ボレロ - 第二楽章 -
森のレストランは、一年前と変わらぬ姿で私たちを迎えてくれた。
蝉の声はこれでもかと降り注ぎ、その声に負けないほど私たちは話をかわし、
食事を楽しんだ。
早朝から予期せぬ事態に遭遇し、あらたな心配事が増え、とてもではないが
食事どころではないと思っていたのに、森の風によって運ばれる香りが、私の
空腹を呼び起こした。
新鮮な野菜をふんだんに使ったスープは優しく胃を満たし、香ばしく焼きあ
がったパンをいつになく手に取り頬張った。
「こんなにたくさん頂いたのは久しぶりよ。
極度に緊張するとお腹がすくのね。初めて知ったわ」
「エネルギーを使ったんだろう。それにしても、ここの蝉は相変わらずだね」
蝉の声を聞いても、もう何も感じなくなったよと、宗は懐かしい目をしな
がら、賑やかな声が降り注ぐ木々を見つめている。
一年たったんだねと感慨深い声がして、木を見つめていた顔が私へと向いた。
「来月、須藤社長にお会いすることになった」
「そう……父は、あなたのお話が何か知っているの?」
「いや、個人的にお会いしたいとお伝えしたが、
おそらく仕事の話だと思っていらっしゃるだろう」
「驚くでしょうね」
「うまく話せるだろうか。いざとなると、言葉が出てこないかもしれない」
「私、待ってるだけでいいの?」
「待っててくれればいい。おそらくその場で返事はいただけないだろうから、
須藤社長がどう思われたのか、どのようにお考えなのか聞かせて欲しい。
俺は珠貴を諦めるつもりはない。必ず良い返事をもらえると信じている」
「わかりました」
宗は覚悟を決めた目でうなずき、拳を握り締め気合を入れる仕草をした。
私の家の事情で、簡単には許しをもらえないだろうことは、初めからわかって
いた。
諦めるつもりはないと言い切った宗の言葉は、私を安心させ強い支えとなった。
食事のあと森の中を歩きながら、今後の予定と宗の考えを聞いた。
私たちが結婚へ踏み出すには、父の説得が何よりも重要だった。
珠貴を全力で支えていく覚悟がある、この気持ちをわかってもらえるまで、
何度でも足を運んで話を聞いてもらうのだと、熱を帯びた宗の口が父と向き合
うその時を語ってくれた。
彼の決意に、私も高揚してきた。
一方で、母への対応をどうするべきか迷いが生じていた。
まずは父を説得し、了解をもらう。
母は父の意見にしたがうはずだから、母への対応は難しいものではないと思っ
ていたが、今朝方の母の反応を見る限り、決して安心できるものではない。
むしろ、不安材料が増えたのではないか。
私が、近衛宗一郎との交際を故意に隠していた……母がそう受け取っただろう
ことは否めない。
帰宅後、母のどんな厳しい言葉が待っているのかと考えただけで、重苦しい
気分が押し寄せてくる。
楽しかった朝食のひと時に、暗い影がさしてきた。