ボレロ - 第二楽章 -
夕暮れ時の道には人があふれ、ある一角は人でごった返していた。
地元の人々だけが知っているベストポイントなのかもしれない。
私が出向いた先は、人の多い場所からやや距離のある路地裏で、近くまで
乗ってきたタクシーの運転手の案内どおりに進むと、ある醸造元の蔵前に
たどり着いた。
賑わいもない戸口前で戸惑っていると、戸が開き意外な人が顔を見せた。
「ようこそおいでくださいました」
「志乃さん」
私を迎えてくれたのは、宗と時々通う 『割烹 筧』 の大女将の志乃さんで、
今夜の装いもため息の出る着こなしだった。
「私どものお客様をご招待いたしまして、
毎年こちらで花火見物を楽しんでいただいておりますの。
まぁ、まぁ、小千谷縮 (おぢやちぢみ) が良くお似合いですこと……
思ったとおりでしたわ」
首を傾け、ふふっと口元に手を添え上品な笑みをたたえながら、今夜にいたる
いきさつが志乃さんから語られた。
「いつでしたか、宗一郎さまがお見えになられたときでございました。
”大女将、女性の機嫌を直すにはどうしたらいいでしょうね”
とお聞きになられて、私、こう申し上げましたの。
”特別な日を設けて、その方をご招待なさいませ。
その場合、いきなりお誘いするのは禁物です。
日にちとお時間に余裕を持ってお知らせして、どんな服装がふさわしいのか、
きちんとお伝えすることですよ” とね」
「志乃さんのお知恵でしたのね。
宗一郎さんが浴衣でとおっしゃった意味がわかりましたわ」
「殿方は場所さえ選べば、それで良いとお思いの方がおおございます。
ですが、女はそうはまいりません。
ふさわしく装うために用意することが山ほどございます。
それを考えるのも楽しい時間ですから」
「本当にそうでした。どんなお着物がいいかしらと、
考えるだけで気持ちが弾んでまいります」
満足そうに頷いた志乃さんは私の小物選びを褒めながら、3階の部屋の奥へと
案内した。
通された部屋は8畳ほどの和室で、開け放たれた障子の向こうに暮れていく
空が姿を見せていた。
人の気配にゆっくりと振り向いた宗は、私の姿を見ると素直に嬉しそうな顔を
して、「やぁ、きたね」 とまるで昨日も会ったように声をかけてきた。
打ちあがる花火の見事さは例えようもなく、箸を運ぶ手がしばしば止まる
ほどで、私たちのほかには誰もいない贅沢な席から見る花火に目を奪われ、
宗との気まずい時間などとうに忘れてしまっていた。
先に食事を終えた宗は待ちきれないように窓辺へと行き、打ちあがるたびに
歓声をあげている。
こっちにこいよと無邪気な声に促され、窓辺の腰掛に並んで座った。
景観を損なわないためか浅い手すりが設けられていたが、そこから私を守る
ように腰を抱き、花火の合間には空いた手で街並みを指し示しながら、
あそこが何 向こうはこうだと教えてくれる。
打ち上げが始まると、ときおり 「わぁ……」 とため息のような感嘆の声を
漏らす以外は、ふたりとも無言になっていた。
するりと脇に忍び込んだ宗の手の動きに甘い声がもれる。
頬をなで、首の角度を変えながら宗の顔が近づいてきた。
今夜の私には、彼を拒む理由などどこにもなかった。