示してはいけないと心に決めていたのに、私の我慢も限界
にきていた。
事の発端は、先月行われた曽祖父の法事だった。
曽祖父は、須藤の家が繊維を生業とする礎を築いた人だが、大層な趣味人で、
書画骨董はもちろん芸事にも秀でており、舞や謡曲もたしなんでいたと聞いて
いる。
何かと騒がしく窮屈な時代を過ごしたはずであるのに、いかなるときも悠然と
した佇まいで、大声を放ちせわしく動くことなどない人物だったという。
元をたどれば高貴な流れをくむ出自であり、育ちの良さが曽祖父には備わって
いた、須藤の家には風雅な血が流れている、というのが叔母たちの自慢でも
あった。
親族が集う法事の場は、叔母たちには慣れ親しんだ雰囲気だったのだろう。
おしゃべりな口はいつにもまして饒舌で、大げさな身振りも加わり得意げに見
えた。
「紀代子さんはご存知ないでしょうが、謡い (うたい) というのはね……」
とはじまった叔母の曽祖父の思い出話が延々と続き、最後は
「紀代子さんのご実家は……」 と母の実家である青木の家が、学者の家系で
あるのを少しばかり見下げた言い方になっていた。
風雅なことなど解さぬ学者の家に育った人、と言うのが母をあらわすもので、
その奥には学問に秀でた青木の家を羨む目も含まれているのだが、いつもの
叔母のやっかみが含まれた言葉は、その日は母の胸に棘となって刺さった。
叔母たちは、ことあるごとに 「須藤の家のしきたりもあるのですよ。
紀代子さんも守っていただかなくてはね」 などと家風をふりかざし、私の
縁談にも当然といった顔で口を挟む。
母や私の意見など聞きもせず 「珠貴さんのためですから」 と縁談を持ち
込み、自分たちの眼鏡にかなった相手に会うように勧めてくるのだ。
昨年の私の誘拐事件で、間接的ではあったが事件の関与があり、立場を弱くし
ていた叔父や叔母は、しばらく発言を控えていたものの、法事のおりは味方が
大勢いたこともあり、その振る舞いは目に余った。