ボレロ - 第二楽章 -
頭の中はいまだ混乱したままだったが、スタッフに気取られてはいけないとの
思いだけはしっかり持っていたようだ。
「そろそろ仕事に戻りましょうか」 とみなに声をかけ、私も自分のデスクに
戻り腰を下ろした。
書類に目を通す振りをしていたが、ペンを持つ右手が小刻みに震えていた。
異臭を吸い込んでいるかもしれない彼の体を心配しながら、私の気持ちの
落ち着かない原因はほかにもあった。
『真琴』 と呼び続ける宗の姿に衝撃を受けていたのだった。
数分後、戻ってきた蒔絵さんはさりげなく私を廊下へと促した。
「平岡さんにもまだ、はっきりとした情報は入っていないようです。
これから秘書の方が運ばれた病院に行くそうなので、
何かわかったら私に連絡をくれることになっています」
「わかったわ。ありがとう。
さっき……体が動かなくて、自分でもどうしていいのかわからなくて……」
話しながらまたも体が震えてきた。
震えを抑えるために腕を抱える私を、蒔絵さんの温かい手が包み込む。
部屋から出てきたスタッフが、大丈夫ですかと声をかけてきたのだから、
私の顔はよほど青ざめていたのかもしれない。
「立ちくらみでしょう。座って少し休んでください」
「えぇ、そうね。そうするわ」
蒔絵さんの機転でその場をしのぎ、私は席に戻ると椅子の背を倒し深く
もたれた。
目を閉じると先ほどの画面がよみがえってきた。
浜尾さんを抱きかかえ大声で叫ぶ宗の顔は必死の形相で、彼女を助けること
のみに意識が向けられているのが 宗の体全体から伝わってきた。
いつもなら ”浜尾君” と呼んでいるのに、切羽詰った状況は彼に余裕を
与えなかったのだろう。
何度も ”真琴” と呼びかけ、その姿はまるで家族か恋人の身を案じるもの
だった。
二人の間には、私が決して入り込めない絆があるのだと画面を通して思い
知らされたのだった。
『彼はより長い時間彼女のそばにいた。
俺との時間とは比べものにならないくらいにね』
理美さんの心をつかめなかった理由は、ともにすごした時間の差だと宗は
言っていた。
彼の婚約者だった理美さんが心を寄せていたのは、彼女のそばに仕える男性
だった。
どんな気持ちで宗がその後の辛い時間をすごしてきたのか、今なら少しだけ
理解できるような気がする。
胃の奥をつかまれ、上下に揺さぶられたような不快感が沸き起こる。
それからの一時間を、私は例えようのない苦痛とともにすごすことになった。