ボレロ - 第二楽章 -
5. amoroso アモソーゾ (愛情に満ちて)
いつもなら、取り澄ますように結ばれている口元が柔らかく見えるのは、
あながち私の見間違いでもなさそうだ。
誕生日に渡した小箱が、浜尾真琴の鉄壁ともいえる秘書の顔をほころばせる
効果があったとは驚きだった。
淡々とスケジュールを告げる平坦で抑揚のない声までが、弾んでいるように
聞こえてくる。
今夜の会食でございますが、と細かな予定を告げる真琴の声に、神妙に頷く
振りをしながら盗み見た唇も艶やかで、コイツもこんな顔をするのかと少し
ばかり眩しく見えた。
明日から3日間の休暇に入る彼女は、息をつく暇さえないのではないかと
思えるほどの指示を部下達に与え、私には完璧なスケジュール表が用意されて
いた。
彼女の上司にあたる平岡でさえ 「野田様にもう一度確認をお願いします」
と念を押される有様で 「あぁ、わかっている」 と平岡のうんざり顔が
鷹揚に答え、”浜尾さん、どうにかなりませんかね”
と助けを求めるような目が私に向けられたので、男だけにわかる同情の笑みを
返してやった。
「楽しんでくるといい。お母さんも楽しみにされているだろう」
「私まで休暇を頂いて申し訳ありません」
「こんなときでなきゃ親子で旅行なんてできないよ。
だいたい浜尾さんって人は、こうでもしなきゃ休んでくれないと
お袋が嘆いてたぞ。
本当は一週間でも二週間でも、もっとゆっくり休んで欲しかったそうだ」
「いえ、それは……週末にかけてお休みをいただきましたから、
5日間のおやすみになります。充分です」
それでは勝手をいたします……と、定時より早く退社した真琴の背中を平岡と
見送り、背筋の伸びた背中が廊下を曲がり姿が消えると、どちらからともなく、
ふぅっと息が漏れ気の抜けた顔を見合わせた。
部屋の中へと靴先を向け、ドアを閉める音を聞く頃には、仕事の顔から
先輩後輩の顔へと変っていた。
平岡が手馴れた様子でコーヒーを注ぎ、気を使う相手のいないテーブルに、
ソーサーなしのカップを無造作に置く。
コーヒーなんてのは飲めればいいんだというのが我々男の言い分で、カップを
おくたびにカタカタと煩い音のするソーサーは男二人の間には無用だった。
誰に咎められることもないのをいいことに、いつもならほんの少量入れる
クリームをドボドボとカップへ注ぎ、乱暴にかき混ぜたのちゴクリと喉に
流し込む。
客の目を気にしてというより、何事にも厳しい真琴の手前、気取って飲む
ブラックのコーヒーとはまるで味が違う。
まろやかな味わいが口の中で存分に広がり、鼻腔をのぼる香りは体中を
リラックスさせていく。