さよならの魔法
朝は、お父さんが学校に車で送ってくれた。
1人だと、なかなか行きたくないだろうと、わざわざ仕事を遅刻してまで。
たった1人の父親。
家での唯一の味方であるお父さんの細やかな気遣いが、私の折れてしまいそうな心を支えてくれる。
みんなの登校時間よりも少し遅い、午前9時。
1時間目の授業中が、私の秘密の登校時間。
この時間に登校していることを知っているのは、ほんの一握りの人間のみ。
「行ってきます………。」
「気を付けて行けよ、ハル。」
車を降りる時に交わされる、毎朝お決まりの挨拶。
昇降口はすぐそこなのに、必ず気を付けてと言ってくれるお父さん。
お父さんの優しさが、言葉の裏に滲み出ているのだ。
「ハル、帰りは大丈夫か?1人で帰れるか?」
「大丈夫だよ、お父さん。私、もう中学生だよ?」
不安そうに聞くお父さんを安心させてあげたくて、微笑みながら答える。
行きは送ってもらえても、帰りは1人で帰らなければならない。
どんなに心細くても。
どんなに怯えていても。
だから、私は、誰にも見つからない時間に登校する。
そして、誰にも見つからない時間に下校するのだ。
「みんなが授業を受けてる時間に帰るから、平気だよ。」
それでも、他の生徒に会う可能性は0ではないけれど。
クラスメイトに会う可能性は、限りなく0に近い。
午前9時に登校して、昼過ぎには下校する。
それが、私の平日のスケジュール。
登校時間は授業中だから、ほぼ誰にも顔を合わせることなく、保健室まで辿り着ける。
保健室にさえ顔を出せば、一応、特例で出席扱いにはしてもらえる。
お父さんが、校長先生に頼み込んでくれたからこその特例だ。
誰もいない廊下。
誰の声もしない。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
見上げれば、教室棟の3階が目に入った。
3階の1番端に位置する教室。
1度も足を踏み入れたことのない、自分のクラス。
3年1組の教室。
あの教室に、私の居場所はあるのだろうか。
あの教室に、私の机は置かれているのだろうか。