放課後ラプソディ
間奏
「いまじゃスマホ小説って言うのかな」
池袋駅からだいぶ歩いて、さらにビルのエレベーターに乗った、隠れ家のような場所にあるファミレスで、私は親友相手に自分の書いたケータイ小説について話していた。
さっき厨房をのぞいてみたら、店員が一人もいなかった。レジには一応、男性が一人いる。ここ、人が足りてないのかな。
私たちのいるテーブルのまわりは、すでにお客さんがいっぱいになっている。
ちょうど夕飯前ぐらいの時間だ。
こんなささいで日常の光景だって、うまいこと切り取れたら物語になるのかな、なんて、ケータイ小説家気取りで考える。
ケータイ小説も含め、ネット上でのありとあらゆる文章は、その一時(いっとき)の記録でもある。
なにかを丸ごとそのままの形で書こうとすると、自分の主観をどこまで入れたらいいのか迷ってしまう。
携帯電話の前はポケベルだったけど、もうポケベルは使えない。
ケータイは、ガラケーと言われ、いまの主流はスマートフォン、略してスマホだ。
あの頃のケータイ小説は、ブームだった。それがいまでは去ってしまった、とはっきり言えてしまう現実がある。
池袋駅からだいぶ歩いて、さらにビルのエレベーターに乗った、隠れ家のような場所にあるファミレスで、私は親友相手に自分の書いたケータイ小説について話していた。
さっき厨房をのぞいてみたら、店員が一人もいなかった。レジには一応、男性が一人いる。ここ、人が足りてないのかな。
私たちのいるテーブルのまわりは、すでにお客さんがいっぱいになっている。
ちょうど夕飯前ぐらいの時間だ。
こんなささいで日常の光景だって、うまいこと切り取れたら物語になるのかな、なんて、ケータイ小説家気取りで考える。
ケータイ小説も含め、ネット上でのありとあらゆる文章は、その一時(いっとき)の記録でもある。
なにかを丸ごとそのままの形で書こうとすると、自分の主観をどこまで入れたらいいのか迷ってしまう。
携帯電話の前はポケベルだったけど、もうポケベルは使えない。
ケータイは、ガラケーと言われ、いまの主流はスマートフォン、略してスマホだ。
あの頃のケータイ小説は、ブームだった。それがいまでは去ってしまった、とはっきり言えてしまう現実がある。