殉愛・アンビバレンス【もう一つの二重人格三重唱】
 翔は翼が生きていると思い込んでいた。
いや、思い込ませていたのだった。


そうすることで楽に生きられたのだった。


殺人者の子供。
その事実を封印するために。


いや、死んだこと自体を忘れていたのだ。

だから常に思い描いた。
だから妬ましくてならなかったのだ。


勉強をしなくても出来る翼が……


あの……
勝が仕掛けたクリスマスイブのサプライズがきっかけだった。


目を覚ました時、翔は思わず言った。


『じっちゃん』
と――。


あの朝、隣で眠っていた陽子に驚いた。
翔にとって陽子は見も知らないただの女性だったのだ。


それが、翼として生きてきた自覚に繋がったのだった。




 翼と翔の会話。

それは、翔の妄想と幻覚だった。
翔の部屋の姿見と、堀内家のガラス戸に映し出された幻影をそれぞれだと思い込んでいたから成立したのだ。

だから陽子には、見えなかったのだ。


翼はコーヒー嫌いだった。

それは翔が思い込ませていたのだ。
確かに翼は父親である孝の入れたコーヒーが飲めなかった。

それはブラックだったからだ。

コーヒー界の頂点に位置するブルーマウンテンでさえも、翼にはただの苦い飲み物だったのだ。


孝の教えを翼に説いた翔。

それは、自分と翼は違うのだと意識した結果だった。

自分は飲めるようになったコーヒー。

それで、二人の差別化を図ったのだった。




 薫が、翼が生きているように見せるために用意した二つの自転車。

シルバーは翔のだった。

カモフラージュと知っていながら、その事実さえも封印した……
だからそれと同じ色の自転車を見ると、翼は幻覚を見てしまうのだった。




 薫は嘆いていた。

愛する翔が翼の精神を受け入れてしまったことを。


仕方なく、二人が居る振りをする。

大晦日の会話も、本当は咄嗟に出た言葉だったのだ。

『翔は?』
と翔は翼になって聞く。


『寒いのは苦手だって』
そう言ってごまかした。

苦しい言い訳を……




 父親の孝は、そんなのはどうでも良かった。

だから翔が翼を演じていても気が付かなかったのだ。


まして、香が翼を殺してしまったことなど気付くはずもなかったのだ。


孝はずっと以前から、香を疎ましく思っていた。

香の子供の翔も、薫の子供の翼も眼中にはなかった。

あるのは、目の前にいた陽子だけだった。



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